落語で哲学 中村昇

2017.3.21

07「私」とはなにか?(2)

 しかし、それでは私とは何であるのか? 考えるものである。これはどういうことか? すなわち、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、また想像し、感覚するものである。これらすべてが私に属するなら、これはたしかに少なからぬことだ。だがどうして属さないことがあろうか?私自身は次のようなものではないのか。つまり私は、今はほとんどすべてのものを疑い、にもかかわらずいくつかのことを理解し、この一つのことを真だと肯定し、他のことを否定し、より多くのことを知りたいと欲し、欺かれることを欲さず、多くのことを意に反しても想像し、また多くのことを感覚から由来するかのように認めているではないか。たとえ私が常に眠っているにせよ、また、たとえ私を創造したものが力のかぎり私をだましているにせよ、それらのことのうちに、私が在るのと同じほどに真でないものがあろうか? 私の思考から区別されるものがあろうか? 私自身から切り離されるということができるものがあろうか? というのは、私は疑い、理解し、欲するものであることは、きわめて明らかであって、それ以上に明証的に説明するものは何もないほどであるから。(デカルト『省察』ちくま学芸文庫、49~50頁)

 
 デカルトによれば、もっとも確実なのは、「われ思う」ということになる。「私」が疑ったり、理解したり、想像したりする精神の働きこそが、この世界の基盤にしっかりとあることになるだろう。「私の思考」が最も明証的であり、それが「私が在る」ことであり、それがこの上なく真なのである。「私」の身体でもなく、「私」の感覚でもない。それらの背後にある「われ思う」こそが最もたしかなのだ。
 しかし、もし「私」がそのようなものであるなら、はたして「私」などという枠組みが必要だろうか。「私に属する」といういい方が、はたしてできるのだろうか。つまり、「私」などと、あえていう必要があるのだろうか。何もかも疑いつくし、その徹底的な懐疑のために灰燼に帰した周りのものを、呆然と眺めている「私」は、<何ものか>であるのだろうか。
 そもそもその「私」を、誰が確認するのか。「私」の他に「私」をたしかめる何か(誰か)がいるのでは、それは、「枠組み」ではないだろう。なんといっても、それは、透明な背景のようなもの、何も前提しないものでなければならないのだから。たしかに、<それ>は、ある。しかし、それを、誰も(何も)知ることはできない。知る手がかりさえない。
 われわれの視野に<眼そのもの>は、決して登場しないように、<それ>は、「知る・知らない」以前のものだ。「知らない」可能性が全くない「知る」。つまり、「知る」ことが絶対にできない、だが、ある意味では、われわれが何よりも、もっとも確実に「知っている」ものなのである。
 いま雨が降っている。雨脚がつよく、路面にたたきつける音がする。冷たい湿気がたちこめ、雨そのものにとりかこまれているかのようだ。このようなとき、どこに<私>はいるのか。すべて(世界)は、<雨そのもの>になっているだろう。<雨がある>いや、<それ>があるだけだ。
 いや、そうではない。<私>がいるから、雨を認識できるのであって、<私>がいなければ、ただの<無>ではないのか。何もない。しかし、<私>がいることを、誰が認識するのか。誰もいない。ただの透明な枠組みではないか。だったら、やはり、<それが降る>あるいは、<それ>だけでいいのではないか。たしかに背景はあるだろう。ただ、それを、あえて<私>などという必要はない。
 そうすると、こういうことか。たしかに<私>は、背景として必要だ。世界を開かなければならない。<私>という窓から、もろもろの現象が見えるのだから。しかし、それは、<私>が見るのではなく、<私>のなかで、その現象があらわれているだけ。もうそこには、<私>はなく、<そう>見えるだけなのだ。
