落語で哲学 中村昇

2017.12.21

14死について(1)

 

 人間は、死んだらどうなるのか。小さいころ、よく考えていた。夜、就寝前に思いつめて、息苦しくなって親に助けを求めることもしばしばあった。だが、親はもちろんのこと、どんな大人も、この問に、まともに答えることはできない。誰に聞いても、なしのつぶてだ。
 なるほど。この世界は、根本的に不可解なのだとさとった。最も大切なこと、一番知りたいことは、誰にも答えられないのだから。何という不条理なところだろう、と思った。
 お金のことやお勉強のことや仕事のことには、みんな熱中しているのに。いろんなことを笑ったり、楽しんだりしているのに、死んだあとのことやこの世に生きている意味については、どんな人も皆目わからない。おかしな人たちの住む、なんと不思議で、能天気な世界だろうか。
 プラトンは、『国家』の掉尾で、つぎのような話をする。

   そのむかし、エルは戦争で最期をとげた。10日ののち、数々の死
  体が埋葬のために収容されたとき、他の死体はすでに腐敗していた
  が、エルの死体だけは腐らなかった。死んでから12日目に、まさに
  これから葬られようとして、野辺送りの日の薪の上に横たえられて
  いたとき、エルは生きかえった。そして生きかえってから、彼はあ
  の世で見てきたさまざまな事柄を語った。(『プラトン全集11』藤
  沢令夫訳、岩波書店)

エルは、多くの魂とともに、裁判官がいる場所に来る。そこには、天上へ行く道と地獄への道がある。死後の魂たちは、そのどちらかの道へ進む。そこで、賞罰の期間がすんだ者たちは、再び戻ってくる。籤によって来世を選ぶために。

   まことに、エルの語ったところによれば、どのようにしてそれぞ
  れの魂がみずからの生を選んだかは、見ておくだけの値打ちのある
  光景であった。それは、哀れみを覚えるような、そして笑いだした
  くなるような、そして驚かされるような見物だったのである。とい
  うのは、その選択はまずたいていの場合、前世における習慣によっ
  て左右されたからだ。(同書)

罪深く、ろくでもない生涯をすごし、地獄を経てきた者たちは、慎重に次の人生を選び、楽な前世を送った人たちは、あまり考えなしに来世を選んでしまう。こうして、つぎつぎと新しい誕生へとみな向かっていく。その前に、いままでのことをすべて忘却しなければならない。

   すでに夕方になって、魂たちは<放念の河>のほとりに宿営する
  ことになった。この河の水は、どのような容器をもってしても汲み
  とめることができなかった。すべての魂は、この水を決められた量
  だけ飲まなければならなかったが、思慮によって自制することがで
  きない者たちは、決められた量よりもたくさん飲んだ。それぞれの
  者は、飲んだとたんに一切のことを忘れてしまった。(同書)

