落語で哲学 中村昇

2017.6.2

09「顔」について

   ひとり「汝殺す勿れ」を告げる顔のヴィジョンだけが、自己満足
  のうちにも、あるいはわたしたちの能力を試すような障害の経験の
  うちにも、回帰することがない。というのは、現実には殺すことは
  可能だからである。ただし殺すことができるのは、他者の顔を見つ
  めない場合だけである。殺すことの不可能性は現実的な不可能性で
  はなく、道徳的な不可能性なのである。顔のヴィジョンはなんらか
  の経験ではなく、おのれの外部への踏みだしであり、ある他なる存
  在者との接触であり、単に自己を感覚することではないという事実
  は、この不可能性の「純粋に道徳的な」性格によって裏付けられ
  る。(レヴィナス『困難な自由』内田樹訳、国文社、27頁)

 わたしたちは、他の人間を殺すことができる。しかし、一般には、この行為は、それほど容易ではない。というより、かなり困難なことだろう。たいして波風のたたない人生において、殺人に遭遇する機会は、ごく少ない。被害者としても加害者としても。なぜだろうか。法律で禁止されているからか。自分や自分の家族が、他人に無慈悲に殺されるのが嫌だから、みんな抑制しているのか。
 レヴィナスは、「顔」に焦点をあてた。他人の顔がこちらに向いているとき、その顔は「汝殺す勿れ」と告げられているという。「顔」を見つめるというのは、たんなる経験ではなく、「外部への踏みだし」だというのである。「顔」の彼方には、われわれの経験を超えた無限の外部が開かれているというのだ。これは、いったいどういうことだろうか。
 たしかにわれわれは、同じ生命でも、路傍の花を手折(たお)ったり、樹木を伐採したり、芝生を踏みつけるときには、さほど罪悪感を抱かない。だが、犬や猫に対して、それと同じことは、なかなかできないだろう。それは、レヴィナス流のいい方をすれば、花や木や芝生には、「顔」がないからではないか。
 蚊や蝿を平気で殺す人も、蛙や蛇はどうだろうか。鳩や鴉(からす)は、どうか。「顔」がはっきりこちらにわかる大きさの動物だとかなり抵抗があるのではないか。もし、蚊が、顔だけ人間と同じ形と大きさをもっていたら、どうだろうか。蚊に「人面蚊属」という種類があったら、蚊にたいするわれわれの生命哲学や行為は、がらっと変わるのではないか。少なくとも、ほかの属の蚊にたいする態度とは、異なったものになるだろう。
 動物解放論のピーター・シンガーは、われわれの肉食について、甲殻類と軟体動物とのあいだでの線引きを提唱した。それは、「痛み」の有無が基準らしい。「顔」の有無も、このような基準になるのだろうか。こちらをじっと見つめる「顔」をもつ生物を殺すのは許されず、「顔なし」の生物は、殺してもいいといったように。しかし、これでは、あまりにも、恣意的すぎるだろう。シンガーも、つぎのようにいっていた。

   本書の初版では私は、もし線引きをするならば、小えび(甲殻
  類)とカキ(軟体動物)のあいだのどこかでするのが一番妥当だと
  提案した。だから私は、ベジタリアンになってからもしばらくは、
  ときどきカキ、ホタテ貝、イガイを食べ続けた。しかし、これらの
  生物が、痛みを感じているとも、ぎゃくに感じていないとも、どう
  してもはっきりわからなかった。もし、痛みを感じているならば、
  カキやイガイを食べることは、それらの生物に痛みをあたえること
  になるだろう。カキやイガイを食べなくてもなんでもないのだか
  ら、いまは私は、それらを食べない方がいいと思っている。(『動
  物の解放』戸田清訳、人文書院、218219頁、訳文は、地の文と
  の兼ねあいなどにより適宜変更した。)

「顔」とは、なにか。「顔」と「痛み」は、関係しているのか。この問題は、かなり根深い。他の角度から攻めてみよう。
 ウィトゲンシュタインと蝿の縁(えにし)は、われわれにははかりがたい。「哲学の目的」を、「蝿に、蝿とり壺からの出口を示すこと」(『哲学探究』309節)といったこの哲学者は、痛みのきっかけという重大な問題についても、以下のように、蝿に大役を与えている。

