大胆仮説! ケンミン食のなぜ 阿古真理

2020.1.17

02岩手ソウルフードにはなぜ、三つも麺類があるのか?

 

岩手県民のソウルフード、冷麺。
韓国冷麺とは異なるその味わいの秘密とは
  


 ご当地麺は全国にたくさんあるが、香川ならうどんで、札幌がラーメン、富士宮は焼きそば。ふつう有名なのは、うどんなどの小麦麺、そば、焼きそば、ラーメンのどれか一つだ。
 ところが岩手県には、三つも全国に知られた人気麺類がある。それは盛岡冷麺、じゃじゃ麺、そしてわんこそばだ。私は2回岩手へ行ったことがあり、一つずつ体験した。一つ目はわんこそばで1985年。高校の修学旅行のときだった。
 二つ目が盛岡冷麺で、その出合いは衝撃的だった。出張で岩手へ行き、帰りの新幹線に乗る前に、カメラマンの男性が「冷麺食いに行こう」と盛岡駅前の店へ連れて行ってくれた。ビルの2階だったから、名店と評判の「盛楼閣」だったかもしれない。
 私が育った関西では、冷やし中華を「冷麺」と呼ぶことがある。冷やし中華だと思い込んだ私は、「なぜこんな12月に?」といぶかしんだ。ところが、運ばれてきたのは、氷やキュウリ、キムチ、ゆで卵が浮かんだスープに、半透明の黄色い麺が入った見た目も上品な料理だった。食べてみると、クリアで滋味深いスープに、弾力があってうま味のある麺が合わさり、冷たいのに箸が止まらない。しかし、なぜキムチが入っているのだろう?
 やがて、冷麺とは一般的に朝鮮半島の麺料理を指し、焼き肉店などにあって、定番の締め料理ということを知った。20代に関西の安い店でさんざん焼き肉を食べていたのに、メニューの選択は仲間に任せっぱなしで、冷麺があるかさえ知らなかった。
 それからは注意して焼き肉店をのぞき、韓国料理店をのぞき、冷麺を見つけて食べてみた。でも、どれもそば粉を使った茶色がかった麺で、盛岡で体験した弾力はない。なぜ?
 私が盛岡で食べたのは、独自に発達した盛岡冷麺であり、朝鮮半島のモノとは違うことを知ったのは数年後。盛岡冷麺の名前を広めた「ぴょんぴょん舎」が、2007年に東京・銀座に進出して話題になった頃だ。
『盛岡冷麺物語』(小西正人、繋新書)によると、盛岡冷麺の元祖の店は、1954年に盛岡市で開業した「食道園」。店主は植民地時代に朝鮮半島東北部沿岸にある咸興(ハムン)で育った楊龍哲(ヤンヨンチヨル)、日本名は青木輝人。咸興は、平壌と並ぶ冷麺の本場だ。リンゴ農園主の三男だった龍哲は東京に憧れ、大学に入るつもりでやってくる。しかし、映画や芝居にハマって進学は断念、肉体労働に従事して生活するうち、第二次世界大戦が始まる。1943年に知人を頼り、妻子を連れて疎開した先が盛岡だった。
 店を開いたのは、友人から「朝鮮料理店をやらないか」と誘われたからだ。舌の記憶を手がかりに故郷の冷麺をメニューに入れたが、そば粉の黒い麺は日本人から嫌われる。そこで、戦後上京してしばらく働いた、数寄屋橋の朝鮮料理店「食道園」で働いたときに出されていた半透明の麺をヒントに、そば粉を小麦粉に替えて重曹を加え、半透明の麺にした。その店は、朝鮮戦争の影響で青木が入ってまもなく閉店してしまっている。
 店が軌道に乗ったのは、近くのシャンソン喫茶「モンタン」に集まる若い芸術家たちの間で、癖になるその味が人気になったからだ。数年後には、周囲に冷麺を出す店がふえ、盛岡に新しい麺文化が育っていった。
 じゃじゃ麺は、盛岡市の「白龍」が元祖。満州から引き揚げてきた高階貫勝が、1953年頃に盛岡城の周りで屋台で出したのが最初だ。高階が満州で覚えた味をベースに、もっちりした平打ち麺に、味噌だれ、キュウリをのせて混ぜながら食べる麺である。
 わんこそばのルーツは、二つ説がある。一つは370年ほど前に花巻で、南部利直公が郷土名産のそばを食べて気に入り、何度もお代わりしたという説。もう一つは平民宰相として知られた原敬首相が、盛岡に帰省して喜んで食べたという説。広まったきっかけは、「元祖わんこそば全日本大会」が1957年から始まったことだ。となると、三大麺はいずれも1950年代が始まりなのである。生活に余裕ができる時代に生まれたから、新しい麺は人気になったのだろう。しかし、愛されなければ定着はしない。
 なぜ、岩手ではいくつも名物の麺が生まれたのか。昭和初期の食生活を描いた『日本の食生活全集 聞き書 岩手の食事』(農文協)を手がかりに探ってみた。
 昭和初期の農山村では、コメだけのご飯はめったに食べられないごちそうだ。岩手でも、ひえ飯などのほか、小麦粉を練りひと口大にちぎって汁に入れる「ひっつみ」をよく食べている。県北部では、そば切りはもちろん、かゆやぞうすいなどでもそばもよく食べたようだ。県中央部でも、ひっつみやそばをよく食べる。そばがきは日常食だ。小麦粉やそば粉、くず米の粉をこね、だんごや細切りにして食べる「しとねもの」の登場頻度が高い。県南部でもしとねものが活躍する。
 つまり、もともと蕎麦や小麦の栽培が盛んで、これらの粉を、麺などに加工する土地柄だった。だからこそ、独自の麺文化が発達できたと言える。岩手県民は麺の達人なのである。

(第2回・了)

 

本連載は、隔月で更新します。
次回、2020年2月17日(月)ごろ更新予定