忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.10.14

03「自由の理」の実行を訴えた鹿児島からの投書

 

『朝野新聞』への草案投書

 批判精神に富んだジャーナリスト成島柳北が健筆を揮い自由民権の立場から政府批判を展開する『朝野新聞』という日刊紙があった。明治51872公文通誌』の紙名で発刊され、明治718749朝野新聞と改称欧州視から帰国して社長・主筆に迎えれた柳北の社説「雑録が発する時事批判が人気を呼んだ。 
 明治818753月4日付のこの新聞の紙面「鹿児島県大隅国曽於郡(そおぐん)襲山郷(そのやまごう)「竹下平」という人物による憲法草案が掲載された以下、旧字体「彌」は「弥」と表記する 
 草案は長らく、作者不明の私擬憲法として8か条の部分だけが知られていた。しかし、歴史学者の新井勝紘がいまから30年前に朝野新聞の復刻版を読み進めていた際、投書欄に原文を発見憲法意見全文紹介した。 
 草案内容は、国家の骨組みを示しただけではあるものの、議院内閣制や国会による予算の決定などを定めた民主的なものだった。 
 前文では、主権在民や人権尊重の思想を主張し、「五箇条の御誓文」の「万機公論に決すべし」が、政治に反映されていないことを批判するそして、「民会」国会を開くべきだと訴えている。条文では、帝国の福祉を発展させるために憲法を定めるべきだとし、現在の議院内閣制に近い制度を構想。国民の選挙権も想定していた。 
 このように議院内閣制や国会による予算の決定などを定めた民主的な憲法草案が、西南戦争の2年前という時期に構想されていたのである 
 投書の差出人は「鹿児島県大隅国曽於郡襲山郷住居 愛国愚夫竹下弥平」。襲山郷は現在の隼人町北部から国分市西北部、霧島町にあたる。しかし、「竹下弥平」は筆名だと考えられ、その実像は現在も謎に包まれたままなの


「自由の理」を実行するにはどうすればよいか

 竹下弥平の草案は人権尊重などをうたった長い前文のあとに、中央政府の大綱を定めた8条が列記され、最後に国会の開設を求める意見書が付 
 国家の骨組みを示しただけ案だが、議会を中心にした国家構想は当時としては民主的なものだった新聞投書の形をとることにより国会開設建言書の役割を果たすことも意図したのだろう 
 こうした竹下弥平による憲法草案大意ず前文から紹介してみたい 


 
天皇の詔「君主は人民のために為政を行、君主のために人民を利用するのではない」とある。中国の古い言葉にも「天下とは天下の天下であり、一人の天下ではなとありヨーロッパのい言葉には「国とは愛すべき存在であるが、自由の理は国よりも愛すべきだ」とある。 
 このことを「パトリア、カーラ、カトリア、リベルタス」といい日本語では「たとえ、わが身が奪われようとも、我が国が奪われることはない。たとえ、我が国が奪われようとも、自由の理は奪われることはない」という意味になる 
 戊辰戦争で錦の御旗の下、旧習を一掃し新しい時代がつくられたが、「万機公論に決する」などとした五箇条の御誓文の精神は達成されていないのではないか。 
 幼い頃に気づいたことが、我が国は五箇条の御誓文の精神を達成するため、「自由の理」を実行するともに、それぞれの国民「自立」した欧米諸国のような国になることが望まれる。 
 井上馨大蔵大臣が退職した明治65月頃から、政府は維新の理想である「五箇条の御誓文の精神を失ったのではないか。このままでは「自由の理」、「自立」を実行することはできないだろう
 それでは「自由の理」、「自立」を実行するにはどうすればよいか。それは議会を開くことである。議会を開くことは時期尚早であるなどの意見もあるが、五箇条の御誓文の精神を達成するためには、議会を開くこと以外に方法はない 
 その議会について私が切望する原則を、条文にして記す。


 前文このように天皇の言葉やヨーロッパの古典を引用しながら、主権在民や人権尊重の思想を主張る。また五箇条誓文にある「万機公論に決すべし」という精神は「道理」にかなったものだが、現在の政治にはこれが反映されていないと批判し、「道理」を取り戻すには「民会」国会を開くしかないと訴えるのである。


「帝国の福祉」を発展させるために

 続けて8か条からなる条文をみていくことにしよう。 
 まず1条では、政治の過ちを一新して帝国の福祉を発展させるために、憲法を定めるべきだとし、「憲法」という言葉が使われる。2条では、新たに設ける左院と右院からなる議院国会に立法権をゆだね、3条以降で議院の機能や構成が述べられる。 
 3条では衆議院にたる左院は政府の官僚、知識人、地方の実情に詳しいものなどからなり、4条では貴族院にたる右院は裁判官と軍人を除く政府高官、皇族、華族からなるとし、いずれも「選挙法を定める」というふうに、国民の選挙権想定している。 
 6条では天皇に議院の開閉の特権認めているが、8条では憲法の制定を含む立法権は行政、司法、軍部が決して侵すことができないものと規定するまた5条では、議院は首相にあたる太政大臣を選ぶこと7条では議院は予算の決定権を持つなど、現在の議院内閣制に近い制度を構想してい 
 議会の二院中、左院議員の3分の1は各省長官が下僚の中から選び、右院の議員は皇族・華族および勅任以上の行政官から選ぶこととする。この左右両院が、財政、憲法・法令の制定・修正の全権を掌握し、行政官・司法官・武官の「干犯」を許さず、3大臣も左右院が選挙する。 
 一般人民に選挙権を与えないところなど時代の制約を強く受けているものの、徹底した立法府中心主義がとられているのである。両院の官選議院構想にもかかわらず、「自由理」を国家より貴重なものとし、議会をその制度的保障とする人権尊重の思想が見られるのだ


