忘れられた日本憲法 畑中章宏

2019.12.9

07越後縮の商人は死刑廃止を訴えていた

 

最も遅くに起草された私擬憲法

 明治20年(1887年)7月、大日本帝国憲法公布の約1年数か月前に「最後の憲法草案」と呼ばれる私擬憲法が起草された。越後国塩沢出身の田村寛一郎が起草した「私草大日本帝国憲法案」は今日発見されているなかでは最も遅くにつくられた私擬憲法だとされている。
 田村の草案は天皇主権の強化をめざしたものだが、現行の日本国憲法にもない死刑禁止の条文が盛り込まれていた。これは明治の私擬憲法でも、植木枝盛の憲法草案と田村の憲法草案だけであり、基本的人権を重視している点で評価すべきものである。
 この田村の憲法草案は、当時警視総監であった三島通庸(みちつね)との関係で国立国会図書館憲政資料室の「三島文書」と、当時田村と同じく新潟県県会議員で、民権活動家だった西蒲原選出の小柳卯三郎の関係文書が保管されている立教大学の2か所でしか発見されていない。

 

越後縮の品質向上をめざす

 田村寛一郎は、弘化2年(1845年)、田村寛兵衛の長男として越後国南魚沼郡中村(現在の新潟県南魚沼市中)に生まれた。田村家は農業を営んでいたが、同時に縮(ちぢみ)商人でもあった。田村は幕末、京都と江戸へ出て、国文学・漢文学・剣道を学んだ。また維新後は書籍を共同で購入し、読書に努めたという。 
 中村を含む越後国塩沢は、縮布生産に関連して、家々から縮布を買い集める仲買人や紺屋業(染物屋)もさかんだった。明治7年頃からの縮布生産の品質改良と統制、さらに景気の上昇にともない縮布販売が上向き、塩沢の商業活動が隆盛を極める。しかし、縮布の増産は質の低下と乱売を招き、問題化していた。
 明治8年(1875年)に家督を継いだ田村は、縮布製品の品質向上をおこなういっぽう、紺屋と仲買人も手掛けるようになり、明治12年には「生産会社」を設立、縮布の改良・増産・販路拡張に努めた。この生産会社は最初のうちは売り上げをあげたが、やがて不景気になり、16年には損失が1500円にまで膨れ上がった。松方デフレも影響し、生産会社は明治20年に解散している。

 

交詢社とのかかわり

 田村は明治13年(1880年)に「生産会社役員」名で交詢社に入社していることからこの時期以降、穏健な立憲政体をめざす運動に接近していったとみられる。 
 当時南魚沼地方では、民権運動の影響から郡内各地に結社がつくられ、演説会も開催されていた。
 塩沢でも、明治13年6月ころに政談会を開くための結社「同胞社」がつくられ、社員は数十名におよんだという。同年7月には六日町でも佐藤良太郎が演説結社をつくり、東京から交詢社社員が来た際には懇親会を開いている。田村が交詢社に入社したのは同じ年であることから、この懇親会に出席していた可能性がある。
 交詢社は明治13年に福沢諭吉が提唱し、小幡篤次郎、小泉信吉、矢野文雄、中上川彦次郎、九鬼隆一、箕浦勝人、馬場辰猪(たつい)ら、慶應義塾関係者によって設立された民権結社である。イギリス流の穏健な立憲政体をめざし、全国各地の有力上層に入社を働きかけて組織化しされていった。新潟県でも、第四銀行・第六十九銀行の役員など有力者が入社している。
 また明治14年には、自由民権の本流である立志社・愛国社や自由党に対抗し、二院制や財産制限選挙制、大幅な天皇大権などをもりこんだ「私擬憲法案」を発表した。
 田村のほうはこのころ、生産会社の役員としてだけでなく、郡連合町村会議員にも選ばれて副議長となり、また地元中村の村会議長となって村会を運営している。そして明治18年(1886年)には県会に進出していく。
 明治16年からの不況は、縮布生産者やその関係者に大きな打撃を与えていたが、田村が明治18年8月の第4回県会の議員補欠選挙に立候補したことは、政治的活動をとおして塩沢の縮布生産を高め経済的不況からの脱出をはかろうとしたとみられる。
 田村はその後、明治24年まで県会議員として活躍、県会での対立に抗議して一旦は辞職するが、翌年第2回総選挙に国権派から立候補し落選。明治26年には再び県会議員となり明治36年まで続けた。この間に条約改正反対運動や、岡村貢らとの上越鉄道協議会の設立、後半には県議会の重鎮として参事会議員となっている。

