落語で哲学 中村昇

2016.10.17

02「業の肯定」から「業の否定」へ

 小さい頃から疑問だったのは、なせこうして毎日生きているのか、ということだった。どう考えてもおかしい。そもそも生まれる前の記憶がない。さらに、八十年くらいでみんな死んでしまう(無になってしまう)ことも分かった。そうなると、いったい<ここ>にいる意味は何なのか、本当に心の底から不思議だった。
 いずれ、立派な大人が(親なり、親戚なり、先生なりが)、この世界に生きている意味と死んだあとのことを、教えてくれるにちがいないと思っていた。おそらく、いろんなことがわかる中学生くらいになったら。だって、大人たちは、日々それほど迷いなく気楽に生きているように見えたからだ。
 ところが、誰も何も言わない。まわりの連中は、いつまでたっても、笑ったり怒ったり、喜んだり悲しんだりしているだけ。生まれてきた意味も、死んでいく理由も、一切口をつぐんでいる。なんなんだよ、いったい、と思っていた。
 アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を読んだのは、そんな時だった。シーシュポスは、神ゼウスから罰せられ、大きい岩を麓から山の頂上付近まで運ばなければならない。ところが、その岩は、頂きに達することなく、重力によってふたたび麓に転がり落ちていく。シーシュポスは、また山を下り、同じように岩を頂上へと運ぶ。これを、延々と繰りかえす。
 何という無意味な作業だろう。考えただけでうんざりする。しかし、カミュは、われわれが生きていくというのは、このようなぞっとする徒労だというのだ。この「不条理」な、わけのわからないあり方こそ、私たちの世界であり、人生だというのである。その通りだと思った。
 例えばこういうことだろう。私たちは、生まれてすぐ、野球を無理やりやらされる。ルールも何もわからないのに、とにかくバットをもち、グローブで球をとり、塁間を走りまわらなければならない。否応なく毎日。このような日々を何十年もやっているうちに、さすがにルールも覚え、うまくできるようになり、野球の楽しさを知る。ところが、そのように慣れてきたはずなのに、こちらの都合とはお構いなしに、唐突にゲームが終ってしまう。私自身も、バットもボールも、なにもかも、グラウンドごと消滅する。そこには、何の痕跡も残らない。無(死)だ。これが、私たちの人生だろう。
 立川談志は、「落語は業の肯定だ」といった。談志は、これ以外にも、いろんなことを言っているし、自分は、論理的じゃないとも言っているので、この言葉を額面通りにとるのは、野暮かもしれない。ただ、この談志の定義を手がかりにして、落語について考えてみよう。本当に落語は、業を肯定しているのだろうか。
 そもそも「業」というのは、何なのか。これは、もちろん仏教からきた言葉だ。たとえば『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)では(ざっと引用すると)、「①なすはたらき。作用。②人間のなす行為。ふるまい。③行為の残す潜在的な余力。身・口・意によってなす善悪の行為が、後になんらかの報いをまねくことをいう。特に前世の善悪の所業によって現世に受ける報い。ある結果を生ずる原因としての行為。」といったことが書かれている。
 もともと「業」とは、行為のことであり、輪廻転生を基盤としている仏教になると、その行為が原因となって、来世で、ある結果をひきおこすということだろう。そうなると、この「業」という考えを成りたたせるためには、善悪という価値と、輪廻しながらの因果律を前提にしていなければならないことになる。
 鈴木大拙は、業について、つぎのようにいっている。「善行であれ悪行であれ、一旦行為を為したり、心に抱いたりしたなら、決してそれが水泡の如く消えるということはなく、場合に応じて潜在的な形をとり、あるいは活動形をとりながら精神および行為の世界に存続していく。」(『大乗仏教概論』岩波文庫、198頁)このような業と落語は、どう関係しているのだろうか。
 そもそも業は、肯定したり、否定したりするものではない。いまの大拙先生の説明によれば、業というのは、われわれの輪廻における厳格な法則なのだから、悪いことをすれば、それが、みずからに正確に返ってきて、いいことをすれば、かならずいいことがあるということなのだ。われわれには、どうすることもできない宇宙法則なのである。つまり、世界とは、そういう仕組みだ、ということだ。たとえば、万有引力の法則を、われわれが肯定したり、否定したりはできないのとまったく同じことである。
 ところが、談志は、落語をこう定義する。「私にとって落語とは、“人間の業”を肯定しているというところにあります。“人間の業”の肯定とは、非常に抽象的ないい方ですが、具体的にいいますと、人間、本当に眠くなると、“寝ちまうものなんだ”といっているのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、“これだけはしてはいけない”ということをやってしまうものが、人間なのであります。」(『あなたも落語家になれる』三一書房、17頁)なるほど、よくわかる。でも、これは、「業」ではないだろう。
 これは、人間の弱さであり、仏教的ないい方だと「他力」的なあり方だといえるだろう。意志や理性ではどうにもならず、感情や欲望にふりまわされ、それをみたす快楽におぼれてしまうわれわれの「情けなさ」みたいなものだろう。たしかに、これを「人間の業」といえないことはないかもしれない。そういう使い方もしている。でも、もともとの意味とは、ずいぶんちがう。なにせ、業とは、善悪を前提とした因果法則なのだから。まるっきり逆だといってもいい。
