忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.11.25

06「教育勅語」起草者の憲法案は受け入れられたか

 

“反動的な”憲法草案

 この章で取りあげる元田永孚(ながざね)は、この連載でこれまで取りあげてきた憲法草案起草者たちと性格を異にする。女性の選挙権を認めたり(宇加地新八)、共和制への道を示唆したり(小田為綱)、基本的人権への配慮を強調するもの(千葉卓三郎)もいた。彼らが構想した草案は大日本帝国憲法に比べて、なかには日本国憲法と比較しても“リベラル”で“ラディカル”なものだった。
 いっぽう元田は明治国家体制の中心に坐って政府の教学政策にも大きな影響を及ぼした人物で、その憲法草案もきわめて保守的で、近代国家を確立していくうえで“反動的”ですらあった。
 明治4年(18711月に藩命で上京し宣教使・参事を兼任、5月に藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇への進講を行うことになる。宮中顧問官、枢密顧問官を歴任し、「教学大旨」を起草して、教育のあり方をめぐって伊藤博文と論争したこともある。
 そんな元田の憲法草案『国憲大綱』は国教主義的国憲論な立場をとり、民権派のものとは内容が大きく隔たっているのだった。

 

明治天皇の教育係

 元田永孚(「えいふ」ともいう)は、文政元年101日(18181030日)、熊本藩士元田三左衛門(700石・本知500石)と津川平左衛門の娘阿喜和の子として生まれた。父三左衛門は藩主細川斉樹(なりたつ)の小姓を勤め、に斉樹の甥細川斉護(なりもり)の側取次役を務めるなど多忙だったため、祖父である元田自泉から『唐詩選』や『論語』などを学んだ。
 熊本藩の藩校「時習館」に通い、元服後には斉護の参勤交代に従う父に付き添い江戸へ向かった。時習館の居寮生として横井小楠と知り合い感化を受け、小楠を中心とする藩政改革派「実学党」の一員として活動した。
 しかし、小楠らが失脚し、時習館を退寮。黒船来航をめぐって実学党は分裂すると、実学派から距離を置くことになる。安政4年(1858)には父三左衛門が死去し、翌年家督を継いで元田家8代目となった。
 文久元年(1861)に11代藩主細川慶順(よしゆき)の参勤交代に随行し、再び江戸へ上り、松平春嶽の側近となっていた小楠と再会を果たす。尊王攘夷に否定的だった元田だが、第1次長州征討では慶順の弟長岡護美が率いた熊本藩兵に従軍して小倉で滞陣、帰藩後に任じられていた中小姓頭を辞職した。
 第2次長州征討では出兵に反対する公議政体論者だったが、王政復古が宣言されると慶順に上洛することを主張した。しかし、元田の意見は採用されず、明治維新後には藩内の意見対立から隠退し、私塾「ろく楽園」を開いた。
 明治35月、藩政で実学党が復権し藩主の侍読(教育・学問係)として復帰。明治41月に藩命で上京して宣教使・参事を兼任し、同年5月には藩命と大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し、明治天皇の侍読(のちに侍講。さらに侍補を兼務)となって、以後20年にわたり天皇への進講を行うことになった。

 

天皇親政運動の旗振り役

 元田は、天皇の教育にかんしては漢学を重視し、『論語』『日本外史』を進講し君徳培養に努めた。また天皇の精神的成長を願ういっぽう、文明開化を批判的に捉え、宮中と政府が一体となり天皇の輔導に尽くすべきであり、天皇を頂点とした政治体制を主張した。
 5月14日に大久保利通が不平士族に暗殺され、伊藤博文がその後を継いで内務卿として政府首班に就任したが、元田ら侍補は天皇に親政実行を直訴する。しかし、天皇が政治を行う機会は与えられなかったため、政府に天皇親政を中心とした改革案を提出したが否決された。元田の天皇親政運動は頓挫したが、天皇からの信任はなお厚く、皇后府大夫として宮中に留めおかれた。
 その後は教育を通して、国民の天皇への忠誠心を高める方法の実現に動き出し、『教学聖旨』を起草。だが伊藤博文の反論にあい、天皇の判断で破棄された。しかし意欲は衰えず、『幼学綱要』の編纂、天皇中心の国民教化を主張した『国憲大綱』の提出など独自の国教案実現に向けて進んでいった。

 

政府側の動き

 ここでは憲法制定に向けた政府側の動きをみてみることにしよう。
 多くの部分が明治憲法に採り入れられた岩倉具視の意見書の起草者は、井上毅だったといわれている。
 井上毅は肥後熊本の出身で、幼少の頃に井上家の養子となり、官軍兵士として戊辰戦争に参加、明治3年(1870)に上京して大学南校舎長となり、翌年司法省に入省した。明治5年に法律学の研究のためフランス・ドイツに留学、帰国後は大久保利通に認められて日清外交談判の随員を務めた。その後は、内閣大書記官や枢密院書記官長等を歴任するとともに、「大日本帝国憲法」「皇室典範」などの草案作成に参加。「教育勅語」「軍人勅諭」など多くの勅令・法令の起草に関与し、伊藤博文らによる国会開設の詔勅策定作業も助けた。帝国憲法制定後は第2次伊藤内閣の文部大臣を務め、明治憲法の普及と教育制度の確立に尽力した。
 伊藤博文は立憲制度の調査のために、ヨーロッパに派遣された。
 明治15314日に横浜を出発、滞欧は12か月におよび、ドイツ、オーストリア、イギリス、ベルギーなど各国を巡り、グナイスト、モッセ、シュタイン等から講義を受けるなどした。
 明治14年の8月から9月頃には、「近代法の父」と呼ばれるようになり法学者の山田顕義が「憲法私案」を左大臣・有栖川宮熾仁親王に提出し、さらに改定したものを右大臣岩倉具視に提出した。山田が憲法私案を出した同時期には、菊池虎太郎、黒崎大四郎、伊藤東太郎らの「大日本帝国憲法草案」、山県有朋の命を託されて西周が起草した「憲法草案」などがあった。

