忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.10.1

02上杉謙信の墓守だった男は“男女平等”の選挙権を主張した

 

米沢藩士・宇加地新八の幕末

 山形県米沢市、米沢城址の北西に歴代米沢藩藩主の墓所「上杉家廟所」がある。静かな木立のなか、中央に上杉謙信、左右に歴代藩主の霊廟が立ち並ぶ。
 明治6年(1873)に最も早い憲法草案を建白した宇加地新八(うかじ・しんぱち、1848~?)は、米沢藩士として維新までこの墓所を守る役目を担っていたのだった。
 天正6年(1578)、越後国春日山城に没した謙信の遺骸は甲冑を身に纏った姿のまま、漆を流しこんだ甕に納められ、埋葬されたといわれている。
 謙信を継いで上杉家の当主となった景勝(かげかつ)は、越後から会津、そして米沢へと領国が代わるたび、謙信の霊柩を移し運んだ。米沢では城の本丸の高台に霊廟(御堂・霊屋)を建立し、霊柩は善光寺式阿弥陀如来像と泥足毘沙門天像とともに安置された。元和9年(1623)に亡くなった景勝は米沢城の北西に埋葬され、12代藩主斉憲(なりのり)までそこに葬られることになる。
 米沢藩は藩主の継承問題や、相次ぐ飢饉に見舞われた時期もあったが、9代藩主治憲(はるのり)の時代に建てなおされて幕末まで存続。宇加地が仕えたのは12代斉憲だった。
 弘化5年(1848)生まれた宇加地新八は安政5年(1858)10月に11歳で家督を相続、中級士族の馬廻(うままわり)に属して、慶応元年(1865)に18歳で禄高25石、職名は「御堂御給仕」と分限帳に記される。宇加地は、謙信の遺骸を安置する霊廟(御堂)を守護する役目を担っていたのである。
 歴代の上杉家藩主も、命日には精進し御堂に参拝供養したといい、また米沢城二の丸の法音寺を主席とする11か寺が、交代で祭祀を執りおこなった。
 明治4年、廃藩置県によって米沢県が置かれると、斉憲は翌年、城内にあった謙信の御堂を治憲と合祀して上杉神社とした。明治6年には廃城令に伴い米沢城の建物は全て破却され、翌9年になると謙信霊柩は上杉家廟所へ、上杉神社は米沢城奥御殿跡に遷された。
 上杉神社の現在の本殿は、大正8年(1919)に起こった米沢大火で焼失した後、同12年に米沢出身の建築家伊東忠太の設計により再建されたものである。また善光寺如来と毘沙門天像は法音寺に移ったが、御堂は米沢市北寺町にある長命寺に本堂として移築され現存している。
 宇加地新八は米沢藩の幕末維新の動乱とともに歩んだのであった。

 

