忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.10.28

04皇帝への「国民投票」や「廃帝」にまでおよんだ憲法討議

 

持ちこまれた史料の中から

 明治8年(18754月に天皇が発した「立憲政体の詔書」にもとづき設置された元老院は、政府案というべき憲法案を3回にわたって提案した。
 その最終案にあたる「日本国憲案第3次案」にたいして、氏名不詳のふたりの人物が批評した文書がある。まずひとりが条文ごとに批評を加え、そのうえさらにもうひとりが第3次案と下段評者の批評の両方に批評を加えたものである。「憲法草稿評林」という標題が記されたこの文書が発見されたのは、いまから半世紀ほど前のことだった。
 昭和40年代の初め、農業経済史家の森嘉兵衛のもとにある史料が持ちこまれた。その史料は、陸奥国九戸郡宇部村(現在の岩手県久慈市宇部町)出身の政治家、小田為綱が所蔵していたもので、持ちこんだのは為綱の曾孫で千葉県市川市在住の小田清綱だった。
 森嘉兵衛は『旧南部藩に於ける百姓一揆の研究』、『近世奥羽農業経営組織論』などの著作がある東北の近世近代史に精通した研究者である。そんな森でも「小田為綱」という人物をそれまで知ることはなかった。
 森は史料を読み解き、小田為綱が明治時代の前期に青森県の八戸で青年教育にあたり、東北総合開発に奔走した政治家だったことを突き止めた。明治31年(1898)には衆院議員に当選し、3年後に62歳で病死したことも明らかになった。
 森が文書の解読を進めていく過程で出てきたのが、7枚つづりの和紙に毛筆で文字が書きこまれた「憲法草稿評林」(以下、「評林」と略することがある)だったのである。そこには、ふたりの人物が日本国憲案第3次案を批判するという形をとりながら、やがて制定される日本の憲法の内容はこうあるべきだと、それぞれ独自の憲法構想を展開していたのである。
 国憲案第3次案にたいするふたつの評論のうち先に書きこまれた下段の評者がだれかについては、これまで数名の名が上がっているものの、いまだに特定されていない。いっぽう、国憲案と下段評論の双方に評論を加えた上段の評者については、多くの研究者が小田為綱だと考えている。


近世・近代の盛岡藩

 ほとんどの研究者が小田為綱を上段評者と確実視する理由は、その鋭利な評論を裏づける生涯がと背景にあるからだ。そんな為綱の履歴を追っていくには、為綱の思想形成と強く結びつく近世・近代の盛岡藩史をかえりみておく必要がある。
 盛岡藩は陸奥国岩手郡盛岡(現在の岩手県盛岡市)に藩庁をおいた外様藩である。奥州藤原氏征討で功をあげた甲斐源氏の流れをくむ南部氏が三戸に居城を構え、26代当主の南部信直が豊臣秀吉の小田原征伐に参加し、天正18年(1590年)に南部7郡を安堵され立藩した。翌年さらに3郡を加増され、現在の岩手県中北部から青森県東部を治める10万石の領主となった。慶長4年(1599)には岩手郡不来方に移って盛岡と改め、以後明治維新までここを居城とし16代までつづいた。
 盛岡藩では教育に力を注ぎ、天保11年(1840)には医学学問所「順正書院」を設けた蘭方医の新宮涼庭が京都から来盛、御稽古場を基に藩校「明義堂」設立した。嘉永2年(1894)に数え年24で第40代南部家当主となった利剛(としひさ)も藩の教育振興に熱心で、文久3年(1863)により洋学校「日新堂」を開設する際には、建材を提供し、さらに助成金を交付して援助した。
 利剛はまた、楢山佐渡や東次郎ら若く才能のある人材を用い、切迫した藩財政の建て直しを図った。しかし利剛の在任中に戊辰戦争が勃発すると、奥羽越列藩同盟に加わり、津軽藩や出羽秋田藩に乱入したものの敗退することとなる。そして新政府は盛岡藩を、仙台藩から没収した13万石で減転封(国替)した。
 明治3年(18705月、廃藩置県の布告を待たず、借金返済の不可能を理由に、他藩に先駆けて廃藩置県を願い出で受理され、盛岡県が設立。その後岩手県と改称された。


