紙の旅 矢萩多聞

2017.1.11

01はじまりの一枚

 いま目の前に一枚の紙がある。窓から差しこむ柔らかな光を受けて、机の上で白く光っている。
 紙にはまだ一粒のインクも染みこんでいない。上も下もなく、右も左もない。誰かが作ったもののはずだが、名前はどこにも書いていない。
 人差し指でそっと触れてみる。指の腹にふかっとした感触。そのままスケートリンクを滑るように指をスライドさせる。ペンの滑りもよさそうだ。
 さて、ここに何をかきはじめようか。

 子どものとき、自分が食べているビスケットは、どんな人がつくっているんだろう、と考えることがあった。
 小麦粉や卵などの原料はもちろん、味つけの砂糖、バター、ナッツから、乾燥剤やプラスティックの包装、紙製のパッケージにいたるまで細かくさかのぼっていったら、たった一袋のビスケットをめぐって地球を何周もしてしまうかもしれない。
 あたり前ではあるけれど、そのことに気がついたぼくは、まるで新大陸をみつけたかのように興奮した。それ以来、食べ物や文房具など、身の回りのものをじっと見つめて、それができるまでの人や物語を空想する、そんな小さな遊びに耽るようになった。

 十数年ほど前から、ぼくは本をデザインする仕事をしている。
 文字でつくられた原稿データを、本のかたちに仕立て上げるために、文字やレイアウトを考え、絵や写真を組み合わせ、印刷やインクの種類を選ぶ。
 本にはカバー、表紙、見返し、扉、帯など、いろいろな要素がある。どこにどんな紙を使うのか。それを手にする読者を想像して選ぶ。
 海外の人にとっては信じられないほど、日本には膨大な種類の紙がある。何百、何千とある紙見本を端からぺらぺらと眺めているだけで、あっという間に一日が終わってしまう。
 たとえ同じデザインであっても、紙の色や質感、厚さが異なれば、まったく別の印象の本になる。どんなに苦心してデザインを練っても、その意匠が紙と響きあっていなければ何の意味もない。
 一般的に「読書」というと文章の中身のことばかりがクローズアップされるが、「本」というフォーマットが数千年の時を経て生き残ってこれたのは、読書体験のかなりの部分を「紙」が支えてきたからではないか。
 本を読むのは読者だが、読者は人間であり、本に触れるのは身体だ。本を読んでいるとき、実際に身体が触れているのは紙なのである。

 紙は植物の繊維からできている。多くの水とともに、繊維は砕かれ、混ぜられ、伸ばされ、乾かされ、染料や薬品が塗られ、巻き取られ、梱包され、各地に輸送される。そこには数え切れないほどの人がかかわっているはずだ。
 野菜や米の産地、農薬や遺伝子組み換えを気にする人はいても、毎日自分の尻を拭いているトイレットペーパーや、通勤電車で読んでいる本の紙が、どうやって作られているのか気にする人はほとんどいない。
 いま目の前にあるこの紙を作っているのはどんな人たちなのか、彼らはどんな町で、日々何を考え感じ暮らしているのか。
 このまま何も知らないまま本づくりの仕事を続けていくことはできない。日ごろの自分の仕事や暮らしを生き直すためにも、紙をつくる町、人を巡る必要があるはずだ。

 もしかすると、一枚の紙の地平から、いまだみたことのない世界の豊さが覗けるかもしれない。そんな期待を胸にぼくは旅に出る。

P1160215-2

 

 

(第1回・了)

 

この連載は月3回更新でお届けします。
次回2017年1月18日(火)掲載