暗い時代の人々 森まゆみ

2016.10.21

14西村伊作と文化学院の抵抗(下)

 

 明治四十三年、大逆事件の時、西村伊作は社会主義者ではなく、二十七歳の青年だった。警察の調べは伊作にもおよんだが、証拠不十分で釈放された。
 また大石家の親族は、この事件によって新宮教会を脱退しなくてはならなかった。

西村伊作西村伊作(にしむら・いさく):1884年、和歌山県新宮市生まれ。日本の教育者、実業家。クリスチャンの両親のもとに生まれ、山林主の母方の西村家の養子となる。実業家としてさまざまな事業を展開すると同時に、生活改善の運動や文化事業にも多大な尽力を果たした。1921年に私財を投じて自由な教育で知られる文化学院を創設。与謝野晶子・鉄幹夫妻などをはじめとした、そうそうたる講師陣による講義と自由な校風が特徴で、その伝統は現在にも引き継がれている。戦時中はその自由主義的な発言と活動により弾圧も受けるが、自らの生き方を貫き通した。1963年没。

 伊作にとっても、この時処刑された叔父への思いは生涯、継続した。莫大な財産を背景に、伊作はシンガポールへ行ったり、絵画を製作したり、日和山に建てたバンガローを解体して新宮に移し、二階建ての家を建てたりする。これが今も建っている西村伊作記念館。
 ここを与謝野夫妻、石井柏亭、富本憲吉・一枝夫妻、牧師の沖野岩三郎や彫刻家保田龍門などが訪ねて長逗留した。私はその家を見に行ったことがある。我が住む文京区の小日向にあった新宮出身の作家佐藤春夫の家は大石七分の設計で、それを文京区に残すことができず、新宮へ移築されたので、悔しさ半分で見にいったのである。石井柏亭などは一ヶ月も逗留し、英国風のベーコンエッグ、オートミールなどのパンと紅茶を供された。柏亭はここでの西村一家の絵を描いている。大正四年には与謝野晶子が子どもと女中を連れて新宮に来た。大正六年には「青鞜」の新しい女の一人であった尾竹紅吉が富本憲吉と結婚して新宮を訪れ、伊作はその影響で陶芸を始めた。