 粗忽長屋にもどろう。この噺には、八五郎もいれば、熊もいる。熊五郎の死体を見張っている人もいれば、野次馬もたくさんいる。この多くの<私>をどう考えればいいのだろうか。たしかに、それぞれの<私>は、そこから、おそらく、独自の世界を開いているだろう。それぞれ唯一無二の世界が展開されていると予想できる。(本当のところは、<私>には、わからないけれども)
 そのような「粗忽長屋」の世界の背後には、背景になっている<私>がなければならない。それは、最終的には、<この私>、つまり、「粗忽長屋」を見ている客ということになるだろう。客がいて、落語が成りたつのだから。だが、もちろん演者がいなければ見ることはできない。小さんが、小三治が、志ん生が、志ん朝がいなければ、「粗忽長屋」は、あらわれない。
 落語は、不思議な芸である。ひとりで、すべてを演じるので、逃げ場がない。しかも、講談や浪曲とちがい、状況説明などは最小限におさえ、いきなり人物の台詞のやりとりがはじまる。落語家自身が、ト書きなしで世界を開き、展開し、閉じなければならない。恐ろしい芸だ。噺家の<私=世界>だけで、終始しなければならないのだから、豊饒になるか、貧寒となるかは、演者一人の腕次第ということになるだろう。
 しかし、この落語の特徴は、異なった側面も示している。われわれの世界の最も根源的なあり方を、そのまま舞台で演じるものだという点だ。噺家という<私>のなかで、すべては展開していくというのは、<私>と<世界>との結びつき(<私=世界>)そのものではないか。ウィトゲンシュタインがいうように、私が世界そのものだ、というわけである。
 演劇や漫才、コントであれば、複数の人間によって、ある場がつくりだされる(一人芝居は別として)。その場に客も入りこむことによって、感動したり笑ったり白けたりする。いってみれば、役者や漫才師と同じ資格で、客もその場に参加していく。もちろん、その背景には、客自身の<私=世界>があるから、そう単純ではないのだが、多人数の舞台では、それはそれほど意識されない。
 しかし、落語は、演者は一人だ。複数の人間により、世界がつくりだされるのではなく、演者自身が無という背景になって、噺そのものの世界を現出させなければならない。客の<私>が背景となっている世界にうまく重なりつつ、みずからも消えなければならない。だから、枕は、とてつもなく危険なのだ。枕で、爆笑をとると、噺家自身の<私>が、うまく消えなくなってしまう。噺がいつまでたっても、始まらない。
 小さんが、小三治が、見事に消えることによって、八五郎や熊五郎が生きいきと現れてくる。どこにも、背景としての<私>は、存在しない。これが、噺という世界だ。演者の<私>は、透明な背景としてのみあるべきなのであって、噺に登場してはいけない。ほんの少しも。
「粗忽長屋」という噺は、このような<私>のあり方を、見事にとりだしている。熊五郎の<私>が、最後の最後で顔をだすからだ。だから、「粗忽長屋」は、大げさな言い方をすれば、われわれの根源的なあり方(私=世界)と落語そのものの本質(演者の<私>の消滅)とを、実にわかりやすく指摘している噺だといえるだろう。三重の<私>が、落ちになっているというわけだ。
 角度を変えてみよう。何度もいうが、私は、私を確認できない。しかし、これは、<私>ではなく、当たり前の「私」だ。われわれは、(変ないい方だが)いちばん自分自身であるはずの自分の顔や姿を、直接見ることはできない。もちろん鏡や動画で見ることはできるだろう。でも、それはあくまで、一面的であり、過去のものにすぎない。いま、この瞬間の生きいきした自分自身を、自分でたしかめるすべはない。
 私たちは、他人の顔や動きを見ることによって、自分の顔や動きを類推している。他人の顔や動きであれば、あらゆる角度から、どんな表情やたたずまいでも、観察可能だからだ。同時に、他人もまた、私の顔や行為によって、自身のそれを推測するだろう。こうして私たちは、自分と他人とが、相互に補い合いながら、この世で生きていく。そのままの意味で、自分は他人の鏡であり、他人は自分の鏡なのだ。