藩校「作人館」の教授・寮長

 慶応元年(1865)、盛岡藩の藩校明義堂は拡充のうえ「作人館」へ改称し、文学・武芸・医学3科の教育体制を整備する。
 作人館の教授と舎長を務めた小田為綱は、天保10年(1839年)9月、陸奥国盛岡藩野田通宇部村24番(現在の岩手県久慈市宇部町)に生まれた。小田家は代々野田代官所の御給人を務める家柄だった。
 嘉永6年(1853)、盛岡に出て武技を長嶺将盈に、文学を板垣正純、江戸に出て芳野金陵に経史文章を学ぶ。文久2年(1862)正月、藩侯の侍講のかたわら昌平黌に入寮。この年、為綱は盛岡藩邸大広間で家老以下に「大学」を講義し、その2年後には藩主南部利剛の御前で同じく「大学」を講じた。
 作人舘で為綱の指導を受けたものたちは、日本の近代化のため大いに活躍した。たとえば原敬(総理大臣)、佐藤昌介(北大初代総長)、菊池武夫(中央大学初代学長)、阿部浩(東京府知事)、那珂通(東洋史学の先駆者)らである。作人舘は明治3年(1870)の廃藩置県により、「盛岡学校」に転換される。
 明治5年(1872)、「三陸開拓上言書」北奥羽開拓の意見書を執筆して上京。意見書の中身は旧南部藩領を9原野に分け、各原野に失業旧士族を配置し、授産と開拓を行うというもので、各地への移住戸数、耕作田畑、開拓高、開拓諸費用を算出。具体的かつ計数的に裏付けられた計画だった。その構想は膨大な開拓諸費用は米塩所、鋳銭所を開設して捻出し、住居や町並みの設計から自治組織のあり方にまでおよんだが、採用されることはなかった。
 明治6年(1873)には、左院議長伊丹重賢の了解をとり『陸羽開拓書』7巻を左院に提出。しかし、議官丸岡莞爾、馬屋原彰などの違言(異なる意見)があって顧みられずに帰国した。



真田大古の反乱

 明治9年(187610月、神風連の乱(佐賀)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)、思案橋事件(東京)など士族の反乱が立てつづけに起こった。この年の1月、陸奥三戸郡出身で鹿角来満神社の神職真田大古(太古)は、薩摩私学校の意をくんだ主張を展開する「評論新聞」と同調し、東北での同志拡大に奔走することとなる。
 翌明治10年に西郷隆盛が決起すると、大古はこの動きに呼応し、反乱計画を立てる。青森、岩手県庁を襲撃し武器・金品を奪い、東北の反政府士族を呼び集めて南下し、明治政府の転覆を謀るというものだった。そして同志に訴える檄文を、旧知の為綱に依頼したのである。
 為綱は檄文のなかで、西郷蜂起には大義がないとするいっぽう、政府への批判も記した。しかしこの計画は密告により、関係者は未然に検挙される。為綱は明治11年(18787月、弘前裁判所において禁錮354日に処せられ青森で下獄。為綱が釈放されたのは、明治129月のことであった。為綱は出所後、7年の謹慎期間を地元で過ごし、この間に上段評論を記したとみられる。


皇帝にたいする国民投票を唱えた下段評論

 元老院における「国憲編纂」の作業は、明治9年(18769月、元老院議長・熾仁親王(有栖川宮)にたいし、憲法草案の起草を命ずる勅語が発せられたことによって始められた。
 元老院は勅語に基づき、「国憲取調局」を設置して作業を開始し、同年中の10月に「日本国憲按」(第1次案)、117月に第2次案、137月に第3次案を作成した。
 明治13年(1880)から翌年にかけて作成されたと考えられる『憲法草稿評林』は、元老院で完成した「日本国憲按」第3次草案(以下、「国憲案第3次案」と略することがある)を2人の人物が、批評しあいながら、憲法構想が述べられている。(なお元老院作成の「国憲案第3次案」は上奏されたものの、伊藤博文、岩倉具視から「西洋各国憲法を模倣するに熱中して日本の国体人情を無視している」との反対意見が出て不採択になり、公表を禁じられている。)
「評林」の下段評論には皇帝にたいする「国民投票」が提案され、上段評論においては「廃帝(退位)の法則」、「議会の権限強化」が明記されている。これらはほかの私擬憲法草案には見られないものである。こうしたことからこの「憲法草稿評林」は、私擬憲法草案のなかでもその先進性において、人権を重視した千葉卓三郎らの「五日市憲法」、人民権、抵抗権を唱えた植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」と並び称されることもある。
 下段評者については、民権結社・嚶鳴社のメンバーだった青木匡、岩手の民権家・鈴木舎定、立憲改進党のリーダーで衆院議長も務めた島田三郎、自由民権運動家の古沢滋らではないかと意見が分かれる。
 下段評者、上段評者による批評は国憲案第3次案の全般におよぶが、とくに目を引くのは近代天皇制に関する大胆にして奔放な構想だった。「大日本帝国憲法」よりはるかに民主的な内容をもっていたとされる国憲案第3次案にしても、政体については「万世一系ノ皇統ハ日本国ニテ君臨ス」(第一条)「皇帝ハ神聖ニシテ犯ス可カラス縦ヒ何事ヲ為スモ其責ニ任セス」(第二条)と「天皇主権」をうたっている。これにたいし下段評者は次のように記しているのだ。

皇帝憲法を遵守セス、暴威ヲ以テ人民ノ権利ヲ圧抑スル時ハ、人民ハ全国総員投票ノ多数ヲ以テ、廃立ノ権ヲ行フコトヲ得ルコト

 

