裏庭のまぼろし 石井美保

2023.11.15

12オルガンの歌(2)

 

 

le voyage immobile

 

 大阪の家に残されていたもう一通の手紙は、一九四三年二月三日、ティモール島に赴任していた大叔父が自分の兄(私の祖父)に宛てて書いたものだ。この手紙の冒頭でも、彼はあたかも任地で気楽に暮らしているかのような様子を書き綴っている。

 お便りをしようしようと思っているのですが仲々筆不精で…… 兄様は僕が東京1の方許(ばか)〔手紙を〕出していると思っていらっしゃるんでしょう? 仲々どうしてどちらも同一数位です……
 南方ボケがして来たのか さっぱり思考とか変なかたくるしい事が面倒になっていけませぬ アソウソウ 兄様からのプレゼント 注文たしかにお受け致しました 丁度金欠病にかかっていたので大たすかりです スラバヤにいたせいか 金欠病に十人が十人ともかかって了いました でも年があらたまると環境も変ったので これからは大丈夫です
 目下大学〔陸大入試〕の準備をやっていますけれど正にドロ縄で安全率はあまりありませぬ 〔合格は〕来年らしいですね 東京から是非来年(今年の意味)にと云って来ましたけれどやっぱり一寸遊び過ぎたらしいです 時々兄様の孤軍奮闘していられる姿を思い出しては心を諌めているのですが やっぱり三日坊主とやらで……
 内地の方は僕等がボヤボヤしている内に ほんとうに変って了ったらしいですね 僕等戦地で育った生クラ物(ママ)が帰ると果して生活が出来るかしらと心配になって来ます

 そんな風に冗談とも本気ともつかない調子で近況を知らせた後、彼はふと調子を変えて、つぎのように兄に語りかけている。

 大東亜戦争も愈々その性格を現わして来ましたね それにしても僕等は何と戦運にめぐまれているのでしょう 僕等のいるところは正にこの大東亜戦争の将来の鍵とでも云う可き地点にいる しかもその時機的にもその鍵である3 毎日生活をしている内にも自ら真剣さが湧き出て来ますね
 毎日毎日ひっきりなしに来襲する敵機 それにこたえるか 毎日根気よく飛び出して行く友軍機 正に現代戦の切実なる様相を如実に浮べている
 でも兄さん こう云うと僕たちは毎日毎日ニガ虫をつぶした様な顔をしていると想像されるでしょう それは大間違い そんなことをしていてはいかに日本軍でもこれから幾年つづくか分らぬ大東亜戦争に先(まず)肉体的にまけて了う

 そう述べた上で大叔父は、「人間にはすばらしい許りの同化力と云う様な力があって、新らしい環境なり境遇なりにその人を馴らして了うのです」「又その上に軍隊には所謂(いわゆる)群集心理と云ったものがあって、そんなに不安とか焦慮とか云った気持は起らぬのです 毎日ほんとうに愉快にやっています」と綴っている。
 その一方で彼は、「でも時には草の根をかじらねばならぬ時があるのには閉口」と述べ、それでも軍人は「高度の生活様式」に慣れることなく労働に勤しまなくてはならないとして、つぎのように書く。

 田舎の人間が軍隊の生活を以て満足し 毎日感謝の日を送るに反し、都会の令子は毎日不平づらをし 而も実力に於て 実行力に於て 田舎出身の者が常に最后の勝利を得ているのは何を物語るか 
 兄さん!! 僕は今度位貴重な体験をした事はない 僕の軍隊生活の方針は確立した様に思う

 ティモール島での生活は当時、食糧などの物資はきわめて乏しく、連日の空襲のために壕に寝泊まりせざるを得ず、さらにデング熱などの伝染病も蔓延しているという過酷な状況にあったようだ。そんな生活を送る中で、大叔父は陸軍幼年学校出身の「都会の令子」に対して、逆境に負けない「田舎の人間」としての自覚を強くしたのだろうか。
 そんな風に戦地における自分の理念を熱く語ったかと思うと、彼はすぐまた調子を変えて、「下らぬことを連ねました さて……」とあっさり話題を変えている。

