忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.11.11

05田中正造は憲法を武器として利用した

 

自由民権運動と憲法草案

 自由民権運動は、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を提出した明治7年(1974)から帝国議会が召集された明治23年頃までのあいだに起きた国民的な運動で、この運動の最大の焦点は、参政権の獲得を求める「国会の開設」の要求だった。
 自由民権の潮流には、板垣退助に代表される反政府士族を中心とした流れと河野廣中に代表される豪農民権家を中心とした流れ、さらに嚶鳴社などの都市知識人グループの3つがあった。こうしたグループが明治13年3月の国会期成同盟へと合流したことで国民的な民主主義運動になったとされる。
 この時期には、植木枝盛や中江篤介(兆民)、福澤諭吉らの天賦人権論や近代立憲主義思想が多数紹介された。また、立志社(土佐)、嚶鳴社(東京)などに代表されるような「民権結社」が全国各地で結成され、政治活動のみならず教育・学習活動なども盛んに行われた。
 明治13年ごろ、高知の立志社をはじめとする全国の自由民権運動を推進した民権派の各結社・団体の中で、自らの手で憲法を起草しようという動きが全国に広がった。こうしたなかから土佐藩出身の植木枝盛による「日本国憲案」や、千葉卓三郎ら東京多摩地区の平民が作った「五日市憲法」など多数の憲法私案が作成されたのである。

 

国会期成同盟の請願

 明治10年(1877)の西南戦争終結後、武力を用いた反政府活動は終息し、言論による自由民権運動が活発化していった。
 明治13年3月15日に開催された愛国社第4回大会で、愛国社とは別に、全国の地方政社の運動をつなぐ組織として国会期成同盟が17日に発足。国会開設をかちとるまで会を存続させることを決めた。
 4月8日、国会期成同盟は2府22県9万6924人の委託を受け、松沢求策・永田一二が「国会を開設するの允可(いんか)を上願する書」を起草し、河野広中・片岡健吉が奉呈委員として同書を太政官および元老院に提出しようとしたが受理されなかった。
 全国各地の民権派も、請願や建白の運動を始めたが却下されるか、回答を得ることができなかった。
 同年11月、東京で開かれた国会期成同盟第2回大会には2府22県13万人を代表する64人が集まり、関東や東北などからも参加があった。この大会では、明治14年(1881)の大会までに、加盟各社が憲法見込案を持参し研究する合議がなされた。これを受けて各地で憲法起草の取り組みが始まったのである。
 しかし、明治14年の政変が起こり、憲法草案の審議をすることなく、国会期成同盟は自由党結成への準備会と合流し、政党組織へと変わっていった。
 こうした状況を背景に立志社は、板垣退助が設立し、消滅した政治結社「愛国社」の再興を決める。
 また自由党・立憲改進党が結成され、政党勢力も活性化した。明治政府の憲法制定の方針に対し、民権派も国会開設と憲法制定を求め、私擬憲法をつくって政府案を牽制したのだった。
 こうした私擬憲法には、自由党系では立志社の「日本憲法見込案」、植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」、改進党系では嚶鳴社の「私擬憲法意見」、交詢社の「私擬憲法案」が起草された。民権派系の代表が千葉卓三郎らによる「五日市憲法(日本帝国憲法)」である。
 また官僚系では、いずれも明治15年に起草された井上毅の「憲法私案」、山田顕義の「憲法私案」、西周「憲法草案」、政府支持政党として結成された帝政党系では東京日々新聞が「国憲意見」を草した。

 

