落語で哲学 中村昇

2017.2.23

06「私」とはなにか?(1)

 いくつかの基本的な話をしてみよう。まず「同じ」ということ。「同じ」にはいろいろないい方がある。たとえば、「あの人と、同じ服をもっている」「昨日も、同じバスに乗った」「あなたって、いつも同じ人を好きになるのね」「あの人は、小学校の時からちっとも変わらない。ずっと同じ人だ」などなど。
 こうして、例をいくつかあげてみると、「同じ」は、いつも「完全に同じ」ものを意味しているわけではないことがわかるだろう。最初の例でいえば、「同じ服」といっても、「同じ」なわけではない。「ちがう」服だけど、「同じ」ブランドの「同じ」色の「同じ」かたちの服ということだろう。
 「バス」だってそうだ。「同じ」バスに乗ったわけではない。もちろん「ちがう」バスだし、もしかしたら、運転手も「ちがう」人かもしれない。でも、発車時刻は「同じ」だということだ。この場合は、時刻表だけが、「同じ」の基準になっている。毎日「同じ」時刻に、「ちがう」バスが発車するのだから。
 「同じ人を好きになる」という三番目の例も、「同じ」だろう。「あなた」は、いつもまったく「同じ」人を好きになるわけではない。そういう人もいるかもしれないけれども、その場合は、「いつも同じ人を好きになる」などというもってまわったいい方はしない。だから、常識的にかんがえて、これは、「同じような」人という意味だろう。「同じような」性格か、「同じような」容貌の人なのかはわからないけれども。この例は、「似ている」といういい方にすると、意味が鮮明になる。
 ところが、最後の例は、これまでとは、すこし「異なる」のではないか。この例の「同じ」を支えているのは、なんだろうか。もちろん、これも「完全に同じ」という意味ではないだろう。この発言がなされたのが、たとえば、「あの人」が30歳の時だとすれば、30歳になっても、小学生の時と「まったく同じ」ということは、通常はかんがえられない。「身長・体重」も、「性格」も、「髪の毛の本数」も何もかも、小学生の時のままというのは、現実的ではない。というよりもありえないだろう。
 しかし、だからといって、「ちがう」けれども、サイズも色も何もかも「同じ」服といった意味でもない。また、「ちがう」けれども、「同じ」時刻に発車するバスという意味で「同じ」というのとも異なる。もちろん、一人の「同じ」人間の小学生時代と、30歳の時が、「似ている」などといういい方は、絶対しない。だって、そもそも「同じ」人間なのだから、とても変な言い方になる。
 すると、最後の例だけが、他の例とは異なり、「同じ」といういい方が、ちょっと複雑に使われているということになるだろう。どういう使い方なのだろうか。たとえば、「A=B」というとき、ABは、明らかに異なるけれども、実は、「同じ」だという意味だろう。たとえば、「宵の明星=明けの明星」のようなものだ。それでは「A=A」は、どうだろうか。これは、「金星=金星」という例が当てはまる。しかし、もし、そのことをいうのであれば、「金星」だけでいいではないか。つまり「A」だけでいいのではないだろうか。
 つまり、あえて、「A=A」というためには、最初のAと二番目のAは、異なっていなければならない。事実、「AA」と書く時、その位置する場所が異なっている。やはり、まったく「同じ」とはいいがたい。だから、「A=A」というのは、実は、「A=B」の裏面にある式だといえなくもない。
 つまり、「宵の明星といわれているものは、実は、明けの明星と同じなんだよ。だって、ふたつとも金星なんだから」といっているのと同じなのではないか。「「A=B」だと思っているけれども、本当は「A=A」なんだよ」というわけだ。
 それに対して、「A」は、どうだろうか。それは、やはり「完全に同じ」ということになるだろう。それそのものが、そこにある(だけ)ということなのだから。異なったものは、どこにもない。「自己同一」そのものが、そこにある。
 しかし、これは、とても奇妙なことである。なぜなら、もし「A」が「完全に同じ」ということを表すというのであれば、「同じ」ということさえいえなくなる。だって、「同じ」というためには、二つの要素があって、その二つが「同じ」というのであって、<一つのものそのもの>が、「同じ」などという必要は全くないからだ。「同じ」というための条件がなくなる。
 そうなると、<一つのものそのもの>というのは、「同じ」以前ということになるのではないか。「同じ」という確認すらできない、それ以前の<なにものか>ということになるだろう。ようするに、「同じ」ともいえない<そのもの>ということだ。すると、「同じ」とは、真の「同じ」(<一つのものそのもの>)にかぎりなく近接しているが、けっしてそこにはたどりつかないものということだ。「金星」そのものは、まぎれもなく「同じそのもの」だけれども、しかし、それは、「同じ」とはいわない、ということになる。
 さて、このようにかんがえると、一人の人間が「同じ」であるというのは、いったいどうことになるのだろうか。まずは、いちばんわかりやすい「身体が同じ」というのは、どうだろう。しかし、何年か経てば、身体中の細胞は、すべて入れ替わるし、何十年か経てば、身体は、成長し、あるいは、徐々に衰弱する。これでは、どうかんがえても、「同じ」の根拠にはならないだろう。
 DNAが、「同じ」の根拠なのだろうか。だが、一卵性の双子もいるし、DNAの損傷もあるだろう。たしかに、「同じ」の根拠として現在もっとも有力だが、決定的だとは、まだ言えないのではないか。あるいは、デレク・パーフィットの思考実験みたいに、一人の大脳を二分割して、それぞれ双子に移植すれば、「同じ」人間といった概念自体が、どうでもよくなるかもしれない。何が「同じ」なのか、まったくわからなくなるからだ。
 それでは、心や精神が「同じ」というのは、どうだろうか。これも、基本的なことを確認してみよう。「心」や「精神」といったものを、われわれがかんがえることができるためには、ある程度の時間の幅が必要だ。もし、時間の幅がないならば、何かを思い浮かべたり、思考を持続したりできないからだ。そうすると、そもそも「心」も「精神」も存在しなくなる。まったくの無だ。
 そして、この時間の幅と「心」「精神」との関係を成りたたせるのは、「記憶」である。つまり、「記憶」がなければ、時間が経過する(ことを意識する)ことはなく、なにも頭のなかに登場しないことになる。極端ないい方をすれば、世界は現われない。そして、この「記憶」によって、「同じ」私は、「同じ」ことを確かめられるというわけだ。小学校の頃の記憶があるからこそ、その小学生が、いまの自分自身であることを確認できる。記憶が蓄積されているということが、「同じ自分」を保証してくれるだろう。
 しかし、この「記憶」は、全く信用できない。私などは、昨日のことさえ、はっきり覚えていないし、ずいぶん前のことなどは、自分の都合にあわせて、記憶を書きかえてさえいる。あるいは、書きかえていることさえ自覚していない。いや、もっと身近なことでいえば、毎晩、われわれは睡眠をとるだろう。この状態は、記憶に残っていない。睡眠だけではない。人によっては、深酒をすれば記憶はとぶ。これは、誰でも(とまでは言えないけれども)経験することだ。「記憶」があいまいで、信用できないことは、以上のことで明らかである。
 そうなると、身体的にも精神的にも、人の「同一性」をたしかなものにする基準は、どこにもなさそうだ。はたして、私は、生まれてから、ずっと「同じ」私だったのだろうか。今度は、その「私」について考えてみよう。最初に「私」は、一人しかいないことを確認したい。
 いやいや、その前に、「私」が二人でてくる噺を紹介しよう。それがいい、なんといっても、難しい話がぐだぐだと長すぎた。「粗忽長屋」の一席だ。

