落語で哲学 中村昇

2016.12.12

04この世は、夢ではないのか(1)

 偶然とは、何だろうか。新宿で十年ぶりに友人と「たまたま」出会った。このときの「たまたま」が偶然だ。その友人と約束したわけではないのだから、会うことは予測できない。しかし、私が新宿に行ったのは、それなりの理由がある。西口にあるカルチャーセンターで講義をするためだった。一方、友人も、千駄ヶ谷の自分の事務所に行くために新宿を通った。私と友人は、それぞれ異なった目的があって新宿に来たのだ。つまり、二つのまったくちがう因果連鎖が、「たまたま」新宿で交叉したことになる。二人の必然的な流れが、「偶然」出会ったということだ。
 このように考えれば、われわれが「偶然」だと思っているものは、実は、「必然」の流れで説明できる。必然の交叉が、偶然だというわけだ。そこには、本質的な「偶然」はない、と九鬼周造はいう。しかし、そのようなさまざまな因果連鎖の舞台であるこの世界そのものは、必然でできたわけではない。必然的連鎖の根本には、逃れることのできない偶然がある。それが、「離接的偶然」だ。
 他でもない、この世界があるということ。このことは、原始の偶然なのだ。あの世界(離接肢A)でも、その世界(離接肢B)でもない、どの他の世界(離接肢C,D,E…)でもない、「この世界」(離接肢R)が、ここに現出しているということ。これが、離接的偶然である。(「離接」というのは、論理学の「選言」のことで、「または」で結びつけられる選択肢のことである。)
 私が机(タンポポ、水素原子、クワガタなど)である可能世界や、私が女性である可能世界、あるいは、私がどこにもいない可能世界も考えられるだろう。だが、「この世界」は、(残念ながら?)私が人間の男として存在し、他のもろもろの世界の構成要素も、今われわれがまさに経験しているようになっている。これは、まったく「たまたま」そうなったことだ。これが、離接的偶然である。
 1957年に、プリンストン大学の大学院生ヒュー・エヴェレット三世が、量子力学に関する斬新な論文を発表した。「量子力学の多世界解釈」というタイトルだった。われわれの世界を構成しているさまざまな要素は、量子力学では、確率波として記述される。光子でも、ニュートリノでも、クォークでも、この世界の構成要素は、はっきりと粒子として特定できない。この不可思議で曖昧な事態を、それまでの物理学者は、つぎのように解決した。

 量子力学のよりどころとなる確率波を、私たちは見ることができるのか? 確率波とは、確率のもやであり、そのなかでは一つの粒子がさまざまな場所で見つかる可能性がある。このような見慣れない確率のもやに、直接アクセスする方法はあるのだろうか? 答はノーだ。ボーアとそのグループによって開発され、彼らに敬意を表してコペンハーゲン解釈と呼ばれる量子力学の標準アプローチは、確率波を見ようとすると必ず、観測の行為そのものがその試みを妨害すると考えている。あなたが電子の確率波を見る―「見る」は「位置を測定する」という意味だ―と、電子はパッと動きを止めて、一つの確定した場所にまとまるという反応を示す。それに応じて、確率波はその場所で100パーセントまで高まり、他の場所では収縮して0パーセントになる。(『隠れていた宇宙』ブライアン・グリーン、ハヤカワ文庫、71-72頁、語句を少し変更した)


これが、コペンハーゲン解釈による「波の収縮」である。世界を成りたたせている素粒子は、確率波としてもやのような状態であり、位置をはっきり特定できない。ところが、それをわれわれが観測すると、もやは、たちどころに消え、一つひとつの粒子の位置がわかるというわけだ。『トイ・ストーリー』で、ウディやバズやポテトヘッドが、自由に動き回っているときに、人間のアンディが、部屋に入ってくると、突然、全員が動かなくなるように。そんな変なことがはたして起きているのだろうか。この解釈には、アインシュタインもかみついた。