植木枝盛の憲法構想

 明治13年(1880)11月、「国会期成同盟」の大会で参加各組織が憲法見込案を持ち寄ることが決定される。同盟で指導的役割を担っていた立志社も憲法の草案作成を開始。「東洋大日本国国憲案」は立志社の憲法起草委員だった植木枝盛による憲法案である。
 安政4年(1857)、土佐国土佐郡井口村(現・高知市中須賀町)に生まれた植木枝盛は、21歳の若さで立志社に入り、以後独学で自らの自由民権理論を確立。ジャーナリストとして立志社最初の機関誌である「海南新誌」をはじめ、「土陽新聞」「高知新聞」「愛国志林」「愛国新誌」などを編集発行、主筆として論陣を張り、自由民権思想の普及に大きな役割を果たすとともに、板垣退助らとともに国会開設運動、自由党結成に尽力した。著書に『民権自由論』『天賦人権弁』などがある。
 明治14年に植木が起草した「東洋大日本国国憲案」は、最も急進的な私擬憲法と評価される。それは人権規定36か条、被疑者の権利などの裁判に関する35か条および政府への抵抗権(第72条)に現れている。
 軍事および外交の総裁として皇帝を位置づけるいっぽう、地方自治を尊重してアメリカやスイスに倣う連邦制国家を構想。立法権を全国民に属するものとし、国会中心の統治体制構築を提案した。人民の自由権利をきめ細かく保障し、これを担保するための抵抗権・革命権を認めているなどの特徴もあり、自由主義的、民主主義的な性格が見出される。

 

千葉卓三郎らの「五日市憲法」

 明治100年にあたる昭和43年(1968)8月27日、東京都あきる野市(旧・神奈川県西多摩郡五日市町)の豪族、深沢家の旧宅の土蔵から、風呂敷に包まれ、毛筆書きの和紙24枚からなる憲法草案が発見された。この草案は、発見者である歴史学者・色川大吉らにより「五日市憲法草案」と名づけられた。
 20代から40代までの多摩地方の平民(農民)たちの学習会をもとに起草された。
 明治藩閥政府に、国会開設と憲法制定を求めた自由民権運動が全国に広まるうねりの中の明治14年(1881)4月から5月ごろに、学習結社「五日市学芸講談会」の仲間たちと討論を重ね、公立小学校教員だった千葉卓三郎が起草したものであると推定されている。
 千葉卓三郎は、嘉永5年6月17日(1852年8月2日)、陸前国栗原郡刈敷村(現・宮城県栗原市志波姫町)生まれ。父宅之丞は仙台藩の下級武士で卓三郎の誕生直前に世を去り、生母とも幼くして生別した。
 12歳で仙台藩校養賢堂に蘭学を学んだ後、17歳のときに農兵隊の一員として戊辰戦争に参戦。その後に上京し、医学・数学・ロシア語・国学・一向宗・儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学んだ。明治13年4月下旬から五日市に下宿し、五日市勧能学校(1875年に学校と改称)に訓導として勤め始める。
 当時の五日市は、五の日に市が立ち、林業、炭、織物などの地場産業、河川交通が盛んで、東京との交流も頻繁だった。江戸時代後期には絹織物「黒八丈」の主産地となる。江戸末期の日米通商条約締結により、黒八丈の原料である生糸が増産され養蚕が最大の産業になった。五日市が位置する秋川谷は多摩川によって川崎と結ばれ、横浜にも近いことから、欧米文化に接することが早くから可能だったとみられる。
 卓三郎は五日市で深沢村の山林地主、深沢名生・権八父子と出会う。深沢家は、東京で洋書、新刊書を買い込み、19歳の権八を中心に名主階級や医者などの子息たちが国家を論じていた。
 卓三郎は深沢父子とともに、明治13年4月5日に学習結社「五日市学芸講談会」を結成し、さまざまな学芸上の問題を討論した。学芸討論会は市の日に開催され、若者だけでなく老人年配者も、富者も貧者も参加した。
 同年11月、国会期成同盟大会の第2回が催され、そこで私擬憲法草案作成を決議。千葉卓三郎と深沢権八らは、翌明治14年に204からなる憲法草案「日本帝国憲法」を起草したのである。

 

五日市憲法草案

 五日市憲法は日本が弱小国だったことから、大国ではなくヨーロッパの先進小国のポルトガル・オランダ・ベルギー・スイス・オーストリー・スペイン等の憲法を参考にしたといわれている。
 またこの憲法案の204か条というのは、植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」の202条、西周案の173条、嚶鳴社案の108条、そして大日本帝国憲法の76条や日本国憲法の103条をはるかにしのぐ規模を持つ。
 条文は第一篇国帝(41か条)、第二篇公法(36か条)、第三篇立法権(79か条)、第四篇行政権(13か条)、第五篇司法権(35か条)で構成され、その中心は人権の尊重で国民の権利の部分は150か条もあり、そのうちの36か条が国民の人権規定で埋められていた。
 基本的人権の尊重という視点からいえば、現行の日本国憲法に酷似し、私擬憲法のなかでもとくにすぐれたものだと評価されている。

