裏庭のまぼろし 石井美保

2023.11.1

11オルガンの歌(1)

 


et ainsi de suite

 


 平屋建ての実家は母屋と離れに分かれていて、私が子どもの頃、離れは祖父母の寝起きする場所だった。離れに入ってすぐの居間は裏の畑に面していて、朝のうちは東向きの窓からさんさんと日が入る。居間の隣室は床の間のある広い座敷で、祖父母はそこを寝室にしていた。
 思いだすのは炬燵の前の座椅子にもたれて、日がな一日テレビを観ていた祖父母の姿だ。それほど歳をとる前には、祖母は炬燵机で俳句をつくったり、編みものをしたりしていた。他方で祖父は、離れの端に増築した書斎で書きものをしたり、幼い私にはよくわからない電気関係の「発明」のための図面を引いたりしていた。
 祖父の書斎の本棚を物色するとき以外は、それほどしょっちゅう出入りすることのなかったその場所には、独特な雰囲気がたちこめていた。両親と私たち姉妹の居場所だった母屋とは違う、いろんなものの混ざりあった、日なたの土間のような匂い。祖父母の生活の匂いだと思っていたけれど、ひょっとするとあれは、離れという場所そのものの醸しだしている空気だったのかもしれない。
 実家の建物のうち、母屋は一九七〇年頃に建て替えられたけれど、離れは一九二五(大正十四)年に建てられて以来、一度も改築されたことがないと知ったのは最近のことだ。裏の土蔵と同じように離れもまた、長い歳月を地層のように降り積もらせ、そこに暮らしていた人たちの記憶をとどめて、独特な匂いと光を発していたのだろうか。
 祖父母がまだ現役世代として母屋に暮らし、私の母と伯母が子どもだった頃。そんな遠い昔、離れは曾祖父母の居室だった。そして、そこは遠方に住んでいた大叔父が、たまに実家に帰省した折に使っていた場所でもあった。

 物心ついた頃から私にとって大叔父は、応接間にある本棚の、「硝子戸の中の人」だった。そのことを特に不思議だとも思わなかったけれど、当時すでに鬼籍に入っていた近い世代の親族の中で、応接間に写真が飾られていたのは大叔父だけだ。小さな写真を引き伸ばしたらしい、輪郭の少しぼやけた上半身の肖像。その周囲にはどことなく静謐な雰囲気が漂っていて、軍服を身につけた青年の姿は、近くて遠いものに感じられた。
 そんな大叔父の生前の姿に初めてふれたのは数年前、同じ本棚にしまわれていた彼の遺品を手に取ったときのことだ。さほど大きくない紙箱の中に、陸軍時代の襟章や名刺、軍学校の卒業記念品だったらしい杯などとともに、数通の手紙と小さな手帳、それに一冊のスケッチブックが収められていた。
 鼠色の布張りのスケッチブックは、大叔父がどこかの百貨店で買い求めたものらしい。どのページにも、芯の太い黒鉛筆で描かれた素描が残されている。その多くは風景画だ。駅のプラットホームや船着き場、海辺の岸壁に集落の家並……明らかに実家の近所ではない。大叔父は演習で日本中を旅していたから、その旅先でみた風景をスケッチしたのだろうか。それとも休暇で出かけた土地で出会った風物を、手すさびに描いてみたのだろうか。
 人物を描いた絵も数枚ある。そのほとんどは、顔の表情の描かれていないデッサンだ。座卓にもたれて本を読んでいる女の人。子どもをおぶった下駄履きの女性。欄干に片足をかけて釣糸を垂れている人。道端に停められた自転車の陰にしゃがんでいる子どもたち。絵の隅には、書き慣れた様子のアルファベットのサインが記されている。
 横長の画用紙に描かれているのはどれも、余白の多い、静かなモノトーンの世界だ。それらの絵からは軍人というよりも、路地や野山を一人で散策するのが好きな、内省的な青年の姿が想像される。仕事で旅に出たときにも、こんな風にしんとした心持ちで、目の前の風景と向き合う時間があったのだろうか。
 スケッチブックの頁をぱらぱらとめくって、筆圧の強弱やかすれも生々しい描線をみているうちに、何とはなしに哀しいような、淋しいような気分になってくる。それを描いた人がほどなくして死んでしまったことを知っているから、そんな風に感じるのだろうか。それとも、目の前の対象をみつめて鉛筆を走らせていた大叔父の心持ちが、それぞれのスケッチから伝わってくるのだろうか。そのどちらなのかはわからないけれど、それらの素描をみたことで私は、長いあいだ「硝子戸の中の人」だった大叔父のことを、もっと知りたいと思うようになったのだった。