   石を眺め、それが感覚をもっていると考えてみよ! ひとは自問
  する。いったいひとはどのようにして、物体感覚を帰属させると
  いったことに考えおよぶことができたのだろうか。まったく同様に
  して、数に感覚を帰属させることもできたであろうに!と。――で
  は、ばたばたもがいている蝿を眺めてみよ。そうすれば、そうした
  困難はただちに消えうせてしまい、それまであらゆるものがいわば
  滑らかであったこの場で、苦痛なるものがはじめて手がかりをつか
  むことができるように思われる。(『哲学探究』284節)

 なぜ蝿は、植物のように静かに生命を閉じないのだろうか。彼女/彼は、何かを感じているのではないか。「痛み」のようなものを。いや、「痛みそのもの」を。そうでなければ、あのように「ばたばたもがく」ことはないだろう。「顔」と「痛み」の現れとは、こうして関係してくるだろう。しかし、「顔」という湖面にできた「痛み」という波が、問題だとすれば、まったくさざ波のたたない湖面、あるいは、「顔」がないものについてはどうか。それとも、あらゆる存在には、「顔」があるのだろうか。
 たしかに人類は、進歩しているのかもしれない。奴隷解放、男女同権、人種差別撤廃、LGBTの人たちに対する配慮など。ヒトという種のなかでは、「良き」方向に向かっているようにも思われる。この方向は、さらに進んで、ヒト以外にもおよんでいくだろう。
 人類以外の動物が解放され(肉食が、喫煙のように忌避されるようになり、動物園はもちろんなくなり)、さらには、植物が解放され(「雑草」などという概念が消え、樹木伐採は罪となり)、鉱物がそれにつづく。最終的に「存在するもの」すべてが、平等な権利をもつものとして、解放され尊重されるにちがいない。イチローが、自らの道具を大切にあつかうように、人類は、すべての存在と、丁寧に慎重につきあうようになる。こうして、あらゆる存在が、平等になる世界がくるだろう。
 しかし、その過程においては、時代や地域によって、さまざまな「倫理」や「道徳」が、決められていく(誰でもいうように、殺人罪がある一方で、戦争や死刑など国家による殺人は、罪にはならない、など)。存在すべてが平等になる方向性と、「倫理」「道徳」の、この根源的恣意性との関係は、いったいどうなっているのか。
 いつも不思議に思うことがある。こういうことだ。倫理と価値とは、密接にかかわっている。この事実だけの世界で、「良い」というためには、「良い⇔悪い」のちがいが生まれなければならない。価値は、二つのもののちがいによって生まれるからだ。それを基本に、倫理が成立する。殺人は「悪く」、自らの命と引き換えに他人を助ける のは「良い」。嘘をつくのは「良くない」ことであり、何でも正直に話す「べき」だ。といった倫理の世界が開かれる。事実とは異なる価値の領域がつくられていく。
 特徴のない顔よりも、イケメンのほうが「いい」。学歴の高い方が、年収の多い方が「いい」。「湘南ナンバー」の方が、「多摩ナンバー」より「いい」、地底よりも天空の方が「いい」、などなど。日ごろからいつも、われわれは、価値づけをしている。認識そのものが、価値づけだといっていいくらいだ。
 こう考えると、倫理的な領域が生まれてくるのも、当然のことかもしれない。われわれが、何かを見たり聞いたりする時、そこに、「良い悪い」の価値が、すでに含まれているからだ。だとしたら、これは、とても不思議なことである。というのも、もし、先ほど述べたように、われわれ人間が、すべての存在が平等であることを目指しているのだとしたら、このような倫理は、最初から、その方向と齟齬をきたしているのではないか。
 倫理は、ちがいによって自らの領域を開きながら、最終的には、その領域を、全面的に否定しなければならない。なんという面倒なことをしているのだろう。本来は、ただいろいろなものがあるだけの純粋な事実の世界に、ちがいという観点が導入され、それと同時に価値の世界が開かれる。このことによって、「良い悪い」の議論がされ、そのつど、時代や地域によって、「良きもの」が決まっていく。
 なぜ、事実だけの世界ではいけないのか。そのままで平等ではないのか。しかし、これはこれで仕方のないことだろう。この世界に満ちみちている存在は、すべて、形や色をもっているからだ。ちがいを前提としたあり方をしているからだ。もし、この世のものに、形や色がないならば、そこではちがいが生まれない。いわば、無味無臭で透明な「もの」が、多くいても、そこにちがいはないだろう。
 志ん朝さんの「化け物使い」で、のっぺらぼうの女性にたいして主人がいう「なまじ目鼻がついてんで、苦労している女はいくらもいるんだよ」という絶妙のくすぐりがあるが、まさに、目鼻という形があると、必然的に差異がうまれて、そこから、もろもろの苦労が生じるというわけだ。
 もし、倫理や道徳が、差別をなくし、平等で対等な世界を目指しているのなら、われわれ全存在のいまの形態では、最初から倫理は、自分自身の発生の条件を否定するという根源的な矛盾をおかしていることになるだろう。
 だんだん妄想のような話になってきた。そろそろ落語の紹介をした方がいい。今回は、「一眼国」だ。