 それにしても、このやり方は、不格好なだけでなく、恣意的で、数学的根拠に欠け、明確でさえない。たとえば、「見る」や「測定する」が正確に定義されていない。人間が関与しなくてはならないのか? それとも、アインシュタインがかつて問いかけたように、ネズミが横目で見るだけで充分なのか? コンピューターによる探査や、バクテリアやウイルスにつつかれるのはどうだろう? このような「測定」も確率波の収縮を引き起こすのか?(同書、75頁)


そこで、エヴェレットは、こう考えた。アンディが見ていなければ、ウディやバズやポテトヘッドは、特定の場所にはいない。つねに動き回って波のように存在している。ところが、アンディがドアを開けると、動きをやめ、それぞれ輪郭のはっきりしたおもちゃになり、決まった位置に倒れる。しかし、実は、その時、動き回っていたおもちゃたちが、波として存在していた領域のここかしこに応じて、世界全体が分岐していく。ウディがこの位置に倒れた「この世界」は、アンディαの世界であり、べつの位置に倒れた世界は、アンディβの世界であり、またべつの位置に倒れた世界は、…、ということになる。波は、収縮するのではなく、そう見えるだけであり、波の確率に応じて、べつべつの世界に分かれていくだけなのだ。ミクロの世界で起きていること(確率論的状況)が、そのままマクロでも起きている世界(多世界への分岐)。これが、「多世界解釈」だ。


したがって、ボーアが一つの測定結果以外は恣意的判断で議論から外したのに対して、多世界アプローチとデコヒーレンス(波が干渉ぜず混ざり合うこと)を合わせて考えると、それぞれの宇宙ではほかの結果が消えたように見えるということになる。つまり各宇宙のなかでは、確率波が収縮したかのように見えるのだ。しかしコペンハーゲンアプローチと比べると、「かのよう」は実在(リアリティ)の広がりをまったく別な風に描きだす。多世界アプローチから見ると、結果は一つだけでなく、すべて実現するのだ。(同書108-109頁)


 さて、芝浜という噺がある。この噺は、デリダの「反覆可能性」(itérabilité)という概念を説明する時にも、くわしく扱いたいので、今回は、さらっとあらすじだけ。以下のような噺である。

 魚熊(あるいは魚勝)は、いい魚屋だった。だが、酒におぼれて、しくじりが続いた。年の暮れ、かみさんにせきたてられ、魚を買いに河岸(かし)に行ったが、一時(2時間)ほど早くかみさんに起こされたものだから、近くの芝浜に行く。そこで、一服しているときに、足元の財布に気づく。大金が入っていたので、驚いた魚熊は、急いで長屋に帰り、かみさんにその財布を見せ、これから遊んで暮らせると喜ぶ。かみさんは、酒を呑ませ寝かせるが、しばらくして起き、湯に行き、近所の知り合いを呼び、酒盛りをする。
 翌日、二日酔いの熊は、かみさんに昨日の酒宴の支払をどうするのか、きつく言われる。芝浜で拾った金があるじゃないかという熊に対して、あれは夢だったんだよとかみさんは言いくるめる。熊も、夢だったんだと諦め、深く反省し、つぎの日から、酒をきっぱりと断って真面目に働き始めた。
 三年後の大晦日、立派な魚屋になった熊に、おかみさんは、三年前のことを告白する。例の財布を見せ、あの時の事情を話す。もし、あのままあの大金を使いこんで、噂にでもなれば、お上に捕まり、打ち首になっていたかもしれない。だから、あの時、あんたをだまして、財布は、お上に届けたんだという。落とし主が現れず、こうして財布は下げ渡された。本当に、あの時は、すまなかった、と。
 熊は、最初は驚いたが、おかみさんを許し、心から感謝する。おかみさんは、これまでの旦那の頑張りをねぎらい、久しぶりにお酒をすすめる。「呑んだらどう? お呑みよ」大層喜び、呑むつもりで杯を口に運び、じっと酒を見つめていたが、「やっぱりよすよ。また夢になるといけねえ」

