選ぶか、選ばぬか、それだけ
夏のハイシーズン、次つぎとやってくる観光客を前に、ときどき自分が動物園の見世物みたいに見られている気がするという。
「まあ、こんな家で、こんな仕事を、すごいわねえ……とよく言われる。でも、私は異常でもなければ、世捨て人でもない。この村の成り立ちはちょっと変わっているかもしれないけれど、何も特別なことは起きていない。むしろ、とても平凡で、ささやかな幸せが欲しくて、この生き方を選んだだけです」
思い返してみればぼくも同じような眼で人から見られることが多かった。インドで暮らすなんて、信じられない、すごいねえ、と言われるが、滞在ビザを取り、チケットを買い、アパートを借りれば、誰にでもできることだ。それと引き換えに諦めたり、捨てないとならないこともあったが、最終的には自分がそれを選ぶか、選ばないか、その違いしかない。
「定年になったらこんな村で私もペンションでもやりたいわ、と言うお客さんもいます。私はそんなの待てない。いまここで仕事をしたい。それを死ぬまで続けていきたい。自分の手が動かなくなるまで……たとえ八〇歳を超えたとしてもね。
どんな仕事も同じ。それが他人の目から見たら奇異に映ることだとしても、あなたの仕事はあなた自身のためにある。自分のためにそれを選び取らなくてはならない」
それでも都会を離れ、人の少ないちいさな村で暮らすことの寂しさや、不安はないのだろうか。
「幸運なことに私の近所には、気やすい友人が多くてね。よく顔をあわせてはおしゃべりしたり、お茶をのんだり、楽しくやっている」
誰かの家で夕食を食べることも多いそうだ。特別な料理は必要なくて、みな何も言わずとも「わたしはサラダつくる」「じゃあ、ぼくはスープ」とそれぞれが率先して何かつくって持ち寄ってくる。
「私はワインでもぶらさげて、歩いて友だちの家に行けばいいだけ」
ヘルシンキに住んでいた頃は、家に人を招くのも一苦労だった。みなのスケジュールを調整してやっと集まっても、気ぜわしく「何時にどこで待ち合わせて」「最終バスは何時だっけ?」と時間ばかり気にしてしまう。
「やっと乗った最終バスは酒臭い酔っ払いと疲れ果てた人たちで満員。ああ、なんてこと! 思い出すのもいやだわ」
友だちの家に歩いて行ける、約束もなしにふらっと家に遊びにいけるのは、ほんとうに気が楽なことだ。
「コミュニティは大切よ。みんなとご飯を食べたり、一緒につくったりできることはありがたい。でも、それより大事なことがある。それは〈一人でいる私〉を尊重してくれるということ。物づくりにはどうしても一人でいる時間が必要なのよ。
村人たちはアーティストで、村自体がひとつのアートグループのようになっている。彼らはとても活動的で、アイデア次第でなんでもできるけれど、ぼーっとしているとすぐ巻き込まれる。だからこそ、自分が何をしたいか、何ができるか、どう生きたいか、はっきりと持っていないと」
彼女は毎日八時間、仕事をする時間をきっちり決めているそうだ。どんな依頼があっても、そのリズムをキープする。夏のやさしい日差しのなかでも、冬のしんしんと降り積もる雪のなかでも、この小さな工房で淡々と紙を漉き続けるエリヤさんを想像する。
「ほんの短い時間も、私にとっては大切な時間。道具を整理していなければ、定規を使いたいときに定規を探す時間が生じる。そんな風に時間を無駄にしたくないし、なにより集中を妨げたくない。ぐちゃぐちゃでもその人が構わないならいいけれど、私はそうはできない」
狭苦しい仕事場で、紙と本の山に押しつぶされそうになって働いているぼくにとって、なんとも身につまされる話だ。
「毎日の仕事の最後の三〇分を仕事場の掃除にあてるといい。深く考えず、ただ毎日の習慣として。その日、仕事場をきれいにして終われば、次の日にはきれいな状態で仕事がはじめられる。今日の三〇分間を、明日の自分のために使うのよ」
彼女は、明日の自分にどんなビジョンを抱いているのだろう。単刀直入に、これからどんな本がつくりたいですか、と聞いてみる。
「計画はなにもありません。私はいま体力も気力もみなぎって毎日が喜びにあふれている。この工房を二倍の大きさにしようとも思わないしね。
もちろん、新しいことに挑戦したいし、好奇心は尽きないでしょう。けれど、未来の計画を練ることはあまり意味がないと思っている。これまでも面白いことはみな思いもよらぬところからやってきたから。
きっと、これまでずっとそうして生きてきたように、生きていくしかないのです。どんなに苦心してもうまくいかないことはいかないし、面白いことを楽しんで続けていると、パッとひらけてしまう道もある。偶然を待ちましょう」
インタビューを終えて、お礼と握手を交わし、工房の外に出る。彼女の話を聞いたせいか、目の前の木々や河原、古い建物のひとつひとつがいっそう輝いてみえる。
村のちいさなカフェに立ち寄り、温かいスープとパンを食べながら、ゆっくりエリヤさんの言葉を反すうする。
「ああ、こここそ私の場所だ」
彼女の深い溜息とともに、その言葉がずっと耳に残っている。ぼくもいつかそんな場所をみつけられるだろうか。
(第5回・了)
フィンランド編はこれで終了です。次回、水俣編を準備中です。ご期待ください。