 

「私草大日本帝国憲法案」

 明治20年(1887年)7月1日、42歳になった田村寛一郎は自ら起草した「私草大日本帝国憲法案」を各地の有志に配布し、批判検討を募った。 
 配布された草案には、田村が印刷して各地に配布したパンフレット(18.5センチ×12.5センチ、27頁)と、もう一種類、コンニャク版12枚綴のものが三島文書の中にある。その表紙に、「此私草憲法案ハ新潟県南魚沼郡中村平民田村寛一郎カ窃ニ刷行シテ有志ノ間ニ配布シタルモノナリト云フ」とあることから、起草者の身元が判明したのである。
 西蒲原郡出身の政治家、小柳卯三郎に宛てた書簡によると、田村が憲法草案を起草した理由は、国会開設を3年後に控え地方の輿論を高めることが急務だからだという。また草案を送付した有志には、「各章逐条御覧の上充分御訂正」と請うた。
 田村の憲法草案は明治14年4月につくられた交詢社の「私擬憲法案」と各章の構成が全く同じで、そこに28か条を追加したものである。その追加のなかには天皇主権など6カ条の条文があり、皇権の強化をはかる。また民権については11カ条を追加し、さらには死刑廃止など独自の基本的人権の条文をもりこまれていたのであった。
 交詢社の「私擬憲法案」(全79か条)は明治14年4月に、矢野文雄らによって起草されたものであるとされる。田村の憲法草案は、交詢社案に民権の項目にも条文を11か条追加しており、そのなかには信教・言論出版・集会・職業選択・営業・外国人との婚姻・国籍離脱などの自由が認められていた。また財産権の保障、現行犯以外の令状の提示、長期間の拘留・拘禁の禁止、拷問の禁止、苦役から逃れることの自由が定められている。
 さらに、第102条で「日本国民ハ如何ナル罪ヲ犯スモ死刑ニ処セラルヽコト無ルヘシ」として死刑を禁止し、第104条で「日本国民ハ其族籍爵位ヲ別タス同一ノ法律ニ依テ其自由権利ノ保護ヲ受クヘシ」として、法の下の平等を規定していた。とくに死刑の廃止はほかに、最も民主的な草案と目される植木枝盛の案にしかないものである。
 ただし「皇権」においては、天皇主権など6か条の条文を付加して強化をはかり、さらに皇権の改正は勅許を要するとした。

 

天皇主権と国民の権利

 明治憲法と田村の憲法草案を比較考察すると、両者とも天皇主権主義に立っている点では共通している。 
 しかし、天皇と国民の関係については、明治憲法では「臣民」と表現され、天皇主権に従属した存在である。いっぽう田村の草案には「臣民」の文字は用いられず、国民の権利は国体の安全・護持の枠内で最大限の保障がされているのである。
 田村の草案は天皇主権を取り入れてはいるものの、大日本帝国憲法制定前に基本的人権の重視を強調できたところに、彼をとりまく政治的・社会的風土のなかに高い政治的教養が育まれていたことをうかがわせる。
 県会議員をおりた後も政治的関心を示していた田村は、明治37年(1904年)3月の第9回総選挙に再び立候補(26票差で次点)し、また翌年9月の日露戦争のポーツマス講和条約に反対して日比谷で集会が開かれた際も上京したといわれる。
 この後、明治39年3月に旧塩沢町と中村を含む14か村が合併した際に、4か月あまり町長事務をとった。そして、明治44年2月から大正4年(1915年)まで塩沢町の第3代目町長を着務めた。