 このことは、前回述べた「同じ」の不思議とも関係があるだろう。同一性を確認する「同じ」(A=A)は、すでに「同じ」(A=B)とはいえない。「同じ」というための比較の要件(ふたつのもの)を満たしていないのだから。「真の同じ」は、「同じ」ではない。これは、「私」だけが存在しているのであれば、それは、「私」ですらないというのと同じだろう。私と他人がいて、はじめて「私」ということができる。そして、これは、背景としての<私>のあり方とも、深く関係していることは、すぐにわかるだろう。
 だから、熊五郎が、自分で自分の身体をみるとき、そこには、二つの意味がある。
 本来であれば、「真の同じ」は、「同じ」ではないのに((A=A)≠(A=B))、「真の同じ」が、いわば分裂して、比較可能なものとして(A=A’)、あらわれてしまったという意味。「自己同一性」(A=A)の「同一」が確認できる事態が、生じたのだ。「同じ」の根底にある矛盾が、そのまま露呈している。「同じ」は、じつは、「同じ」ではないことを、裏面から、はっきりと示してしまった。
 そしてもうひとつ。自分を決して見ることができない背景としての<私>が、自分を見てしまった。背景としての<私>があるからこそ、この世界は、成りたっている。そして、その構造のなかで、具体的な「私」も、他人を鏡として自分自身をたしかめる。ところが、熊五郎は、他人ではなく、自分自身(死体)を鏡として、自分をたしかめざるをえなくなった。他人を鏡として自分を類推するはずが、自分を鏡として自分を「類推」してしまったということだ。つまり、われわれの自己認識の根底にある「自他の相補性」とでもいうべき事態をこわしてしまったのだ。何ということだろう。
(何度もくり返して、申し訳ないが)<私=世界>なのだから、背景としての<私>は、この世界には登場しない。たしかに、その世界には、いろいろな登場人物(それぞれの「私」)が、生きいきと見えるだろう。それを仮に「三人称の私たち」と名づけよう。
 三人称の私たちは、<私>という舞台のうえで、生きている。いろいろな出来事が進行していく。しかし、そのなかの特定の「私」が、こちらをじっと見つめている。背景であるはずの<私>を、舞台のなかへと誘っているのだ。このように誘う「私」を「二人称の私」と呼ぶならば、透明な枠組みの<私>は、「二人称の私」によって、この世界のなかの登場人物である「私」を自覚するといえるだろう。「自他の相補性」というのは、このことだ。
 八五郎の<私>は、「三人称」の熊五郎を比較した。二人の熊は、八五郎の<私>のなかの登場人物にすぎない。おかしな事態ではあるけれども(本当に、相当おかしな事態だ!)、生きている熊と死んでいる熊が、それぞれ「三人称の私」として存在している。
 しかし、熊五郎の<私>にとっては、そうはいかない。屍となった自分自身を見ることによって、「自他の相補性」が強くはたらき、あるいは、破壊され、「自自の相補性」になってしまう。背景の<私>が、「自他の相補性」のレベル(具体的な「私」)に無理やりひきずりだされてしまった。
 そして、そのありえない矛盾(AA’)にひき裂かれ、思わず、背景である<私>を<私>が指摘してしまう。だからこそ、死体の「私」をたしかめたあとで(「抱かれているのは確かに俺なんだが…」)、熊五郎は、「抱いている俺はいったい誰なんだろう」というのだ。この順序は、まったく正しい。おそろしいほどに正確だ。
「抱いている俺」、つまり、黒幕である透明な枠組みが、最後の最後でほんのちょっとだけ姿をあらわす。前代未聞の出来事がおこるのである。
「粗忽長屋」は、背景であり、決してあらわれてはいけない<私=世界>が、ぬっと姿をあらわす比類のない噺だといえるだろう。

 

(第7回・了)

 

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月24日(月)に掲載します。