 皇帝(天皇)が憲法を守らず、国民の権利を抑圧する場合は国民投票を行って退位させることができるようにしようというのだ。つまり、国民に天皇リコール権を認めよという主張である。
下段評者はまた「帝位継承」の項で次のように書く。
「他皇胤ニ於テモ帝位ヲ承ク可キ男統ノ者ナケレハ、代議士院ノ預撰ヲ以テ人民一般ノ投票ニヨリ、日本帝国内ニ生レ、諸権ヲ具有セル臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立シ、若クハ政体ヲ変シ(代議士院ノ起草ニテ一般人民ノ可決ニ因ル)、統領ヲ撰定スルコトヲ得」皇胤中男系の継承者が絶えた時には、国民投票によって国民から皇帝を選ぶか、または大統領を選べ、というのだ。
 下欄評者の批評のなかでも、とくに大胆にその思想がのべられているのは、国憲案第3次案の「第一編 皇帝」にたいする批評である。天皇の地位と権限をどうするかという問題について、下欄評者は君主権を徹底して制限すべきだという考えを述べる。
 国憲案第3次案「第一編 皇帝 第三条 皇帝ハ行政ノ権ヲ統フ」にたいして、「皇帝ハ行政ノ権ヲ統フルハ論ヲ影タズト雖、但憲法限制スル処ノ権ヲ超過スヘカラサルモノナレハ、詳カニ其旨ヲ戦定セズンハアルヘカラス」と批評し、君主権の増大について危機感を表する。
 下欄評者はさらに、軍事編成権が皇帝にではなく議会に属すべきでだと規定した。


「廃帝ノ法則」を主張する上段評論

 いっぽう小田為綱とみなされる上段評者も、下欄評者に劣らぬラディカルな意見を述べる。なかでも特筆すべきは、天皇の「廃帝ノ法則」である。

(皇帝)自ラ法ヲ乱リ、罪科ヲ犯ス、為スヘカラサルノ所業ヲ為シテ、何ヲ以テ天下人民之レ是ヲ則ルコトヲ得ンヤ。然ラハ則チ天皇陛下ト雖、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立、后来無道ノ君ナカランコトヲ要スヘシ。然レトモ刑ハ貴ニ加フルニ忍ヒス。依リテ通常法律ヲ加フヘカラス。故ニ之ヲ責ルニ廃帝ノ法則ヲ立ツヘシ

 皇帝が法を破り、罪を犯した場合、貴人に刑罰を加えるのは忍びがたいから、自ら責任を負って「廃帝」となるという「廃帝ノ法則」を確立すべきだというのである(なお国憲案第3次案や「評林」では「皇帝」を用い、「天皇」とは記していない)。
「廃帝」については、「評林」をのぞけば今目発掘されている私擬憲法においても土佐立志社「日本憲法見込案」のみで、当時の憲法構想の尖端をいくものであったことがわかる。
 上段評者は軍事についても大胆な意見を述べている。
 国憲案第3次案には「皇帝ハ陸海軍ヲ管シ便宜ニ従ツテ之ヲ派遣ス」とあった。軍隊の最高指揮権、すなわち統帥権は皇帝にあるという規定である。こうした考え方は後の大日本帝国憲法に引き継がれ、第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明記された。つまり、天皇と軍部を直結させ、内閣から独立させた。いわゆる「統帥権の独立」である。
 これにたいし、上段評者は第3次案の規定に反論する。「皇帝ハ陸海軍及国民軍ヲ統轄シ、其軍制及用兵行軍ハ両院ノ議決ニ拠リテ之ヲ進退ス」つまり、統帥権を皇帝でなく議会に帰属させよというのである。下段評者と上段評者の意見に共通しているのは、君主制にたいし民主的コントロールを考えていたということになる。



東北開発への見果てぬ夢

 為綱は明治20年(18877月、東京に赴き、三条実美に陸羽北海(東北地方・陸奧と出羽、日本列島北方の海域をさす)の形勢を述べ、「東京にいる旧諸侯を旧地に帰さしめて地方開発に尽くし、また仙台に大学を設置し大いに東北6県の俊秀を養成すべきだ」などと主張したが行われなかった。
 明治2371日、第1回衆議院議員選挙が実施され為綱は立候補したものの落選。第2回も落選。第3回、第4回は出馬せず、313月、59歳のとき、第5回総選挙(衆議院議員臨時選挙)に岩手県第2区から出馬して初当選を果たした。同年8月には再度の臨時総選挙(第6回)にも当選。進歩党に属し、犬養毅、尾崎行雄、大隈(南部)英磨などと政治活動をともにした。任期中に病に伏し、明治3445日、62歳で死去した。
 為綱は最晩年にも「上大臣諸公閣下下書」を執筆し、東北三陸の地域総合開発を説くなど提言書を出しつづけたが、採用されることはなかったのである。

 

(第4回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年11月11日(月)掲載予定です。