これは、輪廻転生の話である。誰でも知っているように、世界中いろんなところで、このての話はある。日本でも、江戸時代に平田篤胤が記録した勝五郎の話は有名だ。八王子の中央大学の正門側(東中野)と多摩動物公園側(程久保)との間でおこった転生譚である。
 中野村(現八王子市東中野)の勝五郎が、八歳になった時、自分の前世は、程久保村(現日野市程久保)の藤蔵だといいだす。六歳の時、疱瘡で亡くなったのだという。死後のこと、さらに勝五郎として転生するまでのことを詳しく話した。
 実際に程久保村に行ってみると、たしかに六歳で亡くなった藤蔵という子どもがいた。そして藤蔵しか知らないことを、勝五郎はつぎつぎと言いあてる。その小谷田勝五郎は、明治二年に55歳で亡くなった。小泉八雲も随筆に書いた有名な話だ。
 ほかにも、アメリカのエドガー・ケイシーが残した膨大なリーディング(相談相手の病気の治癒のための記録)や、20世紀最大の神秘家であるルドルフ・シュタイナーの壮大な言説のなかにも、輪廻転生の事例はことかかない。また、イアン・スティーヴンソンの『前世を記憶する子供たち』や、ごく最近でも、退行催眠療法をしていて前世にまで退行してしまった精神科医ブライアン・ワイスによる著作など、多くの「生まれ変わり」の具体例を目にすることができる。あるいは、小説でも、三島由紀夫の『豊饒の海』や佐藤正午の『月の満ち欠け』は、転生がベースだ。
 もし、このような事例が本当であれば、この上なく恐ろしい死の恐怖は、ある程度緩和されるだろう。自己が消滅する。自分の意識が、未来永劫なくなるという底知れない恐ろしさは、消えてしまう。死んでも終わりではないのだから。ただ、そうだとしても、この恐怖は、あらためて、異なったかたちで襲ってくる。
 それは、今現在のわれわれのことを思いかえしてみれば、わかるだろう。私たちは、生まれる前のことを一切記憶していない。プラトンが書いているように、われわれは、生まれ変わるとき、一人残らず<放念の河>の水をたっぷりと飲み、それ以前のことをすっかり忘れてしまうのだから。こうなると、自分自身が、意識も何もかもことごとく消滅するという死の恐怖のポイントは、死後よりも、誕生の瞬間にうつるだろう。生まれることが、死ぬことだからだ。
 輪廻転生の考えによれば、死後、肉体からはなれた魂は「中有」という状態に入る。一つの人生とつぎの人生とのあいだの期間だ。この「中間生」ともいわれる状態で、これまでのおおくの過去生を見渡すことができる。エルが語ったように、このとき、いろいろ検討してつぎの人生を選ぶのだ。
 たしかに、このとき、すべては明らかになり、われわれの生存の意味もわかるのかもしれない。(しかし、その場合でも、この世界全体の存在の意味は、決してわからないだろう、原理的に。われわれが、この世界の内部にいる限り)だが、つぎの人生が始まる前に、<放念の河>の水を飲むのであれば、それまでの記憶やこの世界についての理解は、ことごとくなくなる。
 赤ん坊として生まれるとき、自分が何者か、何のために生きているのか、死んだらどうなるのか、すべては、闇のなかに沈む。つまり、ひとは、「死んで生まれる」のである。記憶をすべて失って、生きていく。意識のあるこの人生こそ、実は、世界から切り離された<死の状態>だということになるだろう。
 <いま・ここ>のわたしは、世界の秘密(真実)から最も遠い地点にいる。記憶を抹消された孤児なのだ。こう考えれば、われわれの終わりなき人生は、「非連続の連続」といえるだろう。誕生という切断によって、非連続の連続だ。しかし、連続であることを確認することは、この世界ではできない。生きている限り、何もわからない。
 それに、その連続を保証するものが、死後甦る記憶なのだとすれば、それが本当の記憶かどうか、検証するすべはないだろう。今生きているときの記憶だって、かなり曖昧なのに。誕生という切断(忘却の水を飲むこと)によって、一度非連続になった記憶は、新たに接続されたとしても、他人の記憶と紛れる可能性があるのではないか。
 つまり、この輪廻の考え方によれば、死んでも終わりではないが、生まれたら終わりだ、ということになるだろう。何という恐ろしい世界だろうか。
 さて、今回は、『もう半分』という怪談だ。

