忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.9.17

01民衆文化としての「私擬憲法」

 

『大日本帝国憲法』発布の日に

 明治22年(1889)2月11日、明治天皇が「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法発布は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形をとり、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となったのだった。
 2月11日は、日本神話で初代天皇とされる神武天皇の即位日とされる「紀元節」で、皇室典範も同時に制定された。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法などもあわせて定められている。
 憲法発布の日は、前夜の大雪があがって朝から晴れわたり、憲法発布の儀式が宮城で挙行され、午後には観兵式が行われた。なお天皇皇后は、1月11日に赤坂仮皇居より、造営された新皇居である宮城に移っていた。
 当時の国民は、憲法の内容が発表される前から憲法発布を歓迎し、奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列が行われた。新聞各紙もこぞって憲法発布を祝い、号外が発行された。そうしたようすを、東京に滞在していたある外国人は、2月9日の日記に次のように記している
「東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ」。
 この日記を書いたのは、明治9年(1876)に日本政府の招きでドイツから来日し、29年の長きにわたり東京大学で教鞭をとったエルヴィン・フォン・ベルツである。ベルツは皇室の侍医も務め、日本の医学の発展に尽した人物だった。
 ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を『民約訳解』と題して翻訳するなど、自由民権運動を指導した中江兆民は、書生をしていた幸徳秋水に向かい次のように慨嘆した。
 「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と語った。
 こうした祝賀ムードを苦々しく思い、また慨嘆しながら眺めていたものは、ほかにも少なからずいたはずだと想像される。それは大日本帝国憲法とはまた別に、「憲法」を自分で作った人びとである。

 

憲法を自分で作った人びとがいた

 幕末維新から大日本帝国憲法発布に至るまでの20年余りのあいだに、官民双方から数多くの国家構想が表明された。こうした国家構想のうち「憲法」の草案といえるものが、現在までに九十数種が確認されている。こうした大日本帝国憲法の発布以前に作成された憲法“私案”を「私擬憲法」と呼ぶ。
 私擬憲法には、政府に属する人物、あるいは政府のごく近くにいた人物が、当局の参考に資するために試案したものと、民間の個人、またはグループが作成したものとがある。
 政府寄りのものには、明治6年(1873)に青木周蔵が木戸孝允に委嘱されて起草したもの、西周、井上毅、山田顕義らの諸案などがある。また自由民権運動を展開するなかで、民権各派が自らの国家構想を同志や国民に訴えるために私擬憲法を起草した。
 憲法を自分で作った民間人は、民権運動家だけではなかった。戊辰戦争に従軍した無名の旧藩士、東北の藩校の寮長として後進を指導した人物、越後縮(えちごちぢみ)を扱う地方の碩学等々。彼らが作った憲法草案の多くは、現在では“忘れられ”しまっている。
 慶応3年(1868)に発せられた「王政復古の大号令」のなかに、「旧弊御一洗ニ付、言語ノ道被洞開(どうかいせられ)候間、見込ノ向ハ不拘貴賎(きせんにかかわらず)、無忌憚(きたんなく)、可致献言(けんげんいたすべく)」という一節がある。これは明治新政府が、一般人からの献言(建言・建白)を認めるとともに、明治23年(1890)に帝国議会が開かれるまで、一般人が政府にたいして直接意見を述べるには、建白書を提出するほかなかったことも意味した。
 建白書の中身は多岐にわたり、貿易立国のため博覧会開催(清水卯三郎)、西洋の模倣ではない日本固有の文明開化の推進(佐田介石)といった国家の指針を示した提言から、度量衡の統一、新発明の醤油醸造法、新しい官服の提案といったものまであった。そうした建言のなかにやがて、議会や憲法を提案するものが現われるようになった。
 民間人が草した私擬憲法には、さまざまな背景、風土や生業、幕末維新をどのように過ごしたかなどといったことが、その国家構想のなかに反映されている。
 戦後の日本国憲法制定前にも、私擬憲法が作られていた。しかし、敗戦に打ちひしがれた人びとには、国家の指針を自分の手で作る余裕がなかった。いっぽう、明治の私擬憲法には、幕末維新を越えてきた民衆の「こころ」と「からだ」に裏打ちされた夢や希望が映し出されているのである。私はこうした“忘れられた”明治の“憲法”私案を、貴重な「民衆文化」と捉えて、その民俗的意味を考えていきたいのである。

 

建白書の時代のなかで

 明治7年(1874)の建白書のなかに、板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」があった。全国で盛りあがるこうした議会開設運動に危機感を抱いた政府は、明治8年(1875)に官製の「地方官会議」を開くいっぽう、演説会を監視、規制するようになる。
 建白書の取り扱いかたも変化し、提案者との討論をやめ、その新聞掲載を禁止するなど言論を取り締りはじめた。しかし、各地で署名運動による署名簿付きの議会開設建白書がつくられた。
 しかし、それから数年後の明治12年(1879)には、千葉県の桜井静による提案をきっかけに、全国各地から国会開設の建白書が提出されるようになった。各地の府県会議員や有志が賛同し、多くの署名を集めたこの請願運動は、明治14年10月に国会開設の詔勅が出されるまで続いた。政府は国会開設の勅諭を出し、10年以内に国会を開設することを公約したのである。
 明治20年の「三大事件建白運動」では、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回(不平等条約問題)を掲げて、民権派の有志代表が全国各地から上京し、建白書を提出した。だが明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布、23年の第1回帝国議会開設とともに、建白書受付の役所は閉鎖されてしまう。
 こうした建白書のなかに、明治6年(1873)という維新から数年という早い時期に草された憲法私案がある。次回は「男女同権」をうたったその憲法草案と、草案を作った人物の生涯を見ていくことにしたい。

(第1回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年10月1日(火)掲載予定です。