落語で哲学 中村昇

2017.10.10

12恋愛とみかん(3)

 

 恋愛というのは、まったく知らなかった他人同士が、何かのきっかけで、深い関係を結ぶ、あるいは、そんなかかわりを結ぶ前の独りよがりの幻想世界への陥没といえるかも知れない。前回も話したように、純粋な「恋煩い」は、ある意味で、独我論的妄想だからだ。
 しかし、そもそも、なぜ「他者」が、「こちら側」に入ってくるのか。どうして、まったく知らない人とつきあう(精神だけでも)ことができるのだろうか。恋愛という、「こちら側」への「他者」の問答無用の侵入は、いかにして可能なのか。
 初めて日本独自の哲学を築きあげた西田幾多郎は、次のようにいう。

 我々の自己の底に絶対の他として汝というものを考えることによっ
 て、我々の自覚的限定と考えるものが成立するのである。斯く私が私
 の底に汝を見、汝が汝の底に私を見、非連続の連続として私と汝とを
 結合する社会的限定をいう如きものを真の愛と考えるならば、我々の
 自覚的限定と考えるものは愛によって成立するということができるで
 あろう。(西田幾多郎「私と汝」『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文
 庫、342-343頁)

 私の底には、「汝」がいて、汝の底には、「私」がいる。私たちは、つねに自分の底に「他者」を抱えもつ。だからこそ、その通底している「底」同士が、結びつくことにより、「愛」が生まれるというのだ。
 もし、私が私だけであり、汝が汝だけであるならば、そもそも関係は生まれない。それぞれが、小さく自己完結した個人であるならば、バラバラな孤島が、点在しているだけになるだろう。孤島は、深海という「底」によって、実は、つながっていなければならない。その「深海」こそ、他者なのだ。
 海面では、非連続の「われ」「われ」が、海底では、「われ=われ」と連続している。ただし、その連続は、自己のなかに「絶対の他」を見、「絶対の他」のなかに自己を見ることによってなのだ。「自」と「他」という、もともとは結びつかないものが、矛盾しながらも表裏一体をなしている。そこに「真の愛」があると西田はいう。
 たしかに、われわれは、自分自身をまるごと理解しているわけではない。よくわからない部分が、ほとんどだ。フロイトが、「無意識」と名づけたものだけではなく、「意識」のレベルでさえも、よくわからない。われわれは、何かを意識しようとして、意識しているわけではない。つぎつぎと意識は、流れていく。こちらの意志とはかかわりなく、何かを常に考えている。
 その意志ですら、まったくコントロールできない。ギルバート・ライルが、『心の概念』のなかで言ったように、「意志」の存在は確認できない。もし、何かを意志しているとしたら、その意志をも意志しなければならなくなるだろう。「意志」は、無限に後退していく。私たちは、意志などせずに行為しているだけなのかもしれない。
 心だけじゃない。身体のことは、もう全く「他者」そのものだ。この身体を構成する無数の細胞の働きは、われわれとはかかわりなく、実に自由だ。勝手にやってくれている。しかも、かなり正確に、とても有能に。
 こうした「他者」によってできあがっているのだから、どうして恋をするのかというのは、われわれの「底」にある「他者」(である「自己」)の都合によるとしか言えないかもしれない。同じ「他者」の領域で、もともとつながっている(矛盾しながら表裏一体をなす)というわけだ。そして、その影響からか、孤島であるはずの「私」と「あなた」も、恋に陥ると一緒になろうとする。不可能を可能にしようとする。

 つまり、「恋」において、自己が求めるのは、他者をわかりえない他
 者として存在せしめる、その「他者性」である。片割れ同士が片割れ
 同士として、自己は自己性のままに、他者は他者性のままに合同する
 こと、自他の分離を失うことなく合同することこそ、「恋」の最終目
 標である。そして、その合同によって自己は、かつての「全きもの」
 に復帰する。(『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』宮野真生子、
 ナカニシヤ出版、76頁)