 江戸時代、千住で夫婦ものが、小さな居酒屋をやっていた。客が十人も入ればいっぱいになる小さい店である。一緒になって七年だが、子供はまだだ。亭主が働き者で、客にたいする世辞がうまい。肴は、大したものはでないが、いい酒をだすので、いつも客でいっぱいだった。昼は飯屋をやり、夜は早めに店じまいをする。近くに千住の遊び場(廓)があるから、夜遅くなると、この店には誰もこなくなるからだ。まわりも大変静かになる。
 その日も、客足が途絶えたので、店じまいしようとしていると、「こんばんは」とおじいさんが来た。のべつここへきている八百屋のおじいさんだ。歳は、六五、六で行商をしている。やせぎすで眼がくぼみ鼻が高く、汚いなりをして、素足に草履だ。
 その老人は、1合の酒を一度に頼まず、半分だけ頼む。その日も、「いつものように、また半分頂けないでしょうか」と酒を注文した。その日は、まっすぐ帰るつもりだったが、どうしても我慢できなくなり、店に来たという。べつの用があったので、商売は休んで、店を素通りするつもりだった。でも、どうしてもお酒には勝てなかったという。
 最初の半分を呑み終ると「もう半分くださいな」と言ってまた注文する。「半分よりかなり多いじゃないですか」などといって、上機嫌に呑んでいる。おじいさんは、若いころから、酒が好きで、いろいろしくじったけれども、酒をやめようとは一度も思わなかったなどと話す。
 店主が相手をしながら、「どうして半分ずつ召し上がるんです?なんかわけがあるんですか?」とたずねると、老人は「しみったれだから。半分ずつ量ってもらって、六杯呑む方が、一杯ずつ三杯呑むよりも、多く呑めるような気がするんですよ。長く楽しめるんですよ」と言う。そうして、半分ずつ六杯呑むと、いい心持になって、勘定をおいてでていった。
 亭主が、店じまいをはじめる。おじいさんが腰かけていたところの横に、汚い風呂敷包みがあった。また明日来るから、預かっとけばいいと思い、その包みをあけると、25両包みが二つあった。びっくりした主人は、かみさんに「忘れ物届けて来るから」と大声で言って、店を飛びだそうとする。すると、おかみさんが、「いいよ、明日来るだろうから」という。
 「50両入ってたんだ」というと、「50両。大金じゃないか」と言って驚く。おじいさんを追いかけていこうとする旦那に対して、「この店を、千住で指折りの店にしたいと言ってたんじゃないか?そうおしよ」と悪魔のささやきをする。「このお金を黙ってもらっちゃいなよ」という。
 慌てふためいて、忘れ物をとりに戻ってきたおじいさんに対して、おかみさんは知らぬ存ぜぬの態度を貫く。涙を流しつつ、「いまは、けちな八百屋ですが、以前は、深川でかなりおおきな店をやってたんです。忘れた50両は、今年20歳になる娘が、店の元手になるようにと吉原へ身を売って作ってくれた金なんです」とおじいさんは明かす。だが、おかみさんは、とりあわない。旦那も、心を決めて、しらを切りとおす。結局おじいさんは、落胆して店をでていき、橋から川へ身を投げてしまう。
 その50両で、夫婦が店を新しく普請して人を雇うと、居酒屋は繁盛した。一年経ち、念願の子供まで授かった。ところが、月満ちて生まれてきた男の子の頭は白髪で覆われ、歯が生えていた。その顔は、眼がくぼみ鼻がつんとして、あのおじいさんそっくりだった。母親は、見たとたんにショックのあまり死んでしまう。
 父親は子供を育てるために、乳母を雇う。ところが、雇ったばあやが、つぎつぎと辞めてしまう。理由を尋ねてみると、お給金でもなく、面倒だからでもない。理由をいわない乳母が、「それじゃ、一晩いますんで、旦那見ててください」と言った。
 その晩、主人は、乳母と赤ん坊が寝ている次の間から、襖を少し開けて息子の様子をうかがっていた。真夜中、草木も眠る丑三つ時、八つの鐘がゴーンとなる。それまで寝ていた赤ん坊が、眼をパチッとあけむっくり起きあがると、乳母の寝息をうかがって歩きだした。行灯の下に置いてある油さしから油を茶碗に注ぎ、それをうまそうに飲み干す。
 主人は、びっくりして、「こんちきしょう」と殴りかかろうとすると、赤ん坊は茶碗を差しだし、「もう半分」。

 『国家』によれば、生まれ変わりの際、つぎの人生は、本人が決めるのだから、これは、あきらかにおじいさんが、酒屋夫婦の赤ん坊になることを選んだのだろう。おそらく、この二人に子供ができたことを「中間生」で知った時、「しめた」と思ったにちがいない。復讐できると。
 ただ、<放念の河>の水を飲んだのだから、誕生後は、それまでの記憶はなくなる。つまり、夫婦にお金をとられたことは、忘れているはずだ。恨みはなくなり、まっさらな赤ん坊として誕生したのだ。しかし、どうしたことか、「もう半分」のおじいさんの特徴(顔かたちや癖、嗜好)をもったままに生まれる。
 こう考えれば、この噺の恐ろしさが、生まれたての赤ん坊にあることがわかるだろう。本人(新生児)には、すでに遺恨はない。それを見る側だけに、恐怖は宿る。存在そのものが恐ろしいのだ。
 そして何といっても「もう半分」。この台詞がなぜ怖いのか。まず、うまく表現できないのだが、この世界の本質的部分に「半分」があるような気がする。われわれは、「男―女」のいずれかであるし、「生物―無生物」のいずれかだ。それに、「生―死」の「生」の側に、この世にいるものはつねに存在している。
 この世界の基底にある「二項対立」の片側に、どんな存在もいる。われわれは、いつも「半分」の存在であり、「片割れ」なのだ。「半分」は、森羅万象の本質にくいこんでいる。だから、「もう半分」といわれると、光の届かない闇から、秘密(<本当のこと>)をささやかれているような気がするのではないか。
 それに、もうひとつは、何といっても「半分」のもつ未完成感だろう。「もう半分」が続く限り、未来永劫、何かが終ることはない。「もう半分」「もう半分」といつまでたっても、「一杯」になることなくつづく。「半分」欠如したまま、ずっと。
 だから、こうして生まれてしまったこの赤ん坊は、いつまでたっても、いいつづける。
 「もう半分」

 

(第14回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2018年1
月22日(木)に掲載します。