落語で哲学 中村昇

2017.8.28

11恋愛とみかん(2)

 

 「恋煩い」という言葉があるように、恋は病だ。恋愛へと向かわせるある種の欲望(情熱?)が、初めにはあったようなのに、恋に陥ると、実に不思議なことに、すべての欲はなくなってしまう。食欲も、性欲も、睡眠欲も、なにもかも衰弱してしまい、ただただ死に向かっていく(ような気がする。私だけだろうか?)。
 そもそも恋愛のエネルギーというのは、どこにあるのか。前回もいったように、こんなエネルギーは、必要ないのではないか。
 「崇徳院」の若旦那も、医者から余命5日と言われるくらい患っている。ただごとではない。熊さんのいう通り、葬儀屋やお寺さんに連絡した方がいいくらいなのだ。しかも、欲望の衰弱、肉体の衰微だけではない。それとともに、精神は狂気を帯びていく。恋愛は、「死に至る狂気」とでもいうべきおそろしい様相を呈しはじめる。

  わたしたちは恋の情熱にとり憑かれたとき、自分の振舞いが、“常
 軌を逸している”ことをよく知っているが、その理由を人にうまく説
 明することができない。にもかかわらず、自分の振舞いがこの上なく
 明瞭な「意味」をもっていること、またそれが疑いなくある「よきも
 の」に属しているという確信をはっきりと握っている。また、この狂
 気が自分の生にとって並ぶものなき重要性をもつということを、人は
 動かしがたい明瞭さで知っているのである。(『恋愛論』竹田青
 嗣、ちくま学芸文庫、32頁)

狂気につつまれ、尋常じゃない行為に駆りたてられながら、それと同時に、日常のつまらない生活ではありえない<何か>が始まる。世界全体が、「バラ色」に輝く。やっと生きる意味がわかったような気になる。

 恋愛において人は、自分の存在の意味が、社会的な関係におけるのと
 はまったく違った仕方で、絶対的に満たされるかもしれないという予
 感に満たされる。恋愛の結晶作用は、この異例の可能性への予感を伴
 っているのだ。この予感は独特の道を通ってやってくる。それをわた
 しは、「恋人の美」と呼ぼう。(同書、59頁)

しかし、根拠のない狂気に襲われているのだから、解決の糸口はない。相手との合一以外には。しかし、これは、人間が個々別々に存在するというこの世界の原理に違反する。この恋の凶暴な非合理性は、不条理なこの世界に投げこまれたのとまったく同じことだ。
 ハイデガーなら「被投性」というだろう。何だかよくわからないままこの世界に参加しなければならないように、われわれは、恋愛においても突然<そこ>に投げこまれる。一度投げこまれると、恋愛状態は、否応なく続いていく。

  主人公たちは、自分がなぜその相手に強く惹かれるのかを言うこと
 ができない。が、恋する人に魅かれ、ひと目見、口をきき、その身体
 に触れたいという自分の欲望に、躊躇や疑惑を抱くことは決してな
 い。その欲望の「意味」は、たとえうまく言葉にはできないとして
 も、ほかのどんな行為の意味よりも明瞭なのだ。しかもそれは、ほか
 の一切の行為に優先し、最も重要で最も切実なものとなる。「恋の義
 務」は、まさしく一切を犠牲にせよと命じるのだ。(同書、47頁)

すでに竹田の引用にもでてきたように、スタンダールは、恋愛を「結晶作用」といった。

  私が結晶作用と呼ぶのは、目の前にあらわれるものの全体から、愛
 する相手が新たな美点をそなえているという発見を引きだす精神の作
 用のことである。…
  友人のひとりが狩りで腕を骨折したとする。すると愛する女の手当
 てを受けられたらどんなにうれしいだろう、と想像する。いつもいっ
 しょにいて自分を愛してくれる女の姿をたえず見ていられるなら、痛
 みだって祝福したいくらいだろう。そうして恋する男は友人の腕の骨
 折から出発して、恋人の天使のような優しさをもはや疑わなくなる。
 つまりある美点を思うだけで、愛する女の中にそれを実際に見るよう
 になる。(『恋愛論』杉本圭子訳、岩波文庫、2728頁)