 そう、これが、恋の最終目標なのだ。バタイユも、「エロティシズムは、死に至るまでの生の称揚」といったではないか。「恋」と「エロティシズム」の関係は、なかなか微妙だが、恋愛にまつわる関係が、最終的に「死」に向かうことは明らかだろう。
 生きているのであれば、どうしても個々別々の人間として存在しなければならないわれわれが、相手と合一しよう(恋の最終目標)とするなら、「死ぬこと」しか現実的な手段はない。そうしなければ、不可能は可能にならないのだから。
 宮野は、有島武郎の自死について、つぎのように書いている。

 一致の刹那は永遠ではない。そのことに気づいていたからこそ、有島
 も、愛の一致を「感激」や「頂点」あるいは「有頂天」というよう
 な、瞬間的な爆発にたとえたのではないか。互いに奪い合いながら失
 わないことがあるとすれば、それは一致の刹那を除いてありえない。
 そして、その刹那を永遠にしようとするなら、「死」という究極の瞬
 間に至るよりほかない。(同書、180-181頁)

死ぬ前に、結婚や同棲などを始めれば、相手のあらが見えて現実に引き戻される。独我論的妄想が、現実の生々しさによって、打ち破られるだろう、ありがたいことに。こう考えると、恋煩いは、いずれにしても(独我論の世界で患うにしても、最終目標を達成するにしても)、「死に至る病」であり、危険な出来事なのだ。
 でも、今回は、こんな深刻な話をする予定ではなかった。さらっと三角関係をテーマにしたかっただけなのに、うまくコントロールできなかった。「私は、他者だ」(アルチュール・ランボー)からか?
 恋が冷めても、ふたたび、恋が始まることだってある。ようするに、熱のこもった恋愛の後で一緒にいる二人(同棲とか、結婚とか)のあいだに、他の人が入ってくると、事態はガラッと変わるという話だ。恋とは違うが、何とも言えない感情が芽生えてくる。あるいは、恋の始まりから、すでに三角関係だということもあるだろう。
 「お直し」は、こんな噺だ。(花魁が絶品の志ん朝バージョンで)

