裏庭のまぼろし 石井美保

2023.10.15

10絹糸のひかり(2)

 

so it begins


 曾祖母の書いた手紙や、家族の誰かれの書き残した文章の中にあらわれる彼女の姿を想像するうち、いつかどこかで見聞きしたことのあるさまざまな母たちのイメージが、浮かんでは消える泡のように立ちのぼってくる。
 そのひとつは、戦時中に書かれた折口信夫の随筆に登場する、年老いた母のイメージだ。

 ほのぼのとした月の出近い明りに、空はもうしろじろとして居りましたけれど、地上はまだ暗い。其處に何万とも知れぬ人々が、非常に敬虔な、亦同時に深い懐しいものの感じられる気持ちで居られる。其中を、ほの暗い明りの中、まるで、波の上に泛(うか)ぶやうに、しらじらとした神主・神人の手で舁(かつ)ぎ上げられて居る訣(わけ)でございませう1

 「招魂の御儀を拜して」と題された随筆の中で折口は、戦死者の霊をのせた御羽車(おはぐるま)が招魂斎庭から本殿へと向かう様子を、このように幻想的に描きだしている。それは一九四三年四月、靖国神社で行われた臨時大祭に彼が参列したときのことで、そこでは二万柱に近い日中戦争の戦死者たちが、招魂式を経て神社に合祀されようとしていた2
 闇の中を御羽車とともにしずしずと進んでいく神官たちの行列を見送っていた折口の目にとまったのは、遺族たちからなる群衆の中にいた一人の老女の姿だった。

 その時ふと、私の目にとまりましたのは、私の前にをられた、さつき言ひました、旅の道で出あふことのあるやうなお年寄りの、女の方が、ふつと立つてぢつと何だか——心があるのか、心がないのか、立つたままぼんやり見つめられて居るやうな後姿が、目についたのであります。どう言ふ風に感じて居られるのか、喜んで居られるのか、愁へて居られるのか、殆何も思はずに、無心に子供のやうな気持ちで、その御羽車の動いて行かれる様子を見つめて居られるのではないかと言ふ風に、私はふつと感じました3

 境内にいる遺族たちがみな筵(むしろ)の上にひれ伏している中、ただ一人立ち上がって、ゆっくりと通り過ぎていく御羽車を茫然と見つめている老女の姿。この光景について宗教学者の川村邦光は、老婆は折口の言うように「無心に子供のやうな気持ち」であったはずはなく、むしろ、「息子の戦死にあらためて悲嘆し耐えがたくなり、口惜しさ、もしくは憤りのあまり立ち上がり、茫然自失したのではないだろうか」と述べている4
 ひょっとすると、そうだったかもしれない。けれども曾祖母の手紙を読み終えた後の私の胸には、たぶんそうではなかっただろうという重苦しい、確信めいた思いがわだかまっている。
 おそらくその老母は、国のために息子が死に追いやられたのだとしても、その国を恨んだり、国への憤りを表したりすることなど思いもよらなかっただろう。彼女はただ一心に、もう一度息子に会いたい、ここでしか息子に会うことはできない、ここでならば会えるかもしれないと思いつめて、遠路を旅してきたのではないだろうか。
 それは折口の言うとおり、〈これを信じよ〉と言って授けられた言葉や象徴を疑うこともなく押し戴くような、依然として素朴な「郷土の気持ちのままの」一人の母親の姿である。彼女が息子の死に憤り、自分も息子も騙されていたと悔しさに身悶えするまでには、さらに長い年月が、そしておそらくは何か決定的な転機が必要だったに違いない。
 私の曾祖母に、そうした転機は訪れたのだろうか。それとも彼女は終生、息子の死にせめてもの意味を与えてくれる旧い象徴のかけらを守りながら、ただ自分の中にだけ深い哀しみと後悔の念を押しとどめて生きていたのだろうか。