 実家に宛てた手紙では、このように大叔父はあくまで快活な「のんき坊」を演じつつ、任地でも大過なく過ごしている様子を書き送っている。一方で、文子さんに宛てた彼の手紙は、それとは若干トーンを異にしている。
 実のところ大叔父は、東京の文子さん宅へはまめに手紙を書き送る一方で、大阪の家にはさほど頻繁に便りを出していなかったようだ。大叔父の嫂(あによめ)にあたる私の祖母が文子さんに宛てた手紙には、義弟から一向に便りがないことを案じる文章が残されている。
 十六歳で郷里を離れてからというもの、ずっと客地に暮らしていた大叔父は、老いた両親と兄一家の暮らす生家のことを、どんな風に思っていたのだろう。彼にとって、故郷とはどのような場所だったのだろうか。
 大叔父が東京に暮らしていた頃、たまに実家に里帰りをした折に文子さんに書き送った数通の手紙からは、郷里での彼の様子を垣間見ることができる。その一通は一九四一年四月二十二日、二十一歳になったばかりの大叔父が、海外の任地へ出帆する直前に書いた手紙だ。

 今日は田舎の生活の第二日 朝から親せき廻りをして急いで帰って来た が家にかえっても誰も話相手にならず 離れ座敷の真中でポツンと一人で考えている
 床の間の上にあった額をとり出して 今迄一人淋しそうに入っていた学校時代の写真をとり出して 二人でうつしたあの写真を代りに入れた。部屋の内が急に明(あかる)くなった様に思われて仕方がない
 急にほがらかになって その額を前に置いてオルガンの鍵を叩き始める 今頃は何をしていることだろう等と思い乍ら叩いて行くと丸で違ったこと許りひいて、母に笑われて了ったよ アハ……
 今日、手紙が来ましたよと母が呼んでくれたので飛んでとりに行く 読んで行く内に何かしら涙がにじみ出て来た 何故悲しくなったのだろう もう会えぬと言うのでもなし 今度は大きく立派になった文子を見られると言うのに 何の悲しいことがあるものかと思えば思うほど泣けて仕方がない

 大叔父はその二日後に神戸港から台湾へ向けて出帆し、つぎに彼が文子さんと再会できたのは約二年後の一九四三年六月のことだった。この手紙からは、いつまた会えるかも知れない彼女のことを想って涙する、歳若い大叔父の姿が浮かんでくる。その一方で、東京の文子さんを懐かしみつつ、これから赴く新たな世界に思いを馳せる大叔父にとって、生まれ育った家とそこに暮らす人びとは、すっかり背景に退いている。
 そのことは、彼がやがて南洋の任地から帰国して、軍学校の教官(一九四三年の暮れ以降は陸軍大学校生)として再び東京に暮らすようになっても変わらなかったようだ。一九四三年の大晦日、文子さんへの結婚申し込みを前に里帰りした折に、大叔父は彼女に宛ててつぎのように書き送っている。

 二十九日にかえってから二晩 毎日文子の夢にうなされている 田舎へ帰ってもよくねむられぬので困っている 「早く東京へかえりたい」と言って兄にしかられた。「文子をつれてくればよかった」と云っては兄に「英夫はそれを何回言えばすむんだい?」と言われる 実際無理をしてもつれてくればよかったと思う。
 一人ポッチの生活のつまらなさを感ずる 東京にいる時は学校の仕事があるのでまぎれるが こちらにかえって来ると何にも仕事がないので「何故つれてこなかったのか?」などと許り後悔させられる 今度休暇がある時は誰が何と言ってもつれてくる事にきめた〔…〕
 内(うち)の容子は毎日「東京の文子姉チャンは何故きやはらひんの?」と許り言っている 大した人気だ〔…〕田舎の者は皆文子の身体の事許り心配している だから充分身体に気をつけてくれ〔…〕
 夜はいよいよ更けて行く だが我輩は独りポッチ 離れの一室にあって文子の写真を出してペンを走らせている 文子も多分同じ様に考えていてくれるだろうと思い乍ら……「そして来る可き来年の正月には」などと新しい正月の想像などを思い浮べ乍ら……
 お互に親許での最后の正月を意義深く送ろうではないか〔…〕

