紙の旅 矢萩多聞

2017.1.27

03和紙に出会う:フィンランドの紙工房を訪ねて(2)

 

和紙との出会い

 室内に入ると紙とインクの独特の匂いがプンとにおう。手製の棚には、紙漉き道具や、製本のための木槌、目打ち、刷毛などが、きちんと整頓され並んでいる。棚の上の方には、楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)、パルプシート、古布などの材料がどっさり。それにスクリーンの印刷台、インク缶、プレス機や小型の活版印刷機……十畳ほどのスペースだが、本をつくるために必要なものはすべて揃っている。
 建物は四角の部屋がふたつ横並びにくっついたような間取りで、隣の部屋は事務応接スペースと、小さなギャラリーになっている。丸められた色とりどりのハンドメイドペーパー、ふかふかの和紙でつくったノート、和綴じで手製本した本、グリーティングカードのようなかわいい豆本など、どれも丁寧な手仕事で、同じものはひとつとしてない。
 勧められた椅子に座りながら、ほんとうに素敵な工房ですね、というと、
「そうでしょう!」
と、エリヤさんは少女のように目を輝かせ、ころころ笑う。どうして紙をつくっている人って、こんな人ばかりなんだろう。
FINLAND02A
 エリヤさんは、フィンランド中部の都市ユヴァスキュラに生まれた。国内で二番目に大きな湖パイヤンネに面した、学問とアートの街で、ヘルシンキに比べてゆったりとしているそうだ。
 彼女はこの街で育ち、大学卒業後、幼稚園や病気療養児学校の教師として四年ほど働いた。
「教師の仕事は意義深く、発見に満ちていて、とてもいい経験になりました。この頃に得たものが、いまも私の人生観に影響を与えています。でも、ふと思い立って二十代のある日、旅に出たんです」
 世界のあちこちの国を、ヒッチハイクしながら旅した。ホテルに泊まらず、友人知人や、旅先で出会ったアーティストたちの家を転々としているうちに、自分も芸術に関わる仕事をしたいと思うようになった。
 故郷の両親にアートの仕事をしたい、と話すと、たいそう心配されたそうだ。
「エリヤ、学校の先生でいいじゃないか。ひとつの専門で食っていくのは大変なことだよ、と何度もいわれました。具体的な計画はなにひとつなかったけれど、私はとにかくそれをやるしかない、という気持ちでいっぱいだった」
 帰国後、ヘルシンキ大学のアートコースを受講し、前々から気になっていた版画やシルクスクリーン印刷について貪るように学んだ。
 印刷について学ぶと自然と紙にも興味がわいてくる。たまたま和紙のコースが大学で開講されることを知ってすぐに申し込んだ。
「当時はWASHIという名前すら聞いたことがありませんでした。あらかじめ用意されたパルプでかんたんな手漉き体験をする初心者向けの一週間コース。それでも私には驚きの連続で、もっと和紙について知りたい、作ってみたい、と思うようになりました」
 日本行きを夢みるようになったエリヤさんは、翌年、笹川財団の助成を得て、数人のフィンランド人とともに来日。伝統的な和紙工房で研修を受けることになった。たった三週間の短い滞在だったけれど、未知の国・日本の文化はどれも新鮮で発見に満ちていた。
 たとえば、日本にはどんな小さなものでも、それを収める箱がある。箱をつくる技術があり、物を箱に入れて整理する習慣が根づいている。人のなかにある習慣や美意識、それがものづくりを育んでいる。この国はインスパイアの宝庫だ。帰国してすぐ「また日本に行きたい」と思った。