戊辰戦争における敗北

 宇加地新八の人物像と憲法草案の中身を見ていく前に、彼が仕えた米沢藩の歴史をたどってみる必要がある。
 米沢藩は、出羽国置賜郡米沢に藩庁をおいた外様藩で、歴代藩主は幕末まで上杉景勝に始まる米沢上杉家だった。
 上田長尾家出身の長尾顕景(あきかげ)は、同じ長尾家出身の上杉謙信の養子となり、上杉景勝と名を改めた。謙信の死後、上杉氏の惣領となり、豊臣秀吉に仕えて陸奥会津120万石を領した。関ヶ原の戦い後の処分で30万石に減封された景勝は、家老直江兼続から譲り受けた米沢城に移って、米沢藩が成立。以後、明治維新まで米沢上杉家13代が続いていくことになる。
 米沢藩は、寛文4年(1664)に継嗣問題のため5万石に減封されるが、家臣を減らさなかったことから財政難に陥り、領地の返上を検討される。しかしその後、9代藩主治憲の改革により藩政は建てなおされる。
 明和4年(1767)に藩主となった治憲(鷹山)は、倹約令を発するとともに、青苧(あおそ)・漆蝋の生産と流通の掌握、養蚕・織物・楮(こうぞ)の栽培など国産物の奨励、越後から縮み織りを導入するなど藩の財政再建を図る。また代官制度の改革、藩校興譲館の設置と教学の振興などもおこなった。
 米沢藩は前述したように、12代藩主上杉斉憲の治世に戊辰戦争に参戦することになる。
 斉憲は財政難のなかでも軍制の改革に着手し、大砲隊や銃隊を中心とする西洋式軍制を備え訓練をおこなっていた。幕府の命で京都警備の任にあたり慶応2年(1866)にはおよそ4万石を加増されている。
 幕末の米沢藩は、関ヶ原の戦いの経緯もあり、徳川家にたいして複雑な感情を抱くいっぽう、お家断絶の危機を救ってくれた会津藩の保科正行に恩義を感じていた。そのため仙台藩とともに会津救済に奔走することとなり、上杉家の旧領である越後・出羽庄内方面の防衛を担った。このとき(慶応4年4月5日・1868年5月16日)米沢藩の軍事総督に就任したのが千坂高雅(ちさか・たかまさ)だった。千坂は6月13日(7月21日)に奥羽越列藩同盟軍の越後方面軍総督となり、参謀の甘粕継成(備後)、仮参謀の斎藤篤信(主計)、長岡藩総督の河井継之助らとともに新政府軍と戦った。
 しかし、7月29日(9月15日)に新潟防衛を担っていた千坂と同じ奉行(家老)の色部久長(長門)が戦死すると士気は衰え、越後から撤退、9月10日(10月14日)に米沢藩は新政府軍に降伏することとなる。
 新政府は米沢藩にたいして4万石の減封と反乱首謀者1名を挙げるよう命じた。主戦派だった軍事総督の千坂高雅が責任をとるべきところだったが、米沢藩では千坂を守るため、すでに戦死していた色部久長を首謀者とした。これにより千坂は処分されずに済んだものの、色部家は断絶となり、戦争の責任を背負うことになった(明治に入り色部家は家名再興が許さる)。
 18歳だった宇加地新八も米沢藩士として同盟軍に従軍していた。新八にとって、先祖代々仕えてきた米沢藩の敗北は新しい道に進むきっかけとなった。明治4年(1871)に米沢藩は廃藩、米沢県、置賜県を経て76年に山形県に編入された。

 

慶應義塾で英語を学ぶ

 明治4年(1871)7月、置賜県士族となっていた22歳の宇加地新八は、上京し、慶應義塾に入塾した。
 慶應義塾は福澤諭吉が、安政5年(1858)に築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に開設した蘭学塾に始まる。明治4年に芝新銭座の校地を近藤真琴に譲渡して三田に移転、校地の拡充とともに在学生は323名におよび、東京府下最大の私塾となった。翌年には外国人教員を初めて招請している。
 宇加地は、明治5年1月の文部省告示で新たに専門学校が設立されることを知り、同じ旧米沢藩士の北條元利、山田行元とともに受験して、3人とも合格を果たした。しかし文部省の都合でこの専門学校の設立は中止になった。
 その入学試験は漢学、英学いずれかの選択で、宇加地と山田は英学で、北條は漢学で受験している。英学受験生対象の問題は、アメリカ合衆国政体書にかんする英文和訳で、漢学生対象の問題は、君主専治・君主政治、君民共治、共和政治の三政体についての区別論だった。
 明治5年11月、近藤真琴が幕末に開校した蘭学塾「攻玉塾」(のちの「攻玉社」)が、学制により提出した「私学開業願」の教員履歴に宇加地新八の名前がある。
 この履歴によると、宇加地は英学を明治2年10月から同3年10月まで福澤諭吉に、同年11月から4年3月までは中村敬太郎(中村正直)に、同年4月から6月までは関振八(関は尺の誤記)に、同年6月から再び福澤に学んだとされている。宇加地は明治5年2月からは、攻玉塾で数学を学ぶかたわら、教員を務めたようである。
 宇加地は「十八史略」を担当し、英学は受け持っていないが、「皇漢学七級・英学八級までを教授する者、二五歳」と記載されている。のちに「風俗画報」を創刊する吾妻健三郎が攻玉社に入塾する明治6年春頃には、宇加地は学頭として塾のリーダー的存在になっていたという。

