落語で哲学 中村昇

2017.7.13

10恋愛とみかん(1)

 恋愛というのは、本当に不思議なもので、ない方がずっと暮らしやすいことはたしかだ。人類として子孫を残さなきゃいけないのであれば、他の動物みたいに発情期があれば充分ではないか。あるいは、タンポポみたいなやり方もあるだろう。恋などという面倒なことがあるから、余計な気苦労もしなければならないし、人との関係が複雑に(何角にも)なって刃傷沙汰もおこってしまう。
 そもそもなぜ恋愛があるのかなどという野暮な問には、プラトンがそっけない答をだしている。イデア界という、現実のもとになっている理想の世界では、人は、もともと完全人だったという。イデアの世界では、われわれは、両性具有であり、「男・女」「男・男」「女・女」という組み合わせで完成されているのだというのだ。ところが、この世界に入ってくるとき、その両性が片方ずつに別れてしまう。
 だから、この世で、イデア界で自分の片割れだった人を見ると、心ふるえて恋に陥るというわけだ。これは、この連載の最初の回でも、話した通りだ。でも、この説明は、何と図式的なのだろう。もしそうだったら、われわれは、生涯に一度しか、恋愛しないはずではないですか、プラトン先生!
 大澤真幸が、『恋愛の不可能性について』(春秋社、1998年)という本のなかで、固有名と恋愛とを結びつけて、面白いことを言っていた。ここから出発してみよう。クリプキという論理学者(天才です)は、固有名は記述に還元できないものだと考えた。たとえば、「三代目古今亭志ん朝」という固有名は、志ん朝さんのもつ多くの性質、「五代目古今亭志ん生の息子だ」「十代目金原亭馬生の弟」「本名は、美濃部強次である」「出囃子は、老松だ」「矢来町といわれていた」などなどの「束」ではない。
 志ん朝師匠の本名が「美濃部強次」ではない世界、あるいは、志ん朝さんが矢来町ではなく若松町に住んでいたべつの可能世界においても、「志ん朝」さんは、「志ん朝」さんだという。一度「三代目古今亭志ん朝」という名が命名されたら、その固有名は、すべての可能世界で通用するというのだ。固有名の固有性は、あらゆる世界の外側にあるといってもいいだろう。このような固有名のあり方が、恋愛と似ていると大澤はいう。なるほど、そうかもしれない。

そうだとすれば、今や、こう言うことができるだろう。名前が、個体の性質の記述に還元できないのは、この私が、記述に還元できないからである、と。名前は、私の記述の還元不可能性を委譲されているのである。

 さて、問題は「愛」であった。愛する他者もまた、記述に還元することができない。それは、固有名の記述への還元不可能性と同じものであった。(15頁)

  たしかに恋愛という現象は、その相手の性質に魅かれて、おきるものではない。顔が素敵だから、性格がとてもいいから、背が高いから、相手を好きになるわけではない。そんなことで惚れるのであれば、恋というのは、ずいぶんお手軽な出来事だ。もちろん、そういう要素が全くないわけではないだろう。その人を好きになるきっかけが、人柄の良さや他の何らかの要素だということはあるかもしれない。ただ、本格的な(?)恋愛は、それほどわかりやすくはない。<それ>は、何とも説明のつかない面妖な事件だ。いわば、恋愛は、背後からいきなり襲ってくる。
 どんなに自分の好みは、かくかくしかじかの異(同)性だとあらかじめ思っていても、その通りの人を好きになる保証などどこにもない。実際そんな人は、ほとんどいないだろう。相手の性質の束に、あるいは、束のどれかに恋愛するわけではないからだ。自分が理想だと思っていた性格や容姿などお構いなしに、突然、恋愛は生じる。好みも何もあったもんじゃない。理由は、皆目わからない。

 しかし、実際には、愛がまさに真正なものとして現われるときには、確かに、その唯一性についての要求は貫徹されているように見える。つまりわれわれは、真に愛している人物について、これで完全であるというような、積極的な理由(の束)を挙げ尽くすことはできない。これは、固有名を性質についての記述群に置き換えられないのと同じことである。(32頁)

  ソシュールのいうように、語の意味は、言葉の体系のなかの、その語以外の語との差異によって決まる。否定的な価値(他の語ではない、ということ)によって、語の意味は決まるのだ。だから、一つの語の意味のためには、その背景に「ラング」といわれる言語体系全体が控えていなければならない。ところが、固有名詞は、そんなことはない。ほかの語とのちがいなどなく、それだけで屹立しているといえるだろう。
 べつの角度から考えてみよう。固有名詞は、いわば、現実との唯一の接触面といえるかもしれない。言語は、本来は、現実のもろもろの出来事や物を指示するためにできあがった。たとえば、「岩」という語は、実際に存在している「この岩」を指していたはずだ、最初は。しかし、いったん、そういう指示がなされると、その語は、言葉の群れに吸収されていき、言語体系のなかの語として現実とはかかわらなくなる。「岩」一般を意味することによって、差異の戯れのなかでのみ意味をもつ。
 言葉の発生の時点では、現実と触れ合っていたはずなのに、いちど命名がなされると、その語は、言葉だけの世界に紛れこんでしまうのだ。だがそれに対して固有名詞は、いつもただ一人の人(もの)を指しつづける。もちろん、同姓同名という現象があるので、固有名詞も曖昧なケースがあるけれども、本来の固有名は、唯一無二の対象のみを指している。
 詩人の野村喜和夫は、こういう。