現在の西村伊作記念館

現在の西村伊作記念館

 さてその後も、伊作と光恵の子供は増え、長男久二、次女ユリ、三女ヨネ、次男永吾、四女ソノ、五女ナナ、三男八知、六女久和、と九人になった。一人で産んだ光恵は大変だったろう。
「私は事業をしない。金儲けの仕事をする必要もない。だから私は主に家庭にいて、家庭で楽しむということをした」「子供たちの数が増え、そして大きくなるにしたがって、ご飯を食べる時は食堂のテーブルを大きく引き伸ばして、その周りにいっぱい座った。(・・・・・・)子供も自由にいろいろ話をして賑やかにディスカッションをし出す。食事が終わってもそのディスカッションが続く」(『我に益あり』)
 子供達は食後の食堂で絵を描いたり、人形芝居をしたり、庭で育てた花を売りに街に出かけたりした。長女のアヤ(後の石田アヤ)は小学生の時『ピノチヨ(ピノキオ)』の絵本を出版した。伊作の友人の佐藤春夫がイタリア語から英訳した「ピノキオ」をアヤに与え、伊作が娘のアヤに読み聞かせをするうちに、アヤの再話と絵による「ピノキオ」ができあがったのだという。これが日本におけるピノキオの最初の単行本だった。長男の十一歳の久二の描いた絵は二科会で入選した。
 妻の光恵は、自分の子供の着やすくて動きやすく、かわいい服を作ることから『愛らしい子供服』という本を出版し、大正自由主義の家庭教育のブームの中でよく売れた。これは伊作が海外から取り寄せた雑誌やカタログを参考に、伊作主導で出された本のようである。自伝『我に益あり』には妻のことはほとんど出てこない。妻の考えや人柄も出てこない。理想を考えるのは伊作であり、それをともに実践するために妻を教育する。これを伝記作者の黒川創氏は「独善的かつ独裁的な家庭人」と評価している。
 伊作自身も『楽しい住家』はじめ家族重視の住宅の本を出し、それを見て住宅設計の仕事が舞い込んだので、技術者を雇って関西に建築事務所を設立した。大正時代に入ると、エベネザー・ハワードの「田園都市」が反響を呼び、東京の郊外住宅地が次々と出来ていった。こういう町にあった、簡素で美しくすみやすい洋風の住居も求められていた。しかし伊作の理想の家は、家事をする側の論理では作られていなかった。収納スペースが少なすぎたり、屋上のタンクに水をためるのも重労働だったり。
 同じ頃、伊作の弟眞子は伊藤美寿恵と、末弟七分は角田いそと結婚して、それぞれが家庭を築いた。伊作は必要なことには金を使ったが、財産とか所有ということについてにははっきりしていて、近代的合理的な考えをしたので、新宮の人々は彼をケチだと思っていた。伊作の自伝には山林の経営についてはほとんど触れられていないが、彼は人を使って山を管理し、新しい木を植え、良い年数のたった木を売って、着実な林業経営者であった。一方、二人の弟は、兄だけが西村家の莫大な財産を受け継いだことに理不尽を感じていた。そこで伊作は祖母もんの財産を分けたりしたが、弟たちは分けるそばから山を売り、金を浪費してしまい、やがてすっからかんになるのであった。
 大正九年、軽井沢星野温泉で、西村家の人々は避暑に来た与謝野夫妻と出会い、自分たちの子どもを通わせたいような、自由で楽しい学校を作ろうと相談した。新宮の殺風景で、堅苦しい、美の片鱗もない保守的な女学校に自分の娘を入れたくなかったのである。与謝野晶子は「私たちは詩人で、あなたと意見が合わずに喧嘩するかもしれない。(文化学院の講師に)常識がある円満な石井柏亭を一緒に入れましょう」と提案した。十一月には神田駿河台にホテルを作ろうと買ってあった土地に伊作は設計の図面を引いた。ここは有名な浜田病院の院長の自宅があったところであった。それは病院や工場に見える日本の学校とは違う、イギリス風のコテッジで、ポーチにつるばらを這わせようと伊作は考えた。

文化学院の職員室での与謝野晶子・鉄幹(ルヴァン美術館パンフレットより)

文化学院の職員室での与謝野晶子・鉄幹(ルヴァン美術館パンフレットより)

文化学院で絵画の授業の指導中の石井柏亭(ルヴァン美術館パンフレットより)

文化学院で絵画の授業の指導中の石井柏亭(ルヴァン美術館パンフレットより)