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日本で学んだこと

 和紙と日本文化に魅せられたとはいえ、わざわざヨーロッパの北端から、極東アジアへ紙づくりを学びに行く、というのは大変な話だ。フィンランドには紙漉きの伝統がなかったのだろうか。
 「フィンランドにも三五〇年くらい前までは手漉き紙が盛んでした。けれど、今ではそれを受け継いでいるところはほぼないのです。昔はフィスカルスから八キロほど離れた村にも紙工房がありましたが、そこも閉じてしまいました」
 紙づくりには豊富な水源と森林が必要だ。風土だけを見ればフィンランドは紙の生産に向いている。
 ここフィンランドに限らず、紙産業は機械漉きが手漉きにとってかわり、世界各地に大規模な工場がつくられた。だが、工業用紙や新聞用紙など大量生産の紙のシェアは、近年、より安価な中国製に流れていっている。紙は国内消費だけでは難しい。輸出しないと利益がでないが、グローバルな市場での質と値段の競争に参加できるのは大企業だけだ。ここ数年、機械漉きの紙工場ですら、ちいさな会社はつぎつぎ潰れているという。
 「だから、紙をつくりたければ、海外の手漉きの技術を学ぶしかなかった。和紙の世界は奥深く、単純な西洋式の漉き方とは比べようもないものでした」
 エリヤさんははじめて日本を訪れてから、のべ六回来日し、紙づくりを学んだ。なかでも一九九八年、滋賀と高知の和紙工房で学んだ九ヶ月の日々は忘れられないという。
「最初に紙づくりのすべての工程を見せてもらって気がつきました。これは九ヶ月じゃ全然足りない、と」
 目の前で何が起きているのかは理解できる。しかし、それを自分のものにするのには、何十年もの経験が必要だった。
「毎日朝から晩まで休みなしにずっと紙を漉いていました。何十枚、何百枚も漉いた紙の山を眺めて、自分では結構うまくいったと思っている。でも、一日の終わりに先生がやってきて、無言でその紙の山をばさっとゴミ箱に捨てたんです。ああ、私の紙が! 私の一日が! と泣きそうになった。それが二週間つづいた。ショックだったし、何も教えてくれない先生に腹が立ちました」
 手が切れるような水の冷たさも、何時間にもわたる立ち仕事も覚悟はしてきた。先生は英語を喋れず、ジェスチャーと片言の日本語でコミュニケーションをとるしかない。けれど、問題は作業の厳しさや言葉ではなかった。
 紙漉きは言われたようにやればできる仕事ではない、それは身体に染み付いた経験の結晶なんだ。そのことに気がついた彼女は自分のやり方を変えてみた。
 「とにかく先生を観察しました。紙を漉くときの先生の身体は、集中しているのに、リラックスしている。動かす腕は迷いがなく、無駄な力がはいっていない。動きはとても滑らかでリズミカル。その身体を真似して、くり返しくり返し紙を漉きました」
 ゴミ箱行きの紙は日に日に少なくなっていった。それまで漉いていた紙がいかにひどいものだったか、自分でもわかるようになった。
 「手を動かして、自分で探りながら学ぶしかない。近道はないんです。あらゆる伝統工芸がそうであるように」
 九ヶ月の滞在を経て、フィンランドに帰国したエリヤさんは、西洋式の紙づくりに加えて、日本式の和紙づくりをするようになった。いまではヘルシンキの大学で紙漉きを教えている。
 「若い学生はメモ片手に、なぜそうなるの? とすぐに答えを聞きたがります。西洋人の特徴でもあるけれど、合理的、論理的に学ぼうとする学生が多いのね」
 温度は何度で、何回どう動かすのか、そんなことを口で伝えても意味がない。原料はみな特性が違うし、その日の天気や、体調にも左右される。自分の手の感触をたよりに探っていくしかない。
 「最初は学生たちとうまくいかなかったけど、いまは天国よ。質問には一切答えない。やらないと分からない、まずやりなさい、というだけです」
 彼女はすっかり日本の職人のやり方が気に入ってしまったようだ。日本の伝統工芸にちょこっと触れただけなのに、その道のプロフェッショナルのようなふるまいで、もっともらしく教える外国人は多い。でも、彼女が教えるのはテクニックや情報ではなく、身のあり方そのものだ。
 「私が日本で学んだのは、ほんのわずかなことです。いまだって、ちゃんとした紙ができるのか、不安になる。私は和紙の研究者ではないし、経験豊富な職人でもない。ただ幸運にも日本に行って、紙工房をたくさん見て、なにが良い紙でなにが悪い紙なのかを知っている。紙づくりの難しさと、そのために千年の歳月が重ねられたこともね。……そういう話をすると、学生たちは興奮します。千年だって! と」
 ヘルシンキの芸大で、とりわけ版画や印刷の仕事を目指している学生に、和紙のコースは人気だという。東洋の神秘的な技法を学べると、過剰に期待を膨らませやってくる学生も少なくない。しかし、簡単に紙漉きは成功しない。失敗したくない気持ちが強ければ強いほど、身体はこわ張り萎縮する。そんな彼らにエリヤは声をかける。
「大丈夫、たった二週間のコースよ。誰もうまくいかない。まずは楽しんで。
 紙づくりに必要なのは恐れではなく、リラックス。恐れの心で手を動かしても、恐れの紙しか生まれない。穏やかに楽しんでつくれば、そのような紙になる」
 それは常に自分にも言い聞かせていることだという。恐れや迷いからの解放、身体のあり方、ほんとうの学び……
「紙づくりを学びに日本に行ったけれど、それよりも大切なことを学んだのね」

FINLAND03A

 

 

 

(第3回・了)

 

この連載は月3回更新でお届けします。
次回2017年2月9日(木)掲載