 この噺は、コペンハーゲン解釈ではなく、多世界解釈によって、さらに深みを増す。あるいは、この噺の背景には、おおくの離接肢(可能世界)が隠れていて、芝浜という噺の内容が、現実になった離接的偶然として屹立しているともいえるだろう。
 まず、魚熊が、酒は好きでも、それに溺れず、一生、真面目にせっせと働く世界もあった。『甲府い』の伝吉や、ちょっと遊び人だが『百年目』の番頭さんのように、勤め上げることもできたはずだ。もし、そうであれば、生涯たんたんと、少しの問題も起こらず、この素晴らしいおかみさんと暮らしていけた。
 だから、最初の分岐のきっかけは、酒だ。酒を呑みつづけ、仕事がおろそかになり、最後は、仕事にもいかなくなる。そして、さらに、芝浜で財布を拾うことなく、あるいは、そもそも、かみさんに起こされても、魚市場に向かうことなく、酒を呑みつづけれていれば、そのままさらに貧乏になり、身体も衰弱し、夫婦仲も悪くなり(もしかしたら、別れて)、悲惨な最期を迎えるだろう。これもひとつの可能世界だ。
 つぎの分岐は、芝浜で拾った財布だ。この財布を拾い、しかし、この噺のようにはならない場合もあるだろう。かみさんの言うことをきかず、言いくるめられなかったら、おそらく短い期間で、大金を使い果たすだろう。その結果、おかみさんの言うように、噂が立ち、お上に知られ、島流しや死刑ということになるかもしれない。
 そして、三年後の大晦日、やっとまじめに働きつづけ、財布のなかの大金も手に入れた。おかみさんから「呑みなよ」と好きだった酒を勧められる。ためらうことなく、ぐっと一気に呑む。そこから、酒に呑まれる日々が再びやってくるかもしれない。そして、大金がある。やっと身についた堅実な日常が、崩れていく。今度は、もう二度と元に戻れない。これもまた、ひとつの可能世界だ。
 この噺は、いま言ったいくつもの可能世界に支えられている。お酒という、人間とは切っても切り離せない<もの>、お金(財布)という、これまた、とても魅力的な<もの>、これらが、多世界解釈における分岐をうながす重要な契機になっている。つねに、世界は、いろいろなものをきっかけにして分岐しつづけているのだ。
 芝浜のなんともいえない深みは、このような多世界解釈からわかるだろう。さまざまな可能世界が、たたみこまれているから、どうしてものめり込んでしまう。無意識を刺激するのだ。いろいろな解釈を許容するし、そこから、思いもよらない離接肢への道が垣間見える。こうした多層な背景が、この噺を幾重にも面白くしているのだと思う。
 また、この噺には、人間の酒に対する惑溺や金銭欲に対して、その背景として、しずかに海が存在しているのではないか。それは、時間によって急激に変化する<なまもの>の魚がいる海であえり、芝浜という海だ。志ん朝さんの芝浜では、熊が、酒を呑んで商いしているときに、客に魚が生臭いと言われるところがある。魚は、時間にやられる。すぐに駄目になるものだ。このことと酒をやめて、三年間実直にはたらく熊との対比が見事だ。魚の時間と熊の三年間とのコントラストが、この噺の底流に流れている。すぐに腐敗していく魚をそうならないように大切にしていく日々を三年の長い間積み重ねるということ。時間の長短が、実にうまく効いている。
 そして、芝浜という海の存在。三代目の桂三木助の名演では、美しい芝浜の様子が、見事に活写されている。もしかしたら、この噺であの演出が必要なのは、おかみさんの存在があるからかもしれない。三好達治の詩(「郷愁」)にあるように、海のなかには母があり、(フランス語では)母(mère)のなかに海(mer)があるのだ。最後の大晦日のシーン、小三治の芝浜では、三年前のことを告白したかみさんに対して魚勝(小三治では、魚熊ではなく、勝五郎)は、「お前のことを、もうおっかぁだと思わねぇ。親だと思うぜ」という。まさに、芝浜とおかみさん(「母親」になった「おっかぁ」)が、見事に対応するところだ。海と母が重なっている。
 本当は、さらに、芝浜の「落ち」から、デカルトの夢の話をするはずだった。次回につづくというところだろうか。

 

 

(第4回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年1
月16日(月)に掲載します。