恋の相手は、この世界から「超越」している。下界のもろもろの出来事とはかかわりなく、こちらをじっと天上界から見つめている。実際の顔や性格は、もはやどうでもいい。すべてが、美しく最上なのだ。<その人である>だけでいい。スタンダールは、「結晶作用」という語に、註をつけてこういう。

 私の見るところ、この恋と呼ばれる狂気の主要な現象を表す「結晶作
 用」の語がないと―もっともこれは、人間という種がこの世で味わう
 最大の喜びを与えてくれる狂気なのだが―この語を使わないと、長々
 しい婉曲表現でいちいち言い換えなければならないし、恋する男の頭
 や心の中で起こっている出来事を描写するのは、著者の私にとってす
 ら難解で、重苦しく、退屈だっただろう。ましてや読者にはどう思わ
 れたことか。(同書、3435頁)

「最大の喜びを与えてくれる狂気」というのが、恋愛の最も適切な定義だといえるだろう。若旦那も死に一歩いっぽ近づきながら、茶店で会ったお嬢さんのことを思うとき、天にも昇る歓喜を感じていた。その証拠に、掛け軸もだるまも鉄瓶も、何もかも、お嬢さんに見えるくらいだから。熊さん以外は。
 竹田は、「結晶作用」について、つぎのようにいっている。 

  当の相手のしぐさ、身振り、表情、スタイル、言葉、それらのこと
 ごとくが美的な感嘆とともに見出されること。恋愛の結晶作用は、ま
 ずこの美的な結晶作用からはじまる。…恋愛の体験はひとつの異界体
 験である。それは人間を日常世界からもうひとつの名づけがたい世界
 へと越境させる。スタンダールが結晶作用と呼んだこの出来事の中で
 人は、まさしく世界の変容を体験する驚きに出会う。(竹田、同書49
 頁)

恋煩いに罹ってしまうと、普段の論理とは、まったく異なる論理(とはいえないもの)にわれわれは支配されてしまう。「異界」に迷いこむ。<その人>じゃなければなければならない。ほかの人で代替は決してできない。恋愛においては、この<かけがえのなさ><とりかえがたさ>こそが、感情の核をなす。どれほど容姿にすぐれ、心根が遥かによくても、<その人>でなければ、話にならないのだ。
 どれほど多くの異性(あるいは、同性)がいようとも、ぞっこんほれ込んだ一人の人にしか目がいかなくなる。これが、「恋煩い」だ。熊さんが、同じくらい様子のいいお嬢さんを連れてきても、若旦那は、絶対に納得しないだろう。茶店でであった<あの人>でなければならないのだ。

  この女でなくてはならない。あの人以外を愛することができない。
 こういう感情は、周りの人間から見ると“不条理”である(=馬鹿げて
 いる)。夢中になった人間に対して人々は、熱病から醒めれば気づく
 だろう、と言う。また恋から醒めたのち、なぜあんなに夢中になった
 のかと一度も思ったことのない人間は稀だろう。
  しかし、この「とり換えがたさ」の確信こそは、恋愛の最も重要な
 核心である。恋愛からこの要素が減じていくほど、恋愛はそれが恋愛
 たる所以を失う。この恋人の「とり換えがたさ」の感情を、恋愛の
 「絶対感情」と名づけよう。(同書、142頁)

しかし、この<かけがえのない><とりかえがたい>相手と合一してしまうと、もはや恋ではない。相手と身も心も一致したいと思う。だが、もしそれが実現してしまうと、もはや恋愛ではない。何といっても、二人の人間がひかれあうのが、恋なのだから。この狂気は、決してたどり着くことのない地点を激しく目指す「絶対感情」だといえるだろう。
 九鬼周造が、『「いき」の構造』で分析した「媚態」と「意気地」という二つの要素は、この事情を見事に言いあてている。