 

千坂高雅からの影響

 宇加地は明治7年(1874年)8月、「建言 議院創立之議」を政府に建白した。なおこの建白書には、肩書として「陸軍兵学寮士官生徒」と記されている。
 宇加地は同じ年の5月にも、議会開設を訴えた別の建白書を提出していた。しかしそれは、「天下の政治には上下相通じるものが必要である」というほどの建議だったことから、自らそれを「疎漏」だったとみなし、8月の建言書では、憲法の制定により国家の基本的なありかたを制度化する構想を建議しなおすことにしたという。建白書によるとそのきっかけは、千坂高雅がロンドンで苦労して学んだ書物を与えられ、それを「一覧」することで政体の理解を深めたからであった。
 宇加地に英書を与えた千坂高雅は、すでに紹介してきたように米沢藩の国家老で、戊辰戦争のときには軍事総督を務めた人物である。
 千坂氏は代々上杉氏に仕え、江戸時代には米沢藩の重職を務めた家柄で、父千坂高明(伊豆)も米沢藩の奉行職(国家老)だった。19歳のときに藩校興譲館の定詰勤学生に選ばれた千坂は、その後、父とともに藩主上杉斉憲の洛中警備に従う。やがて帰国して興譲館の助読となり、25歳で学頭となった。
 千坂は慶応3年11月14日に、27歳という若さで奉行職に抜擢される。同4年正月には薩長方に従い、3000人を率いて上洛、弾薬の海上運搬もおこなったが、その後は薩長軍の軍事討幕の方法に憤って藩論を佐幕に統一。戊辰戦争で敗戦後処分を免れたことは前述したとおりである。
 明治2年の版籍奉還に伴い、知藩事・上杉茂憲らから大参事就任を要請されるが、戊辰戦争後処分にたいする自責の念からか一旦は就任を拒否する。しかし明治3年に大参事となり、明治5年には養蚕製糸調査のため上杉茂憲に随行してイギリスに遊学し、翌6年に帰国。この間に英語を学んだようである。
 なお米沢藩では明治4年1月には洋学舎を設立、慶応義塾から3人の教師を迎えて授業を開始し、同年10月にはイギリス人のチャールズ・ヘンリー・ダラスを語学教師として招いていた。また、米沢藩知事名の書状の中に「人民平均之理」「自主自由之権」という用語が使用されていることから、宇加地が育った米沢藩には欧米の政治事情をかなり理解した藩士たちがいたことと推測される。

 

「建言 議院創立之議」
 
 宇加地新八が建白した「建言 議院創立之議」は、今日からみても非常に進歩的な内容をもつものである。立憲君主制の採用や、議会の仕組みも詳細に記され、最も早い憲法草案のひとつとだされている。
 宇賀地はこの建言書で、明治と元号が改まってから7年経った時点でも、国のあり方が定まらずに、混乱していることを指摘している。そうした状況にたいする危惧が、新八が、民間人としては非常に早く、憲法構想を抱きえた理由のひとつだと考えられる。
 政府の法令が国民のあいだにいきわたらない実態を目にした宇加地は、建言書のなかに具体的に描写する。
「去年、常陸野の奥の間を通った際、愚かな人々が御布令にたいして、……誤認して人血を絞ることだと理解し、その意味を理解してもまた変わってしまうことに大変驚いた」。
 明治5年(1872)の詔勅・告諭に基づき、翌6年に徴兵令が公布されている。これは徴兵令のなかの「血税」の文字が、国民に誤解され、騒動になった事態を指しているのだろう。
 さらにこんな事態もあった。
「草加駅に泊まり、大蔵省印のある紙幣で支払おうとすると、亭主は怪しんで受けとろうとしない。懇々と説き諭してようやく受けとったが、東京からわずか数里の草加駅でも、御布令はこのように滞り、県官はその意味を説明していないのだ」。
 これは紙幣の流通にかんする体験談だが、宇加地はこれから推測すると、あらゆる政令が滞り、「上の情は下に伝わっていない」にちがいないと危惧したのである。宇加地は体験から導き出された立論にのっとり、議会設立の必要性を強調したのだった。