 翌大正十年、東京の御茶ノ水駿河台に文化学院中学部が発足、長女のアヤも一期生となった。三十五人の生徒に四十人の先生がいるという贅沢な学校だった。学費は年間百二十円と高かった。制服もなく規則もなかった。そして十二年には木造三階建ての校舎が完成、伊作は家族とともにそこに移り住んだ。長男久二の小学校卒業に合わせて、共学にしたが、不幸なことに、その年九月一日に関東大震災によってできたばかりの校舎は全焼する。その時、新宮にいた伊作は、中山道経由で東京に急行、家族たちが与謝野邸に難を逃れて無事だったことを知る。与謝野晶子は「源氏物語」の翻訳草稿を木箱に入れて文化学院に保管を依頼してあったが、これも消失した。西村伊作の家族はその後、日暮里渡辺町の石井柏亭の家に一ヶ月ほど世話になり、横浜から新宮に帰郷した。
 父母の震災死、叔父の刑死、それに次ぐ第三の痛手であったが、翌大正十三年一月にはバラック建ての校舎を建てて、授業を再開する。伊作の信念はめげなかった。関東大震災後はこのようなバラック建築が雨後の筍のようにたくさん立った時期であり、バラック装飾社などという芸術家たちも活躍した。これは震災後の街に建ち並ぶバラックに美しい絵を描いて装飾してまわるという、ユニークな文化活動だった。その中心であった今和次郎はのちに文化学院の教師となる。
 この間も、西村伊作は建築事務所を神戸に移しながら、開明的な経営者であった大原孫三郎との交流から倉敷の保育所や、倉敷の住宅群、倉敷教会なども設計した。そして、震災後、文化学院の本建築の建物が完成したのは昭和十二年であった。
 この間、文化学院には大学部ができ、文学部長は与謝野鉄幹、美術学部長は石井柏亭が務めた。その後、文学部長は菊池寛、千葉亀雄と変わってゆくが、石井柏亭は美術部長を長らく務め、四人の子どもを皆文化学院に入れた。柏亭の家は大正の郊外住宅、日暮里渡辺町にあり、柏亭の娘さんお二人松村美冬さん、田坂ゆたかさんに文化学院当時のことを伺ったことがある。
 お二人はとにかく父親が大好きで、家庭は民主的かつ芸術的に運営され、家庭雑誌を出したり、家庭でのクリスマス、そこでの家族劇団などの話を楽しそうにしてくれた。これは西村家にも、富本一枝と憲吉の家庭にも共通に見られるものである。
 文化学院で教えた教師はそうそうたるものだ。与謝野夫妻、石井柏亭のほか、有島武郎や山田耕作、芥川龍之介、北原白秋、川端康成、谷崎潤一郎、平塚らいてう、竹久夢二、高浜虚子、木下杢太郎、萩原朔太郎、和辻哲郎、棟方志功、吉野作造、美濃部達吉……。石井柏亭は当時流行った自由童画でなくデッサン力を養うことを教えた。萩野綾子の歌唱指導、山田耕筰の創作舞踊、山脇敏子による手芸など生徒の覚えているユニークな授業は多い。
 卒業生には、田中千代、井口愛子、佐江衆一、野口冨士男、萩原葉子、入江たか子、水谷八重子、長岡輝子、夏川静江、亀井文夫、飯沢匡、谷桃子、青地晨などがいる。一般に学術よりも、文学、美術、ファッション、演劇、映画の世界に多くの人材を輩出した。
 この学校では、男女の交際があってもそれがために、制裁を受けるということはなかった。野口冨士男によれば、文化学院はブルジョワ学校のように思われていたが、昭和五年頃は、マルクス・ボーイやマルクス・ガールが半数近くいたそうである。評論家の青地晨は文化学院で級友の寺田寅彦の令嬢、雪子と恋に落ち結婚した。雪子の早世によって幸せは長く続かなかったけれども。
 寄付を募らなかったのは西村伊作がパトロンの口出しを恐れたからである。伊作の紀州の山を売ったお金が経営に使われ、いつも赤字であった。それでも文化学院の教員の給与は高く、与謝野晶子の提唱で、いちどきに半分にしたことすらあった。昭和十年、文学部長であった与謝野鉄幹がなくなり、文化学院で告別式が行われた。伊作の子供達は成長して、長女アヤはアメリカに留学、長男久二は建築家となった。「私は九人の子供を皆外国へ行かせ、世界一周させることを望んでいる」「金はいつなくなるかわからないけれども、心の中にある記憶というものは、その人間を作って、そして人間の生きている間はその心の中に入っているから、それは子供のためにいい貯蓄だと思う」(『我に益あり』)
 次女ユリはパリで知り合った建築家坂倉準三と結婚、三女ヨネは日米学生会議の一員として渡米、ニューヨークで学び、戦時下の日本でノルウェイ人と結婚、四女ソノはプラハ領事市毛夫妻に同行して、のちウィーンからベルリン、スイスのベルンへと戦時中、危険な逃避行を続けた。伊作は費用は出したが、ビザや入学に関するすべての事務は子ども自身に行わせた。
 戦争の影は刻々と近づいていた。1941年十二月、日米開戦の頃、学院内でも国策に従って学院を存続させようという関係者と、不戦を主張する校長西村伊作の間で内紛があり、やがて河崎なつ、石井柏亭らは文化学院を辞職した。生徒の中には学院への不満を漏らし、改革を訴えるものも出てきた。
 先に述べた青地晨は昭和十六年に、同窓生による校長の即時辞職を決議した文を手渡しに行った。これに対し伊作は「この学校泥棒!」とストーブの灰かき棒を振り上げて怒鳴ったそうである。この後、西村伊作は校主となり、長女のアヤが校長となった。翌昭和十七年には長い間の協力者、与謝野晶子が死んだ。このころ、伊作の心は不安定で、病床の与謝野晶子に「あなたの病気は治らないのを知っているか」などと聞いたりした。伊作はTPOをまるで心得ない人であった。
 同じ頃、三女ユリの夫、坂倉準三は大東亜共栄圏を信じ、小島威彦らとともに「日本の原住民族は近東のスメル族であり、だから天皇をスメラ命というのだ」というような、スメル・クラブを作っていた。伊作は真っ当にも、この娘婿を「誇大妄想狂」と断じている。坂倉は岐阜の醸造家の家に生まれ、東大を出てル・コルビジェに師事し、日本のモダニズム建築の先駆者と言って良いが、昭和十二年のパリ万博の日本観を手がけ、こういう傾向にもあった。戦後の鎌倉近代美術館や国際文化会館は残すべき建築であるにせよ。