 朝、八五郎が、浅草の観音さまの境内をぬけると人がえらく群れていた。「行き倒れ」だといっている。八五郎は、「行き倒れ」がなんだかわからず、たくさんいる人の下からくぐって一番前にでてみた。そこにいた人が、身元不明の「行き倒れ」を見せると、八五郎は、「「生き倒れ」だと思ったら、「死に倒れ」じゃないか」などと言う。
 ところが、その顔をじっと見ると長屋の隣に住んでる熊五郎だった。八公によれば、熊五郎には、家族も親戚もいないという。「行き倒れ」の身元が分かって良かったと、そこにいた人は安心した。ところが、八五郎によると、熊は、今朝も長屋にいたという。
 当人が来るのが、いちばんいいからと言って、熊五郎をここに連れてくると言う。相手は困って、昨晩からここに倒れていたんだから、それは人違いだというが、八五郎は納得しない。当人を連れてくれば、いちばんはっきりするからと言って、長屋へ飛んで帰る。
 八公は、急いで、熊五郎に、「行き倒れ」の一件を話すと、熊も、昨夜、吉原から酔っぱらっての帰り道、浅草寺の境内をぬけた後の記憶がないという。八五郎は、それがおまえが死んだ証拠だといって、これから、熊五郎自身の死体を引きとりに行こうと誘った。
 嫌がる熊を無理やり浅草に連れていって、死体に対面させる。死体を見守っていた人は、「ほら、「行き倒れ」は、本人じゃないだろう」というが、八五郎は、納得しない。熊に、「お前の死体だ」といって、無理やりそう思わせる。仕方なくそう思いこんだ熊五郎は、自分の亡骸を抱いて、こういう。
 「抱かれているのは確かに俺なんだが、抱いている俺はいったい誰なんだろう」