 

「立憲君主制」を採用すべきだ

「建言 議院創立之議」が建白された明治7年(1874)は、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を政府に提出した年でもあった。宇加地の議会開設を求める建白は、板垣ら以上に、内容が具体的かつ先進的だったのである。
 宇加地によると国の政体には、「一君独裁」、「立君立法」、「共和同治」の3種類がある。この3種類を現代の用語でいうと、「一君独裁」は絶対王制、「立君立法」は立憲君主制、「共和同治」は共和制にあたるだろう。宇加地はこうしたさまざまな政体のうちから、その国の気候や風土、国民性に合った、最もふさわしいものを選ぶべきだという。
 宇加地は共和同治(共和制)を「上等の政治」とするが、建白書では、憲法を制定して政体を立君立法(立憲君主制)と定め、太敗官を上院、新設の民選議院を下院とし、天子(とその政府)・両院の三者によって天下の政治をおこなうべきだとした。
 天子は内政外政の全般にわたる大権を持ち、その地位は万世一系とされている。しかし、両院の同意なしにその権限を行使することはできず、法案の拒否権もない。実際の政治は天子に任命された大臣・大将・省卿・参議から成る政府によっておこなわれる。政府は天子を補佐して職務を遂行するだけでなく、天子に過ちがあるときには「諌争」することも職責とされる。
 また議員には天子・大臣の行状も論じることのできる議事自由の権、不逮捕特権(反逆、殺人罪などは別)、大臣への弾劾権、冤罪を救うための再審権の四大権が保障されている。議会の権限は広大で、立法・内政外政・文武官人事・賞罰など全般にわたり、両院の議決を経て天子の名により施行される。

 

選挙権は「男女に拘わらず」

 議員の選出規定をみると、上院は官選、下院は民選とされている。下院議員数は300有余人、選挙人・被選挙人資格は、年齢20歳以上で、農民は100石以上、商人は10両以上の租税納入者としたが、「男女に拘わらず」と規定している。また県官・教師・区長は納税額に関係なく投票することができると規定する。また、投票の具体的な方法については、無記名による自由選挙が規定されている。
 宇加地は「主権在民」の思想にもとづき、欧米でもまだ導入していない時期に、男女同権の選挙権を主張していたのである。
 普通選挙による議会政治を提言したものとしては、信濃上田藩士だった赤松小次郎が慶応3年(1867)に前福井藩主・松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」があった。しかし宇加地の建白書は、議会設立を訴える点では同じだが、憲法の制定を唱え、議会の仕組みなども詳細に書かれているのである。
 選挙権は「すべての天下百姓」、つまり全国民に与えられる。そして、それこそが「民選議院」と呼ばれるゆえんなのであると宇加地はいった。戊辰戦争を乗り越え、優れた英語教育とおそらくは欧米の政治事情を学んだ宇加地の建白書は、その後の私擬憲法と比べても先進的なものだったである。
 宇加地はその後、西南戦争に従軍し、米沢・置賜地方の出身者の親睦団体に名を連ねているものの、詳しい生涯は明らかではない。あくまでも想像にすぎないが、宇加地新八と同じような憲法構想を練っていた人物が、ほかにもいたのでないだろうか。

(第2回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年10月14日(月)掲載予定です。