 花魁(おいらん)も歳を重ねると、若い綺麗な娘にはかなわない。若い時は、店で一番だった花魁も、歳をとり客がつかなくなると、気持もまいってくる。客が一人もつかない(お茶をひく)と、店の主人にわびをいわなければならない。心が落ちこんでいるのに、身体も壊したりすると、ますます弱ってしまう。そんな花魁が、店の男衆に親切にされると、惚れてしまうのは必然だ。そして深い仲になる。
 案の定、この世界が長い主人にばれてしまい、二人は呼びだされる。主人に、証文を巻く(借金をちゃらにする)から二人一緒になってこの店で働きな、と優しい言葉をかけてもらう。二人は近所で所帯をもつ。花魁は名前が変わって”おばさん”となり店にでる。客と花魁の仲介役だ。亭主は店の前で客引きをし、客を引っ張りこむ。なかに入ると、おばさんが、その客から、有り金ぜんぶ巻き上げる。こうやって、二人でせっせと働いていた。入るばかりで出銭がないから、お金も貯まり余裕がでてきた。
 そうなると、女の方は、さらに稼ぐが、男の方は、女遊びを始める。吉原はもちろん避けて、千住の遊郭に足しげく通うようになった。2、3日家をあけ、店にでなくなる。今度は、博打にも手をそめ深みにはまってしまう。そこらじゅう借金だらけになり、家のものも売り払ってしまう。女房も店にでづらくなって、二人とも辞めてしまった。お金がまったくなくなって、亭主を問い詰めると、「目が覚めた」という。いまさら、目が覚めたっていわれても、どうしようもないとこまできてしまった。
 亭主は友達から、ケコロの店(客を蹴飛ばして店に入れる)が一軒あいているから、やってみないかといわれたという。女房は、店は借りられても、若い衆や女はどうすんだい 、と訊くと、若い衆は俺がやるという。じゃ、女はどうすんだい、と訊くと、お前がやんなよという。私はお前さんの女房じゃないか、いやだよというと、お前は元花魁なんだから、羅生門河岸(ケコロ)にいる女から見れば、掃き溜めに鶴だよと口説いた。
 女房は、ケコロでは、線香一本いくらっていうんだ。客を引きとめるために、私がいろんなこといってるときに、お前さんが「お直しだよ」(延長ですよ)っていって、200文、400文、800文って上げていかなきゃなんないんだよ。私が客と話してんのに、やきもちなんか焼いちゃいやだよ、と念を押して店にでた。
 吉原の裏の方の細い路地に店はある。土間と二畳の畳の間しかない。「羅生門河岸」(鬼がでる「羅生門」のようなところ)といわれるくらい恐ろしいところだから、誰も近づかない。何も知らない奴か、酔っ払いしか通らない。数少ない客から、手荒なまねをして、ふんだくらなきゃならない。
 路地をがっしりした酔っぱらいが歩いてきた。亭主は、たもとに手を突っ込み、連れこもうとする。「さわるな、手だすな。気に入れば、自分で入るよ」とその酔っ払いはいう。店の女を見て、あまりの美しさにびっくりする。「お前みたいな女が、どうしてこんなところにいるんだ。訳ありだな。情夫(まぶ)がいるんだろ?すきな男がいるんだろ?」という。女は、「ここにいるだろ」とその酔っ払いを指して、いい気分にさせる。男は、その気になって、「おれと一緒にならないか」というと、「本気にしちゃうよ」とこたえる。
 「おれは、左官の職人で、気に入った女がいなかったから、かみさんはいないんだ。」と男がいうと、「40両借金がある」と女はいう。「40両もってくれば、一緒になれるんだな」と男がいう。外から、亭主が大きな声で「直してもらいな」
 一緒になって、湯から帰ってきて差し向かいでいっぱい呑もう。夫婦喧嘩はよそうな。いや、お前さんだったら、半殺しの目にあっても…
 「直してもらいなよ」
 客の男は、「今度は、明後日くるからな」といってでていく。その客から、お金をとらない亭主に向かって、「お前さん、お金をとんなさいよ。どうしたの?そんなとこにしゃがみこんじゃって」というと、「やめだ、馬鹿馬鹿しくってやってられない。あいつのとこにいくのか」と怒っている。「お前さん、焼いてんの」ときくと、「いや、焼いてはしないけど、いや~な心持がするんだよ」などという。さんざん喧嘩した後で、二人は仲直りし、男に優しくされた最初のころをおもいだし、「おれたちゃ一心同体だよ」などといっていると、先の客が戻ってきて、なかを覗いて「直してもらいなよ」
 ルネ・ジラールは、恋愛や欲望は、つねに三角形をなすという。誰かを好きになるのは、その相手とは別のもう一人の人物の影響が大きいというのだ。

 嫉妬や羨望は三重の存在、つまり対象の存在、主体の存在、嫉妬した
 り羨望したりする相手の存在、といった三重の存在を前提としてい
 る。(『欲望の現象学』古田幸男訳、法政大学出版局、12頁)

 この恋する男が梯子の階段に自分の重みをかけたとき、その瞬間彼が
 考えをはせるものは、女たちの夫、女たちの父親、女たちの許婚者、
 つまりライバルにたいしてであって、露台で彼を待つ女に対してでは
 ない。(同書、22頁)

純粋な恋愛が終わり、安定した関係にあった相手が、他の人間と恋愛に陥ると、とたんにその相手に、もう一度、恋愛感情と似たような気持を抱いてしまう。あるいは、そもそも、自分がとても好きな友だちが愛している人を、こちらも好きになる。三角形を自ら創って、そこに入りこむ。たとえば、小林秀雄と中原中也と長谷川泰子との有名な三角関係を、鹿島茂はつぎのようにいう。