 

妖怪博士・井上円了との関係

 新潟県南魚沼市、旧塩沢小学校跡地に建てられた鈴木牧之記念館の前庭に、「御大禮記念樹」と記した石碑が立つ。「御大禮(礼)」とは、新天皇の「即位式」と新天皇が五穀豊穣を祈る「大嘗祭」を合わせた儀式で、「御大典」ともいわれる。 
 大正天皇の御大典の際には、日本の各地でさまざまな祝賀の催しがおこなわれ、南魚沼の各地でも山車、楽隊、仮装、提灯などの祝賀行列が繰り出された。
 塩沢尋常高等小学校では、大正4年(1915年)11月10日に御大典を祝う式典が校庭で開催され、記念事業として、植樹や記念碑の建立、成績物展覧会などがおこなわれた。このとき建てられたのが「御大禮記念碑」で、近年になって牧之記念館前に移設されたのである。
 記念碑の揮毫者である井上円了は、安政5年(1858年)、越後長岡藩領の三島郡来迎寺村(現在の新潟県長岡市。合併前は新潟県三島郡越路町)にある慈光寺で生まれた。東京大学で哲学を学び、東洋大学の前身となる「哲学館」を設立。迷信にまみれた日本の風潮を打開するため妖怪研究に努め、「妖怪博士」と呼ばれた。
 円了は、「全国巡講」と呼ばれる講演活動を精力的におこない、明治25年(1892年)5月に塩沢町、大正4年10月には塩沢町と六日町を訪れている。
 大正4年の塩沢町の講演は町の教育会が主催し、小学校を会場に750人余りが、六日町では町内の寺院有志が主催し、1000人余りが聴講したといわれる。講演の内容は定かではないが、この時期は「勅令修身」と題する講演が多かったという。
 塩沢尋常高等小学校の記念碑への揮毫が、どのような経緯で井上円了に依頼されたか明らかではないが、当時塩沢町長であった田村は、明治44年(1911年)に「文学博士井上円了哲学新案評論」を記していた。この評論は128節にもわたり、田村の井上にたいする関心の高さがうかがえる。
 当時の町長は小学校の管理者も兼務しており、大正4年の講演開催と揮毫の依頼は、この役職にあった田村の働きかけによるものと推察される。

 

皇族とのつながり

 田村は晩年、悠々自適の生活を送り、大正14年(1925年)4月26日、81歳で亡くなる。 
 子どもがいなかった田村は、村上藩士嵩岡可笑(小太郎)の子、嵩岡又四郎を養子に迎えていた。又四郎は成人すると、新潟市に創設された新潟中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)に招かれ、国語・漢文の教員を務めた。
 田村又四朗の娘の静は、広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業後、国語・漢文の教師になる。その後、旧制福島県立相馬中学校を皮切りに各地の旧制中学で教鞭をとった小和田毅夫と結婚。毅夫は昭和33年(1958年)に新潟県立高田高等学校校長を最後に勇退し、その後は市の教育委員長を務めるなど一貫して教育者として活躍した。
 毅夫と静は8人の子どもをもうけたが、4番目にあたる次男の恆は、国連大使、日本国際問題研究所理事長、国際司法裁判所所長などを歴任。恆と妻優美子の長女雅子は、皇太子徳仁と結婚し、令和元年(2019年)5月1日に皇后となった。田村の孫静が、雅子の父方の祖母(静にとって田村は義理の内祖父)にあたり、田村寛一郎は数代後に天皇家とつながることになったのだ。
 “最後の憲法草案”を起草し、そこに天皇主権の主張を盛り込んだ田村も、自分の子孫が皇后になるなど、想像すらしなかったであろう。

(第7回・了)

 本連載はこれで終了です。ご愛読ありがとうございました。来年度に、書下ろしを加えた単行本が発売予定です。ご期待ください。