 曾祖母の手紙からいまひとつ連想されるのは、森三千代の回想の中に登場するおばあさんの姿だ。
 森三千代は一九〇一年生まれの詩人・作家で、金子光晴の妻でもある。二人は戦争の影の迫りはじめた一九二八年の暮れに日本を離れて東南アジアと欧州を放浪し、一九三二年に帰国している。一人息子の乾(けん)とともに東京の吉祥寺で暮らしていた夫妻の元に、乾への最初の召集令状が届いたのは一九四四年の晩秋のことだった。すでに日本の戦局は悪化し、レイテ湾海戦における神風特攻隊のニュースが新聞を賑わせていた頃だ。
 召集令状を受け取った森と金子は、ただでさえ丈夫ではない息子を戦地にやったら、「弾丸にあたるまでもなく死ぬかもしれない」と考え、何とかして従軍を回避する方法はないものかと知恵を絞る。令状の内容は、翌晩に応召せよというまったく猶予のないものだった。二人は旧知の医者に診断書を書いてもらうことに決めたが、それにあたって喘息気味の乾を応接室に入れて松葉の煙で燻し、重い荷物を背に戸外を歩かせるなどして体力を消耗させた上で医者を呼びに行ったという。
 そうして無事に医師の診断書を手にいれた森は翌日の夕方、書類を持ってみずから東京駅近くの集合場所へと赴いた。晩年になって受けたインタビューで、森はそのときの様子をつぎのように回想している。

 東京駅を降りましたら、その時刻にはもう退社の会社員なんていうのは、そのかいわい誰もいませんで、召集された息子たちと、それを見送りにきた父兄たち、それからその親類の人たちね。それに大学生でしょうか、野球の応援団みたいに見送りの掛け声かけて……。東京駅といいましても、八重洲口を出た正面に小学校がありました。公立小学校だと思います。そのころは国民学校といいましたね。
 真っ暗ななかを霧が流れているんです。霧の深い晩でして、そのなかに人がいっぱい。電燈なんかつきませんからね。いつ空襲があるかわかんないから、町のあかりなんかみんな消えている時代で、提燈、それから懐中電燈、それだけなんです。それが霧のなかをポーッと明るくしているんです。そのなかを大勢の人間がうようよしているんです、影絵みたいに5

 深い霧の中、人混みをかきわけて国民学校にたどり着いた森は、責任者らしき人をなんとか探し当て、息子は病気なので来られないという旨を伝えた。

 その人に、持っていった書類、診断書だとか召集令状だとか見せましてわけを話しましたら、了解だけはしてくれました。病気なら仕方がありませんねと。

 そうこうしているうちに、集合場所であった国民学校の運動場には、召集を受けた若者たちがぞくぞくと集まってきた。その中には、まだあどけなさの残る少年や、脚の不自由な若者などもいたという。

 そうかと思うと、〔…〕いかにも貧しそうなよぼよぼのおばあさんに連れられて、そのおばあさんに、持っていくものを、おまえ、寒いからこれを持ってお行きなんていって渡されて。そうすると、その若者は、おばあちゃん、もうぼく、金いらねえから、この金はおばあちゃんにやるよなんていって、お金を渡したりしているの。そういうのを見ているうちにこっちが感激しちゃって、こんな人たちまでがいくのにうちの息子を出さないなんて、私たちはこれでいいのかしらと思って、すまないような気持になってきちゃったりしまして、涙がポロポロこぼれて、私もその場でオイオイと泣いちゃったんですよ。そしたら引率していく人が私を気の毒がりまして、あなた、息子さんがそういう病気で出られないのを嘆いていらっしゃるんでしょうけれども、またよくなればこの次の召集がありますから、そのときは出てらっしゃい、これからはみんな九州へ行きます、そんなことまで話してくれました6