 ウィトゲンシュタインは、若いころ書いた『論理哲学論考』のなかでこういっていた。

 世界と生は、一つだ。(5.621
 私は、私の世界である。(5.63
 主体は、世界に属してはいない。それは、世界の限界なのだ。(5.632

世界に「私」は、一人だけだ。それは、私と世界とが一つであることを意味している。主体(「私」)は、世界のなかにはない。「世界の限界」として、その背景をなしている。「私=世界」から、「私」は逃れられない。一生、「私だけの世界」(世界=私)で生きていくしかない。
 もちろん、他人は、いるだろう。ただ、その他人は、「私=世界」のなかの一登場人物でしかない。「私=世界」というスクリーンに映される映画のなかの俳優にすぎない。他人は、けっして「私」と対等の存在ではない。「私」と他の人間は、根源的に「非対称」なのだ。同じ空間で「対称」をなしていて、比較できるようなあり方をしてはいないというわけだ。
 しかし、「私」(主体)は、世界のなかには、いないので、それを確認することは決してできない。それが、どのようなものなのか、誰にも(と言っても、世界には、「私」だけしかいないのだが)わからない。
 これは、さっきの「同じ」と、「同じ」状況ではないのか。「本当の同じ」は、<それそのもの>(つまり、A)だった。ただ、そうなると、もはや「同じ」といういい方はできなくなる。何か(A)と何か(B)を比べて、「同じ」だと判断する(A=B)ことによって、「同じ」という概念(A=A)は、成立するのだから。「同じ」は、自分の故郷(<それ自身そのもの>)(A)に帰ったとたんに、自分自身ではなくなる(¬A)というわけだ。
 「私」も、世界に一つしかない。というよりも、世界が私自身なのだ。そうなると、この「私」は、何も意味していないことになる。「私=世界」であることによって、「私」は、完全に消える。「私」が、「私」であるためには、世界のなかに、比較できるものとしての「他人」がいなければならない。「他人」がいなければ、「私」という概念は、まったくいらなくなるのだから。
 さて、「粗忽長屋」の熊五郎は、ありがたいことに、「私=世界」のなかに、いないはずの「私」を見つける。本当は、消えているはずの「私」(自分自身)が、ひょっこり熊公の前に現れた。ただ、残念なことに、その「私」は、ただの物質(つまり、死体)にすぎなかったけれども。
 このからくりは、どういうことなのだろうか。次回のお楽しみに、ということで…

 

(第6回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年3
月13日(月)に掲載します。