  媚態の要は、距離を出来得る限り接近でせめつつ、距離の差が極限
 に達せざることである。可能性としての媚態は、実に動的可能性とし
 て可能である。アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀に近
 圧するがよい。しかし、ヅェノンの逆説を成立せしめることを忘れて
 はならない。けだし、媚態とは、その完全なる形においては、異性間
 の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたものでなければ
 ならない。(岩波文庫、24頁)

ひかれあい、合致したいと思っても、現実にそうなってしまっては、元も子もない。相手がいるからこそ、ひかれあうのだ。そして、「媚態」の本質を背後からしっかり支えるのが、「意気地」である。

 「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ」
 というように、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の
 反抗を示す強みをもった意識である。(25頁)

恋愛が、恋愛として成りたつためには、「異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化」されなければならない。もちろん、恋煩いは、一体となることを目指すがゆえに発病するのだが、患いつづけるためには、可能性のまま終わらなければならない。「意気地」がなければならない。好きでたまらないのに、ときには知らないふりも必要だ。恋愛とは、なかなか合理的ではない、とことん難しい経験である。
 「われても末に逢はむとぞ思ふ」といいながら、実際に「逢ったら」おしまい。「われたままで」ぎりぎりまで近接し、逢わないまま離れていなければならない。それが恋愛なのである。
 恋愛すると、その相手に会いたくてしょうがないのに、実際会ってしまうと、相手を前にして何をしていいかわからない。いたたまれなくなって、とにかく、相手のいないところにいって安心する。だから、相手との幸福な<恋愛>などというものは、この現実世界には存在しないといっていいだろう。「幸福な恋愛」という語は、語義矛盾なのだ。
 恋愛という状態が、純粋なまま維持されるのは、とてつもなく困難なのである。そもそも恋愛という状態は、心身をまるごと侵食する病なのだから、とりあえず、そこから脱けた方がいい。そのために、人は、恋の相手と「つきあう」。現実的にデートしたり、相手の身体に触れたり、挙句のはてに「結婚」などという選択もしてしまう。そのことによって、病気を一気に治してしまうのである。
 実際につきあうことによって、超越的な対象であった相手は、この現実界に降りてきて、どこにでもいる普通の人間になってしまう。それに、結婚なんてしてしまうと、とんでもない。これは、あらたな他者経験であり、恋愛とは、まったく別物なのだ。そこには、深い深いあらたな困難が立ちふさがる。
 そもそも結婚は、法律的な制度であり、恋愛とは、概念もあり方も根本的にちがう。恋愛から結婚に移行するわけがない。恋愛は、心身の状態(重篤な病)であり、結婚は、制度上の生活の一大変換なのだから。病気になったら、入院する。恋愛したら、結婚する。「病気」と「病院」がちがうように、「恋」と「結婚」は、異次元の概念同士なのだ。
 このように考えるならば、どうにか、この現実の世界に純粋な状態で恋愛が存在するのは、「片思い」と「遠距離恋愛」くらいだろう。このふたつは、恋人同士の接触がないから、苦しい恋はつづいていく。「崇徳院」は、このような純粋培養された恋の特徴をよくそなえている。いってみれば、恋煩いの本質を、その萌芽状態でとらえた稀有の噺といえるかもしれない。
 「われても末に逢はむとぞ思ふ」状態が、一定期間つづく。この期間に、他の人たちも巻きこんで、恋愛という状態が、大がかりに表現される。熊さん(若旦那)と(かしら)(大店のお嬢さん)という具体的な人間が、「逢はむとぞ思ふ」という恋の状態を、人探しで走りまわり表す。
 若旦那とお嬢さんの二人の引き裂かれた立場からは、この期間は、完全な「片思い」であり、相手がどこにいるかわからないという究極の「遠距離恋愛」になっている。何といっても、恋愛は、逢わないうちが花なのだから。
 すみません。ついつい熱が入ってしまった。「みかん」の話は、また今度ということで…

(第11回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年9
月25日(月)に掲載します。