 家人の寝静まった大晦日の深夜に、大叔父は火鉢で暖をとりながら、一人せっせと筆を走らせていたのだろうか。冬の離れの冷え切った空気と、街灯りもなく星の散らばるばかりの暗い夜空が思いだされる。静まりかえった戸外には、川向こうの寺で撞かれる除夜の鐘の音が響いていたことだろう。
 私の母が祖父母から伝え聞いた話によれば、大叔父は帰省するたびに村の親戚や旧友たちの家に出かけて旧交を温めていたという。そんな風にあちこちへ身軽に出かけていても、やはり彼にとって郷里はまるで時間の止まったような、平和すぎるほど退屈な場所だったにちがいない。
 その一方で大叔父の手紙からは、することもない田舎の生活にただ倦んでいるというよりも、どこかもっと切実な孤独や淋しさが透けてみえるような気がする。離れの一室に一人ぽつんと座っていると、都会でせわしなく働いているときにはなりを潜めていた憂愁が、彼の内面にひたひたとせり上がってきたのではないだろうか。それはたぶん、もともと彼の中にありながら、あまり人には吐露することのなかった哀感であり、寂寥であり、不安であったかもしれない。そんなときに彼は、気を紛らわすために一人、オルガンの鍵盤を叩いていたのだろうか。
 離れにあったというオルガンはとうの昔に処分されてしまい、そんな楽器があったことさえ、母を除いて知る人はない。それでも、離れから聞こえてくる少しこもったような柔らかな音色と、背中を丸めて木製の楽器に向かっている大叔父の後ろ姿が、まるで夢にでも出てきたかのようにまざまざと想像される。

 故郷にいるからこそ、痛切に感じられる孤独というものがあったのだろう。大叔父にとって大阪の郷里は、家族や親戚のいる懐かしい場所ではあっても、そこは自分の住むべき場所ではすでになかった。郷里はいわば旧世界であり、彼の心は常に、なすべき仕事があり婚約者のいる東京、そして赴くべき海外の任地に向けられていた。
 故郷を抜け出して、旧い土地を離れて、広い世界に出て行くこと。そうした機会を大叔父に与えていたのは、一方で彼の生を厳しく束縛していた軍隊という組織であり、日本による植民地支配の拡大だった。



1 婚約者の文子さん一家を指す。
2 大叔父は一九四三年の一月二日にスラバヤを出港し、同月八日に新たな任地であるティモールに到着している。
3 この手紙で大叔父は、自分たちは地理的にも時機的にも「戦運にめぐまれている」と書いているが、歴史的な経緯をみると、この頃すでに戦況はかなり悪化していた。一九四二年六月のミッドウェー海戦を機に連合軍が反撃に転じる中、同年の八月にはソロモン諸島のガダルカナル島にアメリカ軍が上陸。補給が不十分なまま苦戦を強いられた日本軍は一九四三年二月初旬に同島から撤退した。この撤退に至る戦況の悪化に伴い、豪北地域の防衛強化を図る大本営命令を受けて、大叔父の所属していた第四十八師団の主力は一九四三年一月以降、ティモールに配置されることになった(防衛庁防衛研修所戦史室 一九六九:一、六八−七二、輜重兵史刊行委員会編 一九七九:四八七、五〇〇−五〇一)。


[参照文献]
輜重兵史刊行委員会編 一九七九『輜重兵史(下巻)』輜重兵会。
防衛庁防衛研修所戦史室 一九六九『戦史叢書 豪北方面陸軍作戦』朝雲新聞社。


この連載は月2回の更新です。
次回は2023年12月1日( 金)に掲載予定です。
バナーデザイン:山田和寛+佐々木英子(nipponia)