伊作の筆によるヘゲタレのスケッチ

伊作の筆によるヘゲタレのスケッチ(ルヴァン美術館パンフレットより)

 一線を退いた伊作は全てに苛立っていた。そのはけ口は長女のアヤであり、アヤ宛に激烈な批判の手紙が届いた。ルヴァン美術館の展示にはそういう一つが展示されていた。「月刊文化学院」に与謝野晶子の追想を書こうとした時のこと。「私の文章が危険なら、晶子さんの思い出を書いても危険な文句が出る。ヘゲタレども、怖いか。犬は人間が何を考えているか、何をせんとしているかわからないから、いつも人のそばにいても用心している。『月刊』のヘゲタレ! やめちまえ、卑怯なやつ。言論のない出版物は生命ないもの。やめよ、やめよ」そして、腰の引けたヘゲタレの図まで書いて見せている。
 昭和十八年四月十二日、入学式の日、六十歳の西村伊作は自宅から麻布六本木署に連行される。不敬罪、及び言論出版集会など臨時取り締法違反ということであった。伊作が学校で行う講話の中には「天皇はなくても良い」「三種の神器を拝むのは偶像崇拝である」といった文言があった。当時、こういうことを公に発言することはそれこそ、誇大妄想狂であり、国家に反逆するものであった。さらに彼は手紙に「我々は、皇后陛下から乞食の娘に至るまで、誰を愛しても良い権利を持つ」と書いたのであった。
 この時、警察がセダンで迎えに来た。「その時、フロントグラスのワイパーが右に左に揺れ動いていた」という父の言葉を息子の八知は覚えている。「伊作が過去を探り出す時には、いつもその情景というか、イメージの映像が元になっている」。それは「決して立派な映像ではなくて、素朴で可愛らしいものであった」。留置所に百日、それから巣鴨拘置所の独房に身柄を移された。その間、獄中にジュリアという混血の美しい女性がいた。「年を取っても私は、若い女性から来るラジエーションを受けることは楽しい」と自伝に書いてある。こういうところが伊作らしい。
 そして八月三十一日、東京都は文化学院に対し、閉鎖命令を出した。それは戦争に非協力だからということだった。その時いた生徒たちのうち、男子は東洋大学、駒澤大学、帝国美術学校、女子は帝国女子専門学校、千代田女子専門学校などに振り分けられた。九月四日、文化学院は閉校式を行い、建物は日本陸軍に接収され、そのまま捕虜収容所となった。十月四日、西村伊作の「不敬」事件の公判が行われ、石井柏亭、佐藤春夫、沖野岩三郎などが証人として喚問された。懲役一年の判決が下り、伊作は直ちに上告、保釈運動も起こし、保釈となってからは、妻とともに各地の神社を参拝する長い旅に出た。