 諸国を巡礼して歩く六部が、ある香具師の親方のところで、一晩泊った。いろいろな国を歩いているお前さんだから、珍しいネタはないかと親方は、六部に訊く。臍でものを食べたり、天井裏に足の裏くっつけて歩く人とか、いないかね、いれば、見世物にだせるのだが、と尋ねる。六部は最初は、そんな話はないといっていたが、そういえば、と話しだす。
 江戸から東へ東へと三日ばかり行ったときに日が暮れて宿もとれず、森のなかで一服していた。すると、うしろから「おじさん!」と呼ぶ声がして、ふり返ると、五つか六つの女の子がいて、よく見ると、顔の真ん中に眼が一つしかない。ぞっとして夢中で駆けだしてどうにか見つけた宿に泊まった。それから、一つ目の夢を見て、夜うなされた。
 それを聞いて、親方は、自分もでかけていって、江戸から東へ東へ三日ほど歩いたが、何も起こらない。六部のやつ出鱈目いったなと怒っていると、とある森にでた。一服していると、「おじさん!」と声がして、そっちを見ると、五六歳の女の子で一つ目だった。しめたとおもって、つかまえて走って行こうとすると、子供は、大声で叫びはじめた。その声で、法螺貝の音がすると、「ひとさらいだ!」という声がして、多くの大人たちが追いかけてきて、捕まってしまう。
 奉行所へ連れていかれ、お奉行に調べられる。顔をあげて、見てみると、お奉行も一つ目だった。向こうもこっちを見て驚いて、「こやつ眼が二つだ。珍しい。調べは後だ。見世物にだそう」

 一眼国と二眼国とでは、さまざまなものが根本から異なるだろう。一眼で見るわけだから、世界の様相も異なるだろうし、それにもとづき、言動や思考もちがうだろう。倫理や道徳だって、二眼国のなかでさえ時代や地域でちがうのだから、それは、まるっきり異なっているかもしれない。
 一眼国には、多くの一つ目がいて、二眼国には、多くの二つ目がいるということだ。三眼国だって、n眼国(あたりまえだが、「化け物使い」ののっぺらぼうだって、「顔」はあるのだから、このnには、0もはいる。)だって考えることができるだろう。そして、この噺も、むりにレヴィナスに結びつければ、「顔」が話題になっているといえるかも知れない。「一眼の顔」の彼方にも、無限の領域が開いている。
 最後は、ウィトゲンシュタインにふたたび登場してもらおう。

   ところで色覚異常の人は、自分自身を「色覚異常」と呼ぶことを
  かつて思いつくなどということがあっただろうか?――なぜ思いつ
  かないのか?
   しかしもし「正常な視覚の持ち主」が、色覚異常の人が人口のほ
  とんどを占めるところで例外になるならば、正常な視覚の持ち主
  は、色彩語の「正常な」つかい方をどのようにして習得できるのだ
  ろうか?――正常な視覚の持ち主は色彩語をまったく「正常に」用
  いているのだが、色覚異常の人が、そうした(正常な視覚の持ち主
  の)非日常的な能力を最終的に評価できるようになるまでは、他の
  人たちの目には、ある種の誤りをおかしていると映るかもしれな
  い、ということは考えられないか?(『色彩について』第三部、
  286節)

 このように考えれば、なにもかも、量的な問題(多数決)のように思われてくる。それでもやはり、普遍的な何か(例えば「善悪」のようなもの)があるような気になるのは、<私>だけだろうか。

(第9回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年6
月27日(火)に掲載します。