 けれどもそう思ったときには、彼のことをよく知っていたはずの祖父も祖母も、とうにこの世を去っていた。彼の姪である私の母と伯母にしても、彼女たちが幼い頃に亡くなった大叔父のことは、ほとんど憶えていないらしい。母たちが語ってくれた唯一のエピソードは、あるとき大叔父が外国のお土産に綺麗な靴を買ってきてくれたが、その靴が小さすぎて履くことができなかったというものだ。その靴が、母と伯母のどちらに贈られたものだったのかはわからない。母と伯母はそれぞれ別々のときに、自分の思い出としてこの話を語ってくれた。姉妹の記憶は時々、そんな風に互いに浸透しあっている。
 大叔父については、だから家族の記憶ではなく、残された彼の手紙から知ることになった。その手紙のほとんどは、彼の婚約者であり、のちに妻となった文子さんが保管していたものだ。それらの書簡を通して、私は彼について随分多くのことを知ることができた。けれども、大叔父が大阪の生家を離れてから亡くなるまでに辿った遠い道のりについて、その時代的な背景と意味について、そして彼の最期について、この小さなエッセイで詳述することは難しい。
 だからここでは、そのうちのごく限られた事柄——大阪の家に時折帰りつつ、いつも外の世界に目を向けていた大叔父のこと——について、書いてみたいと思う。

 その後長い間御無沙汰しています
 毎日朝から晩迄忙しい仕事に追われていますので つい気に成り乍(なが)ら遅れて了いました お許し下さい
 此の間送って戴いた着物 お菓子は無事つきました でも又その内に着物は送りかえすかもしれません……
 さてお便りをすると言ってもこちらの事は何にも書けませんので一向にかくことがありませんね……
 愈々(いよいよ)お兄さんが試験に合格されて奉職されるとの事 誠にお目出度いことと存じます これで先(まず)私もやっと安心しました 容子チャンは生れるし……〔…〕
 台北もようやく秋が訪れて参りました 朝晩は一寸寒い位です でもやっぱり常夏の国で日中は汗が出る位です 晩でも夏のシャツ一枚で部屋の中にいます
 温泉1が近くにあるので若しお母様が近〔く〕にいられたら呼びに行くのだがと思いますね 仲々いいところです もう少し近くにあるのならほんとうに見物旁々(かたがた)こちらへお呼びしてもいいのですがね…… 一寸遠いですね……
 こちらに来てからお小遣が半減して了ったので一寸困っています そちらの方へ送っているのには変りはないでしょう 全部合せて減っているのにそちらだけ変っていないのですからこちらが少しになるのです でも何とかやっています……又困ったらSOSを出します
 こちらは何でも高くて困ります 煙草もとても値上りになりました〔…〕
 大阪の方2へはまだ一度も〔手紙を〕出していないのですけれど怒っていますか 怒っているとするとよけい出せないな—— 何と言っていいのか分らない だって何にも書くことがないのですからね
 ナニモナイ カネモナシ です……
 なんて言っていると「何だ のんきな奴だな!!」と思われるかもしれませんが仲々これで 今度かえって行った時は大分頭がはげていますよ 心配ごとが多くてね……
 とても多くの人の上になると言うことはむずかしいことです 自分のなすことすることは皆下の者にピンとひびきますからね…… でも皆から重宝がられて僕は幸福です 皆僕の言うことをよくきいてくれますよ……

 今日はこれで失敬します
    英夫より
 母様父様へ
 皆さんに宜しく

 一九四一年の四月に神戸港を出帆してから一九四三年の六月に帰国するまで、大叔父は海外の任地を転々としていた。それぞれの任地から、彼は時折家族に手紙を出していたはずだけれど、いま実家に残っている大叔父の手紙は二通しかない。そのうちの一通は一九四一年十一月十三日、彼が台北にいたときに書かれたものだ。二十一歳の大叔父は、この年の九月半ばから十二月半ばにかけて、陸軍中尉として台湾に駐在していた。
 この手紙も含めて、大叔父が家族や文子さんに送った書簡には、検閲を受けた形跡がほとんどみられない。この頃彼は中隊長という立場にあったためか、検閲済の印鑑を自分で押している手紙もある。とはいえ、機密にふれるような事柄を漏らすわけにはいかず、当たり障りのないことだけを書いている様子がうかがえる。
 文章のトーンは、軍務に就いている将校というよりも、外国暮らしをしている若い学生のそれのようだ。わずかに最後の方に、それも冗談めかして、年少ながら部隊を率いることの苦労についてふれている。大叔父から家族への手紙は、いつもそんな調子で読み手を拍子抜けさせるのだが、ひょっとすると彼は実家の両親や兄夫婦に対しては、彼らが抱いているはずの自分のイメージ——愛すべき末っ子の「のんき坊」——を演じていたのかもしれない。

(つづく)



1 台北に近い北投(ほくとう)の温泉地のこと。
2 大叔父の姉の婚家を指す。

 


この連載は月2回の更新です。
次回は2023年11月15日( 水)に掲載予定です。
バナーデザイン:山田和寛+佐々木英子(nipponia)