 私は京都にお住まいの、人間国宝志村ふくみさんにお話を伺ったことがある。九十四歳になられるふくみさんは白く輝く髪を優雅に結いあげ、綺麗な色のセーターを着、胸元にゆるやかにスカーフを巻き、大変に若々しかった。「ドイツから帰ったばかりです」「まあ、長時間フライトで大変でしたでしょう」「いえ、機内で四つくらい映画を見て、一冊本を読めば着いちゃうわ」とお元気だった。来し方を伺う中で、先生は女学生の時には勤労動員とかされましたか、と伺ったところ、「するわけないわよ。文化学院ですもの」ときっぱり断言なさったのが、我が愚問と共に思い出される。
 1945年三月十日の空襲で、東京控訴院が消失したため、伊作が上告したのに裁判が行われることはなかった。そして終戦。伊作は六十一歳で、三島の家にいた。文化学院の建物は、そっくり無事であった。早速翌昭和二十一年四月二十五日、文化学院が再興される。伊作は再び院長となり、娘の石田アヤが学監になった。戦後の文化学院の講師もまた多彩である。
 山田洋次、三島由紀夫、井上ひさし、須賀敦子、遠藤周作、荒川洋治、辻原登と枚挙にいとまがない。卒業生にも、安井かずみ、辻原登、赤坂真理、金原ひとみ、稲葉賀恵、鳥居ユキ、久里洋二、平野レミなどがいる。

 二人の弟のことを少し記しておこう。眞子は機械好きで、明治三十八年、アメリカのカルフォルニアに留学し、帰る時にモーターサイクルを持ち帰ったのは前に記した通り。その後もソアー、ヘンダーソン、ハーレーなどのオートバイを輸入して乗り回した。南紀勝浦で鉄工所を開き、製氷所も経営したりした。伊作の絵に勝浦風景があるのは、そのためだろうか。大正四年に大阪で自動車部品輸入会社アメリカ商会を創業して今もその会社はあるという。大正十四年に胃がんのため、三十八歳で亡くなった。伊作によれば、女遊びもしたり、酒に酔って相当無茶なこともしたようである。
 車好きの次兄の死を「仕方ないと思っている」とドイツの留学先からいとこ宛のハガキに書いた末弟七分は、伊作に増して多能の人であった。高校時代にアメリカ・マサチューセッツの高校に留学、帰国後、絵を描いたり、大正九年には東京府下滝野川の農家を改造して、洋館の自邸を立て、女給をしていた妻いそ、子供と住んだ。大正九年にはフランスへ渡る。そこで妻以外の女性に夢中になり、妻を捨てようとしたり、金がなくなって精神に異常をきたしたりしたという。妻は早く亡くなり、七分は阿佐ヶ谷の伊作自邸、佐藤春夫邸を設計した。1959年に六十九歳で逝去。
 私自身のことを付け加えると、二度ほど、文化学院に招かれ、地域誌の発行や、住民によるまちづくりの講義をしたことがある。その時、教員名簿に尊敬する建築史家伊藤ていじ先生の名前を見つけて驚いたりした。さらに講義に先立って、西村八知校長が食堂でステーキをご馳走してくださった。学生食堂にステーキがある、しかも美味しいということも驚きであった。背の高い、すらりとした八知校長は、やはり彫りが深く、日本人離れした整った風貌であった。
 以上、自伝『我に益あり』を軸に西村伊作を追ってみた。1963年、東京オリンピックの前年に、伊作は七十八歳で膵臓癌で没した。強い我を曲げず、好き放題に生きた人だと思う。
 しかし気になることは幾つかある。例えば、和歌山の山持ちである伊作は、山で働いている人がどうやって木を切り出し、それを金に換えるか、についてはほとんど述べていない。「働く必要がない人は働かなくて良い」といった伊作の考えはどこから来るのだろうか。誰かの労働の搾取の上に好きなことをしていただけ、ともいえるだろう。
 さらに、娘や弟の結婚についても、教育、財産、家柄などへのこだわりが見え、有閑階級を肯定している。東大のような一般的なエリート教育には興味がなかったが、子女は皆留学させ、六人のうち四人が外国人と結婚し、残りの二人も学者と建築家と結婚した。
 さらに妻へは教育する、命じる、など上から目線の言い方が多い。結婚後、世界漫遊の旅に一人で出たり、子供を置いてシンガポールに行ったり、自分勝手なだけで、妻の人格や人権は無視されているように感じる。子供達の教育方針についても、合理的ではあるが、感情面で割り切りすぎであり、こういうところが伊作が不人情、冷たいと言われるところなのであろう。
 おそらく伊作も実家大石家の唯我独尊な血を引き継いでいた。反戦についても特段の思想や国際情勢への理解があったとも思えず、娘アヤの秩父宮妃へのインタビューを得意そうに書いたりする。ヨネのスイス入国には与謝野晶子の息子秀(すぐる)がたまたまベルン公使であるつてを頼ったりと、特権的なことを恥じていない。有名人の芸術的サロンを作ろうとするなど、田舎紳士の中央文化人好きと言っていい面も散見されるのである。西村伊作はキリスト教徒でもないし社会主義者でもない。その周辺にいたなかなか頑固なリベルタンと言っていいのだろう。この辺は美化せずにいたい。
 文化学院は広辞苑に載っている数少ない学校だそうである。そして卒業生は皆、学生時代を楽しげに回顧する。だが、文部省の学制によらない大学部は大学卒の資格を取れないこともあってか、昨今は学生数も少なくなり、駿河台の校舎は壊された。今はアーチの門だけ残って、中には他の会社が入っており、学校自体は下町の足立区に越した。卒業生が惜しむところである。
 西村伊作は終始わがまま者だったとも言えるかもしれない。しかし、あの時代にわがままを通し、終始「戦争は嫌だ」という内心の声に忠実だった西村伊作を私は忘れないでいたい。