 それに、この定義を、談志がいう意味で(「業」の本来の意味に目をつむって)認めたにしても、落語には、「柳田格之進」もあれば、「井戸の茶碗」もある(正確にいうと、この二つは、「人情噺」であるが)。これらは、意志や理性によって、一本筋の通った人物の話だ。自分の欲望に押し流されない人たちの話なのである。だから、談志のいう意味での「人間の業」を落語の定義だとするのは、かなり無理があるだろう(そんなことは、談志は、百も承知だろうが…)。たとえば、「柳田格之進」は、こういう噺だ。
 生来の正直さから浪人となってしまった柳田格之進は、たまたま碁会所で知り合った両替商の萬屋源兵衛と大変親しくなる。同じような心根の柳田と萬屋は、肝胆相照らす仲となり、萬屋の家でいつも碁を打つようになる。ところが、815日、月見の夜、離れで、二人だけで碁を打っているときに、番頭の徳兵衛が主人にもってきた50両が紛失した。次の日、源兵衛があずかり知らないうちに、番頭だけで、柳田の住んでいる長屋に行き、柳田に五十両のことを話す。疑われた柳田は、自害しようとするが、それに気づいた娘の絹が、吉原に身を売って、五十両つくるという。柳田は、その金を徳兵衛に渡し、その際、もし、なくなった五十両がでた場合は、徳兵衛とその主人の源兵衛の首をいただくと約束した。そして忽然と長屋からいなくなる。
 それを聞いた主人の源兵衛は、番頭を厳しくしかり、柳田に本当にすまないと思い、謝るために、家のもの皆に柳田さまを探すように言い渡す。そのうち、年の暮れの大掃除の折に、離れの額のうしろからなくなっていた五十両が見つかる。年が明け、雪の降る日に、徳兵衛は、仕官かなって立派になった柳田格之進にたまたま出会う。徳兵衛は、紛失したお金が見つかったことを詫びる。翌日、柳田は、萬屋を久しぶりに訪れる。源兵衛は、自分が悪かったと首をさしだすが、徳兵衛も主人をかばい、自分だけを斬首してくれという。その二人のやりとりを見ていた柳田は、二人の首ではなく、碁盤を真っ二つに斬りさく。
 この噺のなかで、柳田格之進は、武士の倫理を代表しているといえるだろう。どんなに落ちぶれても、人の金に手をだすようなことはしない。人としての矜持を最も大切にしている。一方、萬屋源兵衛もまた、商人ではあるが、金銭至上主義とはほど遠い。他人の気持ちの襞までわかる苦労人だ。この二人を中心にして、この噺はなりたっている。この二人の間に挟まれて、番頭の徳兵衛が、自分の考えだけで、柳田を疑い、余計なことをする。しかし、そのような徳兵衛でも、最後は、主人を助けようとする利他的な行為をする。
 もし、談志的な意味で、「業の肯定」が落語の本質なのであれば、人を疑う徳兵衛のような人物が、主人公でなければならないだろうし、柳田も、萬屋も、もっと金銭に対して貪欲でなければならないだろう。また、最後の主従の美しいやりとりは、場違いなはずだ。
 この噺では、金銭欲や他人に対する猜疑心などではなく、俗事に恬淡とした二人の人物の関係が、軸になっている。そして、格之進の娘の絹も重要な役どころだ。父のため、みずから苦界に身を沈めてしまう。この三人が示す人間の崇高さも、落語の大きな特徴の一つであって、いわば、人間がもっている多面性、あるいは、さまざまな人間の多様性が、落語では描かれるのだ。もちろん、欲得にまみれた生き方も多くでてくるけれども、この噺のような凛とした生き方も、あるいは、他の噺では、短気で人の好い江戸っ子の気風の良さも、落語の特徴だ。
 そもそも、落語における「さげ」(落ち)の存在というのは、どういうものなのか。この噺で言えば、最後に囲碁盤が切られるというのは、どのような意味なのだろうか。これは、また、そのうちくわしく話すつもりだが、いままでの話を無化するためのものではないのか。「笑い」という現象も、そうなのだが、「落ち」というのも、このわれわれが生きている場所に、一気に別の次元を導きいれるようなものではないのだろうか。
 それに、この噺で、「囲碁」は、何か特別の役割を果たしてい
るように思われる。「文七元結」という噺でも、そうだが、ある意味で、囲碁は、「悪役」として登場しているようだ。「柳田格之進」では、囲碁に熱中するあまり、源兵衛は、はばかりに行くときに、額のうしろに五十両をおいたのを忘れた。文七も、碁に執心し、大切な金子(きんす)(これもまた五十両だ)を忘れてしまう。いずれも、囲碁に心を奪われることによって、物語の大切な発端をなしている。
 囲碁というのは、偶然性の支配しない「完全情報ゲーム」であり、実力のあるものが、おおむね勝利する。どこにも逃げ場のないゲームなのだ。うがった言い方をすれば、「業」による因果に覆われたわれわれの世界のようなものだといえるだろう。今の状態(盤面の形勢)は、前世の行ない(「業」=それまで打った手)によって決まっている、完全に隅々まで。この因果の連鎖は、未来永劫続くだろう。何という息苦しい連続だろうか。
「柳田格之進」の最後で、格之進が、諸悪の根源としての囲碁盤を一刀両断にするとき、われわれ人間のどうしようもない業の連鎖を断ち切っていると考えられないだろうか。偶然性への希望が、表現されているのではないか。「完全情報ゲーム」であれば、最初からある程度、結果は見えている。それとは、異なる切り口こそ、私たちが望む世界ではないのか。
 われわれは、「不条理」な世界を生きていく、どこまでも。意味のわからない状態で、延々と日々を暮している。そのような連鎖を断ち切ってくれるのが、「笑い」であり、「落ち」だといえないだろうか。わけのわからない一元的な世界(業による因果応報)に、「笑い」や「落ち」という別次元を卒然と導入してくれる。それが、落語ではないのか。これは、談志のいう「業の肯定」とは、全く逆の「業の否定」ではないだろうか。
 落語は、「業の否定」である。

 

 

(第2回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、都合により一週間遅れて2016年11月21日(月)に掲載します。