 身を引き裂かれるような別離の辛さに耐えながら、国の命令に応じて息子や孫を送りだす母や祖母たち。息子の亡骸さえ戻らなくても、その魂にまみえることができると信じて、国の用意した慰霊の場によろめきながらやってくる母たち。
 森三千代は、そうした母たちとは異なっている。彼女は息子を匿い、彼の代わりに自分が集合場所へと出かけていく。国の手に息子を渡さず、その命を守るために。
 そして、その試みは意外なほどあっさりと成功する。もはや戦局は押し迫り、召集の現場も混乱を極めていたからだ。のちに乾に二度目の令状が届いた時、やはり息子を出さずに今度は金子が区役所へ出向いたが、それは一九四五年三月の東京大空襲の後だったために現場はさらに混乱しており、金子は事情を説明するまでもなく、役所に書類を提出するだけで済んだという。
 「書類を届けるだけでよかったわけですか。意外に簡単だったんですね」という聞き手の言葉に、森は次のように答えている。

 それっきりです。そのころはもうちりぢりだったらしいですね、人間が。空襲のあと、あっちこっちへ散らばっちゃったり、疎開していたりして……。元のところへ召集令状がきても、もう誰も受け取る人もいなかったりして……。それを受け取って、出かけた人は、東京ではきっと律義な人ということになったんでしょうね、きっと7

 一九四五年の三月といえば、私の大叔父はすでに最後の任地に出征しており、当地で激戦が始まったために家族との連絡が途絶えた頃だ。そしてその三ヶ月後に、彼は戦場で行方不明になっている。他方で、森と金子の息子は両親の判断と現場の混乱のために動員を免れ、生き延びることができた。
 「それ〔召集令状〕を受け取って、出かけた人は、東京ではきっと律義な人ということになったんでしょうね、きっと」。
 戦後二十年以上が経ってからの、この一種あっけらかんとした森の言葉に出会ったとき、私は何ともいえない脱力感とともに、「そうやんな……」という深い納得を覚えた。あっけらかんとしていながら、この言葉は真実を突いている。律義に命令に従って命を落とすか、それとも混乱に乗じて動員の網をかいくぐって命拾いをするか。
 ただ、私の大叔父について言えば、彼にはおそらく選択肢はなかった。職業軍人として、彼は戦争を駆動するシステムの中にあまりにも深く巻き込まれていたし、彼の存在自体がもはや抜き差しならないほどに、その一部となっていたからだ。

 霧のたちこめる夜の集合場所で、戦地への出発を待つ青年と老婆の姿を目にした森は、千々に乱れる思いを抱いて涙する。それをみた引率者の一人は、応召できない不遇の息子をもった母の嘆きだと受けとって彼女を慰めたけれど、それは実際には、皆がこれほどまでに多大な犠牲を払って出征の途につこうとしているときに、自分は時の要請に従わず、息子を出さないでいることへの葛藤からあふれた涙だった。
 その一方で、森はそのときの引率者とのやりとりを振り返って、「私が状況にすっかり感激しちゃったから、相手の人はそれが私の演技に見えたんでしょうか。私は演技だとも思わなかったんだけど」と語り、それに対して聞き手である詩人の松本亮は、「相手はほんとうにそうだと思ったんではないでしょうか」と返している8
 「そうなんでしょうが、結果において演技になっちゃって……」と森は語っているが、そのときの自分の涙が果たして演技だったのか否かは、実のところ当の本人にもわからなかったのではないだろうか。そして同様のことは当時、出征の光景に感きわまって涙した多くの人びとにとっても、実はあてはまることだったかもしれない。
 何か崇高なもの、大いなるもののために敢然として身を捧げる、そうした人の姿をみるときに湧き上がる感激や尊敬の念と、思わず目に浮かぶ感動の涙。そうしたものはいつも、大々的に上演される国家の演劇につきものだ。感動に打ち震える人びとはその舞台の観客であると同時に役者でもあり、パフォーマンスを成り立たせるための装置でもある。
 折口のみた招魂祭でも、神となるべき戦没者の魂が、闇の中を粛々と進む御羽車にのせられてゆくという壮大な物語の上演を成立せしめていたのは、沿道にひれ伏してすすり泣き、あるいはしめやかに拍手をおくる大勢の遺族たちの存在だった。
 そうした感動の波に同調せず、周囲の皆と同じふるまいをしないことは、当時の状況においては至難のわざだったろう。いままさに出征せんとする若者たちと、それを見送る人びとの群れの中で、森は感動に揺さぶられつつ、だが自分はこの人たちと完全に一体化することはできないという葛藤の中で涙している。
 それでも、森が何としても息子は渡さないという一点において周囲とは異なる場所に踏みとどまることができたのは、彼女がひとりぼっちではなく、金子という人がそばにいたからかもしれない。その金子は戦前から戦後まで一貫して、総がかりで演じられる劇中の熱狂から身を引き、その底にある虚無を見とおすまなざしを保ちつづけていた。