 では、中原が自分の「不倶戴天の敵」であることを(小林は―引用
 者)どうやって中原に知らせたらいいのだ。ペンでもってコテンパン
 にやっつけても何の効果もないだろう。なにしろ、天才なのだから。
 どんな切っ先するどい刃だろうと、奴の揺らぐことのない自我にぶつ
 かったら、こなごなに砕けてしまって、擦り傷ひとつつけられないだ
 ろう。
  となったら、残る道はひとつしかない。奴の自我を無理やり二つに
 引き裂くために、奴の女との仲を引き裂いてやるしかない。(『ドー
 ダの人、小林秀雄
わからなさの理由を求めて』朝日新聞出版、68
 頁)

詩人としてはとてもかなわない中原中也とつきあっている長谷川泰子と、同棲してしまう小林の中には、無意識的ではあれ、中原に対する嫉妬が存在していたのかも知れない。さすがに鹿島が書くように単純ではないだろうが、こういう一面があったことは、否定はできないだろう。
 ジラールは言う。

 虚栄心をもった男がある対象を欲望するためには、その対象物が、彼
 に影響力をもつ第三者によってすでに欲望されているということを、
 その男に知らせるだけで十分である。(『欲望の現象学』7頁)

 一度は、詩人か小説家を目指した小林秀雄にとって、生来の詩人である中原中也は、とてもまぶしく理解を絶した才能だったにちがいない。しみじみとした名篇「中原中也の思い出」のなかには、この思いが切実に語られている。
 さて、「お直し」に戻ろう。この噺では、そもそも最初の段階から、三角関係が潜んでいる。この花魁には、なかなか客がつかなくなり、この若い衆と仲良くなる。ここには、不在の客と花魁と若い衆の三角関係があると言えるだろう。この関係は、廓噺では、常に前提されている。「文違い」「三枚起請」など枚挙にいとまがない。いつも、ただの客と本当に好きな男(情夫(まぶ))との三角形だ。
 ここでは、お茶をひくようになり、客が存在しないので、ある意味では、純粋な恋愛関係のようにも見えるが、やはり背景には、三角関係があるといってもいいだろう。なんといっても、ここは吉原なのだから。
 そして、二人が所帯をもって、一緒に働き始めると、最初はうまくいく。しかし、途中から、今度は、男の方に千住あたりに女ができる。ただし、これも女性の方は、最後まで不在であり、この三角関係が、たとえば「三者面談」といったかたちではっきり現れることはない。最初の三角関係と同じで、一つの角は、「不在」なのだ。
 こう考えると、この噺は、最後のさげに向かって、二つの三角関係が伏線になっていたことに気づく。しかも、男女の違いはあれ(不在の客と千住の女)、「不在の一角」をもつ三角関係だ。そして、この「不在」が、最後の三角形で現実化し反転する。
 ケコロの店では、最初の三角関係では、不在だった客がはっきり現れ、亭主の前でいちゃいちゃする。しかも、顕在化した「一角」にふさわしい体格のいい左官だ。商売のためとはいえ、旦那は我慢できない。とてもわかりやすい三角形である。最初のふたつの潜在的な三角形が、背景としてほどよく効いているといえるだろう。
 そして、最後は、ただの客と情夫(まぶ)が、役柄上入れ替わり、「直してもらいなよ」と客がいう。三角形の二角が、最後の最後に一瞬だけ入れ替わり、噺は終わる。ジラールのいう「欲望の三角形」を、三種類用意しといて、最後にちょっと細工をした。いかがだろうか。見事な終わり方ではないか。
 「みかん」は?すみません、次回こそ絶対に。

(第12回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年11
月10日(金)に掲載します。