 上で、「暗い時代の人々」の連載を終わる。ハンナ・アレントに同名の著作があり、ブレヒトやローザ・ルクセンブルグも扱っている。これは「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」や「ニューヨーカー」などに載った長い書評のようなものを集めた著作で、必ずしも伝記とも言えないし、読みやすいものでもない。それでも暗い時代を、国家に同調しないで生きた稀有な個人のへのオマージュとなっている。今日本の同じ時代を生き抜いたそうした人々を描いてきて、別の題を思いつかない。
 また、どういうわけか、この連載で扱った人々は私が長らく興味を持ってきたが今までちゃんと取り組んだことのない人であった。その興味や、奇遇や、土地との関わりについて、書くことができて嬉しい。またフランソワや斉藤雷太郎については、故鶴見俊輔さんから一冊書くように求められた題材である。著者の非力もあって、一冊にはなしえなかったが、こうした形で一つの宿題を果たすことができた。あと一つか二つの人について書いてのち、単行本としてまとめる予定である。このウェブ連載を読んでくださったかたたちに本で出会うことを楽しみにしている。
 今、改憲、安保関連法案の提出、普天間基地の辺野古移設や高江における住民の住む権利の弾圧、北朝鮮や中国の脅威をことさらに強調するメディア、いやその前に、社会の木鐸としての使命を忘れてしまったかに見えるジャーナリストなど、戦争への道は着々と準備されているのではないか、と思える。そしてそれに対し、怒り立ち上がるべき民衆は、たくさんの問題を個人的に抱え込まされ、意気消沈して、戦う力すら失っているように見える。一方で、美味しい店、贅沢な宿、コスメやファッションなどの情報は垂れ流され、安逸を求める人も多い。労働、健康、暮らしがうまく噛み合っていない感じだ。このような暗い時代だからこそ、かつての暗い時代に自分を曲げなかった人々のことを知りたくなる。私の仕事がいささかでも彼らを理解する事に役立てばこれに過ぎる喜びはない。

森まゆみ

(完)

※ 長い間ご愛読ありがとうございました。「暗い時代の人々」は書き下ろしを含む加筆修正をして単行本として来春、弊社より刊行されます。