 律義に命令を守って命を落とすか、それとも混乱に乗じて命令に抗い、生き延びるか。息子を後者の道へと押しやった森の決断と行動は、身勝手だと誹られるべきだろうか。たとえ利己的であったとしても、その判断は間違っていたといえるのか。
 そのために皆が身を捧げるべきとされるものが、崇高な何かにみせかけた虚無だったとしたら。命令を下す者たちを動かしていたものが、正気とみえた狂気だったら。
 命令の背後にある虚無を見抜き、狂気を見抜いたならばそれに従うのではなく、自分自身で判断しなくてはならない。それはいきおい、身勝手といわれ、利己的とも呼ばれるような孤独な決断になるだろう。ただ、そうした決断を下し、実行に移すためには自分自身の経験と知識に基づく確信と覚悟が必要だ。命じられた道だけではない、どこかに別な選択肢が、抜け道があるはずだと知っていること。
 そうした経験と知識と確信を、長く海外を旅し、さまざまな人と出会う中で森と金子は身につけていたのだろう。対して、招魂祭で折口が目にした老母や召集の夜に森の出会った老女、そして私の曾祖母のような人びとはたぶん、そのどれひとつとして持ち合わせてはいなかった。
 そうやって、自分自身よりも大切な息子を戦地へと旅立たせ、永遠に失った後も、彼女たちは我が子を奪い去ったものへの怒りを露わにすることなく、与えられた旧い象徴を律義に守りながら、なお薄れることのない悲嘆と後悔とを抱きつづけていたのだろうか。

 薄い便箋にたよりない文字で書かれた、曾祖母の手紙。直筆の便りは、多くのことを物語る。もういないその人の想いがその筆跡と余白からたちのぼり、写真でしかみたことのない面影が、ありありとよみがえる。手元に残る数通の手紙は、曾祖母の存在のしるしであり、愛情の痕跡だ。
 ——もう少し長生きしてくれていたら、私たちにも会えたのに。
 読みづらい書き文字の連なりを目で追っているうち、そんな詮ない思いが浮かんでくる。曾祖母が私に会うことがあったら、やっぱり私を「みよちゃん」と呼んだだろうか。
 日のよく当たる縁側に座って、光る糸を機(はた)にかけて、せっせと布団を織っている曾祖母の姿を思い浮かべる。一度も会ったことのないその人の、なつかしい匂いがふと鼻先をかすめたような気がした。



折口[一九七六:三九八]。引用にあたり、文中の旧字体は一部新字体に改め、適宜ふりがなを付している。
川村[二〇一三:一三七−一三八]。
3 折口[一九七六:三九八]。
川村[二〇一三:一五四−一五五]。
金子・森[二〇二一:一六八−一六九]。
6 金子・森[二〇二一:一七〇−一七一]。
7金子・森[二〇二一:一七二−一七三]。
金子・森[二〇二一:一七一]。


[参照文献]
折口博士記念古代研究所編 一九七六『折口信夫全集 第廿八巻 評論篇2』中公文庫。
金子光晴・森三千代 二〇二一『金子光晴を旅する』中公文庫。
川村邦光 二〇一三『弔い論』青弓社。





この連載は月2回の更新です。
次回は2023年11月1日( 水)に掲載予定です。
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