「在野の俊傑および博識卓見ある」人々

 注目すべきは、竹下弥平が左院議員にふさわしいものとして、具体的に名前を挙げている人物である。 
 「現今衆庶著功労ある人望家、旧参議諸公在野俊傑、及博識卓見ある、福地、箕作、中村等新聞家、成島、栗本等諸先生」とはそれぞれだれなのか 
 「福澤はもちろん福澤諭吉である 
 「福地ジャーナリストの福地源一郎桜痴にちがいない 
 長崎、江戸で蘭学、英学を学ぶ。幕府に出仕し、使節の一員として2回渡欧。明治元年新政府を批判する江湖新聞を発行、薩長討幕軍を非難し逮捕された。大蔵省に入り、伊藤博文渡米と岩倉遣外使節に随行。『東京日日新聞主筆のち社長として主権在君論の立場で民権派と対抗。開拓使官有物払事件では政府攻撃の論陣を張ったが明治14年の政変後は政府側に回って立憲帝政党を結成。論壇を退いてからは歌舞伎座の設立に参画するなど小説・劇作に専念した。 
 「箕作(みつくり)に該当しそうな人物はふたりいて、いずれとも特定しがたいが、ひとり洋学者啓蒙家の箕作秋坪(しゅうへい)である 
 美作津山藩儒者菊池士郎の次男で、蘭学者箕作阮甫(げんぽ)婿養子となる。阮甫桂川甫周緒方洪庵らに蘭学を学び幕府蕃書調所教授職手伝となり文久元年1861遣欧使節に随行した。経営した家塾三叉学舎では東郷平八郎原敬、平沼騏一郎などんだ。森有礼福澤諭吉らとともに明六社を興しまた東京高等師範学校を創立教育博物館国立科学博物館および図書館国立国会図書館の館長となった。 
 もうひとりの箕作は、法学者の箕作麟祥りんしょう/あきよしである 
 麟祥は箕作阮甫の孫地理学者省吾の子。蕃書調所英学教授手伝並出役などを経てフランスに留学。帰国後家塾を開き中江兆民大井憲太郎らが門下生となる。新政府の法典編纂事業を推進ボアソナードらとともにフランス諸法典を翻訳・紹介し旧民法旧商法の起草に参加した。貴族院議員行政裁判所長官などを歴任。日本で初めて「権利」や「義務」という訳語を用い、日本人に近代法典というものを知らしめた。 
 「中村啓蒙思想家文学者中村正直(敬宇)だろう 
 昌平黌に学んで幕府儒官となり、留学生監督して渡英。維新後は静岡学問所の教授となり、サミュエル・スマイルズの『西国立志編』を翻訳し、青年層に新思想を普及。またJ.Sミルの『On Liberty』を訳した『自由之理』で個人の人格の尊厳、個人の自由を重視する思想を日本人に紹介した。帝大教授東京女子高等師範学校を務め、盲唖教育に貢献。明六社に参加し、「明六社雑誌」にも多くの文章を執筆した。 
 「成島もちろん『朝野新聞』の成島柳北である 
 幕府奥儒者の家に生まれ20歳で将軍侍講となる。洋学に関心を広げ騎兵頭として幕府軍のフランス式近代化のために奔走した。維新後は仕官を拒否隠棲と欧米旅行ののち『朝野新聞』で政府批判を展開。讒謗律で投獄されると『ごく内ばなし』で監獄の実態を暴き出し、『柳橋新誌』第2編花街の変貌を描いた。 
 「栗本ジャーナリストの栗本鋤雲(じょうん)だろう 
 幕府医官喜多村槐園の子として生まれる。栗本氏を継いで幕府奥詰医官となるが職を解かれ箱館に移住し、病院薬園などの造成に尽力。江戸に戻って昌平黌頭取目付に任ぜられ親仏派として列強との外交交渉にあたる。外国奉行として滞仏中維新にあい帰国後小石川大塚に隠退。『郵便報知新聞』に編集主宰として入社し西欧的自由主義思想で藩閥政府批判の筆を揮った 
 竹下弥平が憲法草案のなかに、左院議員の候補として具体的に名前を挙げた人物の経歴をやや詳しくみてきた。弥平と彼らのあいだに交流があったかどうか、面識はなくても議員にふさわしいと評価するほど、彼らの言論を理解し、共感を寄せる部分があったことだけは疑いえない。 
 そして弥平が推挙した「俊傑および博識卓見ある」人々のほとんどは、大日本帝国憲法下で、権力の中枢につくことはなかったのである。


「竹下弥平」とはなにものか

 竹下弥平の名前を確認できるのは、明治8(1875)34日の『朝野新聞』の投書欄だけあり、それ以前もそれ以降も、その名前を確認することができない。投書した竹下弥平がいったいどのような人物だったかは、現在も詳らかにしないのである 
 明治61873の政変西郷隆盛らが下野、1月には西郷らとともに下野した板垣退助が「民撰議院設立建白書」を政府に提出した。同年2月には同じく下野した江藤新平による佐賀の乱が勃発するなど、明治10年の西南戦争に至るまで、明治政府と薩摩対立は激しくなっていく。 
 明治86月、政府は讒謗律を公布して、自由な言論活動を制限するなど、新聞報道の締めを始める弥平の投書はこうした時期に行われていることから、偽名を用いた可能性もある。 
 繰り返しているとおり「竹下弥平」の名表に出てくるのは、明治818753月の朝野新聞のみである。その後は、朝野新聞をはじめとする東京の新聞各紙や鹿児島新聞南日本新聞の前身、また鹿児島県史』やにも隼人町郷土史にも、その名を確認することはできないだった 

 

(第3回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年10月28日(月)掲載予定です。