  ところが、固有名詞はどうでしょう。それも相変わらず言葉ですから、いま述べた言語システム内にあることはまぎれもありませんが、しかし同時に、それ自体で自律的に存在しているようにも感じられないでしょうか。そうしてそのようなものとして、言語システムの外部にみずからを反転させうる力があるというようにも。なぜなら固有名詞は、意味の媒介というものをあまり―というかほとんど―経由することなしに直接指示対象に結びつくからです。(『詩のガイアをもとめて』思潮社、2009年、233頁)

  恋の相手だってそうだ。他の人と比べて頭がいいから、他の人より優しいから、一緒にいて楽しいから、恋をするわけではない。とにかく、いきなり好きになってしまう。何の前触れもなく、「外部に反転してしまう」。理由はない。命名が恣意的である(どんな名前をつけてもいい)のと同じだ。これが恋愛だろう。
 この現象は、あらゆる可能世界の外側からやってくるのだから、とてもこちらは、かなわない。問答無用の「離接的偶然」(何が起こるか、こちら側では決して選べない)なのだ。まったく手がかりのない偶然であり、いわば、襲撃である。だからこそ、恋愛の対象は、われわれの世界からは超越しているといえるだろう。もし、この世界内部での出来事であったなら、その理由も、そこそこ推測できる。相手の性質の束のなかから、好きになった根拠を見つくろうこともできるだろう。
 しかし、この現象には、理由も何もない。それが非常に困るのだ。その超越した対象(好きになった相手)から、われわれは多大な影響を受けてしまう。恋をすると、世界は、バラ色に輝く(なんという通俗的な比喩だろう)。もちろん、ぎゃくに地獄と化すこともあるだろう。超越した対象の顔色ひとつで、仕種ひとつで、こちらの世界は千変万化していく。
 また、相手が超越すると同時に、こちらも絶対的な存在となる。その相手に根本的に左右されながらも、無数の人のなかに埋もれた一個人(他の人との関係で役割が決まる人類の一員)ではなく、「固有名」をもった突出した<私>となるのだ。生きている意味を初めてつかんだという気にもなる(たぶん、錯覚だけれども)。このように、対象の超越化とともに、自己の絶対化がおこるのが、恋愛という奇妙な現象である。
 さて、今回は、崇徳院という噺だ。

 大店の若旦那が、このところ病気で寝こんでいる。食事も喉に通らない。だんだんとやせ細っていく。親父さんが心配して、いろんな医者に見せているが、病名もわからない。あと5日の命だという。すると、ある医者が、「これは、気の病で、なにか心に思いつめていることが原因ではないか」といったので、番頭と一緒にいろいろききだそうとするが、どうしても答えない。幼いころからよく知っている熊さんだったら教えるというので、熊さんを呼んで、きいてくれと頼んだ。
 熊さんが離れにいる若旦那のところに行くと、本当に弱っていて、葬儀屋やお寺に連絡した方がいいくらいだ。熊さんが、ききだそうとすると、「笑わないでおくれ」といわれる。わかったというと、若旦那は、「恋煩いだ」という。熊さんは、一回だけ笑わせてくれといって笑った後で、事情を尋ねる。
 二十日ばかり前に、上野の清水さまにお参りに行ったら、茶店に、お供の女中を三人つれたお嬢さんが腰をかけた。水のしたたるようないい女で、若旦那は、一目ぼれしてしまう。向こうもこちらをじっと見つめていた。
  しばらくして、お嬢さんがたちあがって、店をあとにするとき、茶袱紗を落とした。若旦那は、それを拾って、お嬢さんに手渡す。すると、お礼をくれた。短冊に「瀬を早み岩にせかるる滝川の」と書いて、こちらに渡してくれた。下の句が、「われても末に逢はむとぞ思ふ」という崇徳院の歌だ。これ以来、若旦那は、恋煩いになったというわけだ。何を見ても、あのお嬢さんに見えてしまう。熊だけは、そう見えない。
 この話をきいた熊さんは、じゃ、その娘さんを探せばいいと安請け合いしてしまう。若旦那の父親のお店の主人は、もし見つけたら、熊さんをいま住んでいる三軒長屋の大家にして、借金もぜんぶなしにしてくれるという。そのかわり、5日以内に見つかんなかったら、息子の仇だといって熊さんを訴えるという。
 それから、湯屋や床屋にさんざん行って、「瀬を早み岩にせかるる滝川の」と大声でがなり立てつづけた。ついに、5日目、36軒めの床屋で、出入りのお店のお嬢さんが、恋煩いでふせっているという(かしら)がやってくる。こっちも、そのお相手の若旦那を探しまわっていたというわけだ。やはり、「瀬を早み岩にせかるる滝川の」の崇徳院の歌が手がかりだった。
 やっと探している相手が見つかった、熊さんと頭は、相手に詰め寄り、自分のお(たな)の方こいと取っ組みあいをする。もみあっているうちに、床屋の鏡を割ってしまう。床屋の主人が、「何してんだよ」と怒ると、頭はすかさず、「心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」。

相手のお嬢さんの性格も家も名前も何もかもわからない。それでも一目見ただけで、若旦那は惚れてしまう。しかも、余命五日までになってしまうほどに。「一目惚れ」というやつだ。これこそ恋愛の典型的な例だろう。
 もし恋の始まりが、相手の性質の束によるのなら、こんな荒唐無稽な噺はない。好きになる理由が、どこにもないんだから。こんなわけのわからない「恋煩い」はありえないだろう。でも、そんなことはない。いかにもありそうな話だ。ちょっと極端ではあるけれども。
 「恋煩い」と「みかん」について、次回も、こんな風に考えてみたい。

(第10回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年8
月18日(火)に掲載します。