 

田中正造の憲法観

 明治天皇に足尾銅山の鉱毒公害を直訴したことで知られる田中正造は、政治結社「中節社」の一員として、明治13年(1880)に国会開設建白書を起草していた。
 この建白書は、人民が国政の中心に据えられ、権力の目的が人民の利益(公益)擁護にあると訴えたものだった。中節社ではさらに、憲法草案を完成させていた可能性が高いと考えられているが、その存在は確認されていない。そこでここでは、田中正造が明治22年に公布、翌23年に制定された大日本帝国憲法をどのように捉えていたのかについて追ってみたい。
 田中正造は下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。父の跡を継いで小中村の名主になるが、主家六角家の圧政に反抗して改革を試みて投獄される。
 維新後江刺県(岩手県)付属補などを経て、明治11年ごろから『栃木新聞』を創刊、政治結社「中節社」を組織して国会開設建白書を元老院に提出するなど、民権思想の普及に努めた。
 明治13年栃木県会議員に当選。県民負担軽減、小学校教育充実などに取り組み、三島通庸県令と激しく対立。県会議長を経て、明治23年の第1回総選挙に栃木3区(安蘇、足利)から衆議院議員に当選、以後明治34年まで毎回当選し、立憲改進党、進歩党の重鎮として議場で活躍した。
 この間に、独自の憲法解釈で藩閥政府を批判。明治24年の第2議会では、当時顕在化した渡良瀬川沿岸の足尾銅山鉱毒被害を取り上げ、政府に質問書を提出した。明治29年の渡良瀬川大洪水を契機に鉱毒被害が深刻化すると、さらにこの問題と関係を深めたが、それとともに政界では孤立。明治34年10月に議員を辞職し、同年12月には天皇に直訴を行って、社会に衝撃を与えた。

 

中節社の憲法草案

 正造は明治13年(1880)10月、中節社の国会開設建白書の起草委員に選ばれ、建白書草稿を作った。
「人民の国会を望む所も炎々として烈火の如し」(原文はカタカナ。以下同)と記すこの草稿のなかで正造は、国会開設は天皇の叡旨だとし、有司専制の政治と内憂外患が治まらないのは、「憲法を立て国会を開かざるに在る」と主張した。
 その上で正造は、「国に政府あるは固(もと)より臣等人民の福祉を企図するが為なれば人民たる者は其政事に参与して応分の義務を尽し」と述べている。
 これを読むと、人民が国政の中心に据えられ、権力の目的が人民の利益(公益)擁護にあり、人民は政治に参画する資格があるという近代政治理念について、正造が理解していたことがうかがえる。
 正造はまた、「国に政府を設けるは、素と人民の福祉を全うするが為なれば、其費用は人民より出さざれば能はず」とし、このためには議会が必要であると、国費の使い途や議会の監督機能にもふれていた。
 それでは、政府が議会の予算変更権を否定する根拠とした憲法上の天皇の大権および天皇の神聖性について正造はどのように考えていたのだろうか。
「憲法解義の独得」と題する日記(1891年9月)のなかで、正造は天皇について次のように述べている。
「立憲政体の君子(主)としては、我天皇陛下も亦(また)英国の女皇と同じく億兆の心を以て大御心とせさせ給ふこと勿論なり、豈(あに)英国の女皇のみ憲法上の徳義を守るべきの義務ありて、他国の君子(主)は其義務なしといふの理あるべけんや」。
 つまり、議会で表わされる人民の意志が天皇の意志であり、天皇にも憲法遵守義務があるというのだ。
 田中正造は、憲法を基礎にして人民の権利を擁護するという立場を一貫してとり続けた。大日本帝国憲法は、天皇の絶対的な権力を基礎づけることに主眼がおかれ、国民の権利・自由の保障については極めて弱かったが、正造はそのような憲法上に内在する制約を最大限に活用していったのである。
 歴史家の家永三郎がいうように、「正造は大日本帝国憲法を、国民の権利を守るための武器として逆用した人物」だったのである。

 

(第5回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年11月25日(月)掲載予定です。