 

立憲主義からかけ離れた元田の憲法構想

 元田の「国憲大綱」は、元老院国憲案第2次案にたいする修正意見として明治12年に起草したものをもとに、数次の改稿を経て明治13年(1880)の930日頃に完成されたとみられる。「国憲大綱」は憲法の全構想を示したものではなく、元田の持論とする基本的原則のみを掲げているにすぎず、政治組織などには言及してはいない。
 天皇は絶大な権利を有するが、その行使は「憲法に拠」り(原文は片仮名。以下同)、「法律に非ざれば妄(みだり)に」人民の「身体居住財産自由の権」「を創すること得ず」とするなど、君主権の制限を承認している点で元老院国憲案の影響が認められ、近代憲法の原則が取り入れられてはいる。
 しかし、「日本国の人民は万世一系の天皇を敬戴す。何等の察変ありとも此天皇に背くことを得ず」と、国民の君主にたいする服従義務を絶対無条件としている。そのうえ、「国教は仁義礼譲忠孝正直を以て主義とす。君民上下政法律、此主義を離るることを得ず」、「天皇は全国治教の権を統ぶ」と定め、儒教道徳を国教としている。
 さらにその源泉を天皇に帰したところは、元田が発意した「教育勅語」による国民思想統制の着想のさきがけともいえ、政教分離を否定する前近代的な考え方にもとづくものに違いなかった。そうした多くで元田の「国憲大綱」は、この時期の憲法構想としては、最も立憲主義から遠いものとして位置づけられるのである。

 

伊藤博文との確執

 元田永孚は明治19年(1886)には宮中顧問官、同21年に枢密顧問官に至った。天皇からの信任は変わらず、大事においてはしばしば意見を求められたようである。明治20年と22年の条約改正問題の諮問に応じ、『教学聖旨』、『幼学綱要』、明治23年の『教育勅語』の起草への参加などを通じて、儒教による天皇制国家思想の形成に寄与していった。
 宮中顧問官就任後も天皇から「天皇の私的顧問」であることを命じられた元田は、正装である洋装の義務を免除され、和装での参内を許されたという。
 伊藤ら政府首脳にとって、元田のこうした天皇にたいする影響力は無視できるものではなかった。しかし、天皇は次第に伊藤を信頼するようになり、明治1997日に両者のあいだに機務六条が取り交わされる。天皇はふだん政治関与を控え、緊急事態に際しての調停役のみを求められる君主機関説を受け入れたのである。こうして元田らの天皇親政は完全に否定され、宮中の政治介入も排除されたのだった。

 

明治憲法への道と元田の動向

 明治17年(1884)、上院の基礎をつくるため華族令が制定され、翌年には内閣制度が発足した。その後、伊藤の欧州調査を経て、憲法草案の作成が政府内部でも進められ、明治22211日に大日本帝国憲法が発布された。
 3次にわたる元老院案も含めた多数の憲法構想のうち、明治憲法に直接結びつく草案の作成は明治19年頃から始められていた。そして井上毅やドイツ人法学者ヘルマン・ロエスレルの憲法草案をもとに、明治20年の6月から8月にかけて、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らによって作成されたのが「夏島(なつしま)草案」である。伊藤の別荘がある神奈川県夏島で審議されたことから、こう呼ばれている。
 明治213月になると憲法の推敲は最終段階に入り、各条の検討結果を反映し浄写した草案が作成された。伊藤はこの原案を枢密院に持参のうえ、鉛筆で修正部分を書き入れたといわれている。
 いっぽう元田は、憲法の枢密院審議に出席したものの、皇室を国家の軸とする旨を伊藤が発言したこともあり質問はほとんどしなかったという。そして明治24122日、特旨により従二位・男爵を授けられた翌日、72歳で死去したのだった。

 

「教育勅語」への関与と憲法制定からの排除

 元田は国民教化の根源を、皇室を中心とした伝統に求め、文明開化を西洋の圧迫による国体の危機と捉えた。そして明治天皇を国民の模範としてふさわしい、儒教的な有徳の君主に育て上げていることが忠臣としての道であると考え、その実現に尽くした。
 そのため、西洋的な啓蒙主義者である森有礼などが教育行政の長に立つことにたいして強く批判したのだった。明治17年に著した『国教論』では、皇室への崇敬を国教に転化し、全国民に徹底的に教育することを求めてもいる。修身と治国の一体化を図り、皇室への崇敬を一種の「国教」として確立することを目指した元田の「政教一致」路線は、「教育勅語」を通じた天皇制国家の確立によって実現されていった。
 元田は、前近代的な思想によって天皇制イデオロギーを確立しようとする点では、伊藤らよりも、はるかに近代的法思想から隔たった考えを抱いていたのである。

 

(第6回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年12月9日(月)掲載予定です。