大胆仮説! ケンミン食のなぜ 阿古真理

2019.11.19

01道東の牛乳豆腐

北海道では「牛乳豆腐」という酪農家の郷土食がある。市場に出回らず、自家用として作られるそれは乳臭さがなく、牛乳嫌いの人でも食べられる。

 

 9月まで放送していたNHK連続テレビ小説『なつぞら』の主人公なつは、北海道・帯広市郊外の酪農家のもとで育った。成長し、東京でアニメーターとして暮らすなつのもとへ、かわいがってくれた義祖父が、牛乳豆腐を手に訪ねてくる場面があった。
 「なつかしい!」と思ったのは、学生時代に旅行した道東・霧多布で、私もいただいたことがあったからだ。雪印メグミルクのWEBサイトによると、牛乳豆腐は、牛乳を温め、酢を加えて固めたもので「酪農家たちのまかない料理」だ。豆腐みたいな味だが、もう少しコクがある。
 私が昔、珍しい牛乳豆腐を食べることができたのは、当時酪農家に住み込んで働いていた友人を訪ね、泊めてもらったからだ。夕ご飯のおかずに牛乳豆腐、夜は牛乳風呂と、酪農家ならではの牛乳尽くしのもてなしが、とてもうれしかった。
 北海道には、幼稚園児の秋のイモ掘りがジャガイモであるなど、独自の食文化が根づく。牛乳豆腐もその一つだろう。なぜ、牛乳をわざわざ豆腐にしようという発想が生まれるのか。その背景を考えてみたい。
 私が旅行したのは9月初め。日中は真夏のように暑かったが、夜になると急激に気温が下がってカーディガンが必要になり、濃い霧まで出た。その気温差に、北海道の気候の厳しさをうっすら感じる。『なつぞら』でははっきりと描かれなかったが、実際のところ、北海道開拓は想像を絶する大変さだったらしい。
 『北海道酪農百年史』(木村勝太郎、樹村房)によれば、開拓はまず、牛馬の力を借りて原始林を伐採することから始まる。火山灰土や泥炭地を、農耕に適した土壌に改良するには長い年月がかかった。そのえ度重なる冷害もある。慣れない寒冷地で仮小屋住まいをしながらの重労働が続き、食べるものもろくにないとくれば、体力が続かない者、病気に倒れる者が大勢いたのも当然だろう。先住者であるアイヌの人たちと、トラブルになることもあった。
 ドラマの舞台になった十勝地方は、今でこそジャガイモ、小豆、小麦やビーツを産し、酪農や養豚が盛んで、豊かな実りをもたらす大地を誇るようになった。しかし同書によれば、明治から昭和にかけて開拓に取り組んだ依田勉三らは、「10年間、悲運にも目的の仕事は一つとしても実らなかった」うえ、50年も困難に耐え、発展の基礎を築いている。
 牛乳豆腐につながるヒントは、生活が落ち着いてきた昭和初期について描いた、『日本の食生活全集 聞き書 北海道の食事』(農文協)にある。当時の農家の人々が、いかにコメのご飯に憧れていたかが伝わってくる。『日本の食生活全集』シリーズの時代、米作地帯をのぞく農山漁村では、白米のご飯はめったに食べられないごちそうである。その中でも、行間から伝わる切実さでは、北海道が群を抜いている。
 明治以降、開拓使は気候風土に合った小麦や乳製品を使った西洋料理の普及を求めたが、人びとは和食を食べたがった。北海道での主食は、ジャガイモやカボチャのだんご汁、トウモロコシのおかゆなどの和食。洋食は札幌でしか見られない。そんな食生活に牛乳を豆腐にする発想の原点がある。
 本州とはまるで違う環境に、時間をかけて慣れていった人たち。同書にはまだ出てこないが、戦後酪農が盛んになって牛乳がたっぷり摂れるようになったとき、自然に生まれたのが和食として食べられる牛乳豆腐だったのだろう。それは、スーパーで1リットルパックの牛乳を買う生活では出てこない発想だ。
 昔、豆腐は、全国どこの農村でも手づくりした。豆を煮てつぶす手間がかかる作業のため、特別なときにつくるごちそうだったのだ。しかし、牛乳豆腐は手軽にできる。本州とは、気候も風土も異なる大地で格闘してきた人たちが、和食をベースに生み出した、白くて弾力があるその塊は、知恵の結晶とも言える輝きを放っている。

 

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次回、2020年1月17日(金)ごろ更新予定