裏庭のまぼろし 石井美保

2023.12.1

13埠頭にて

 

 

in one second

 

 文子チャン 今日は
 今日は台ワンの最南端の高雄に来ています 二十一日に台北を出て来たのです 出る時に文子チャンからのお手紙が来ないかと思って随分と待っていたのですが来なかったので残念でした
 台南も見物したし高雄も見たし 大分方々を見物しました こちらの旅館は名前の如く海に面しているので景色はとてもきれいです
 高雄の港の防波堤が二本ニョキニョキと出ているその根本には江の島と言う島があって丁度内地の江の島へ行っている様です お兄チャンの泊っている旅館のあたりは山が海にせまっていて旅館は山の中腹に建っている とてもきれい
 沖の方を通る舟の帆がはるかに見えるのも仲々良い 家の景色など内地とちっとも違っていないし 丸で内地にいるのと少しも異りはない 内地の鎌倉か神戸のあたりの様です
 台ワンのお兄チャンはとても忙しくて毎日あっちへ走り こっちへ走ったりしててんてこまいです でもあと二、三日ほどしたら又台北へかえり一寸ゆっくりできると思います〔…〕

(一九四一年九月二十二日)

 台湾高雄市西子湾 臨海ホテル。
 古い便箋に印刷してあったその住所を頼りに、地図を見ながら歩きはじめる。手元にあるもう一通の手紙の封筒には、高雄市入船(いりふね)町三ノ六とある。そこも西子湾の近くだけれど、入船町という名前はもはや使われておらず、いまでは光栄街や大智路と呼ばれている地域らしい。
 地下鉄の西子湾駅のある辺りには、元は高雄港駅と呼ばれる駅があった1。いまでも昔のプラットホームや線路、操車場などが残されている。茶色く錆びた、何本もの線路はずっと港の方まで続いている。船で港に着く物資を運び入れるとともに、台湾各地からの物資を貨物列車で港へ運んでいたのだろう。
 古びた貨車の車両と現代的なオブジェとが、互いに間隔を空けて点々と置かれている操車場を抜けて、古い町並みを歩いていく。だんだんと日が暮れて、あたりの空気は青みを帯びている。

 線路沿いにある赤煉瓦の倉庫群は、昔小樽で見たことのある倉庫群とよく似ている。日清戦争の後、下関条約によって台湾が日本統治下に入ったのが一八九五(明治二十八)年。高雄港は、一九〇八(明治四十一)年から一九二九(昭和四)年の間に行われた築港工事によって建設され、同じ頃に港の周辺も開発された2。いまではすっかり古びて、いかにもレトロな風情を醸しだしている倉庫群だけれど、大叔父がここにいた時分にはまだ築年数も浅く、立派に見えたことだろう。その頃は埠頭も倉庫も鉄道も、どこも活気に満ち溢れていたにちがいない。
 大智路を目指して歩いていく途中の路地では、たくさんの鉢植えを並べた道端にテーブルと椅子を出して、お爺さんたちが煙草をくゆらせている。狭い通りに面した色彩豊かな道教の廟。何体もの龍が象られた屋根を見上げると、廟の二階と向かいの建物の間に黄色の提灯が何連も吊るされている。灯りはともされていないけれど、何とはなしに賑々しい、お祭りめいた雰囲気。
 大智路にある小学校にたどりつく。この辺りが昔、入船町と呼ばれていた所だ。仕事の一段落した夕方などに、大叔父も近所を散策したことがあったろうか。

 来た道を引き返して港に戻り、もう暗くなった埠頭を歩く。コンクリートの波止場に、波がぴちゃぴちゃと寄せている。黒々とした海の上には大きな船が何艘も輝きながら浮かんでいる。
 いまから八十年前ほど前に、この港から船団を組んで出航した人たちのことを思い浮かべてみる。どんな喧騒と混乱と、緊張と活気があったのか。ここで荷物を積み込み、兵士たちも船室にすし詰めになって、さらに南へ向けて出帆したのだ……その場にいたはずの大叔父の姿を想像してみようとする。一瞬、過去の光景が甦ってくるような感覚は、でも穏やかな海面を動いている黒い波の中にすぐ消えてしまう。あのときの活気も喧騒も混乱も、そこにいた人たちの姿もみな、泡のように消え去ってしまった。
 それでも、海はまだここにある。埠頭も、倉庫も、線路も、街も。そこここに、まだ痕跡は残されている。

 すっかり日の暮れた港から街の方を眺めると、高層ビルの輪郭に沿って薄紫色のネオンがぽうっと浮かんでいる。柔らかな光をまとったビル群の中へ、あかあかと灯りをともした路面電車がゆっくりと進んでゆき、反対方面からやってきた電車とすれ違う。燐光をふりまいているかのようなその光景に、いくつもの時空をめぐる幻燈を見ているような心地がする。

 一九四一年の九月半ばから十二月半ばにかけて、大叔父は台湾に滞在していた。この間、彼は台湾の北と南を忙しく行き来していたようだ。東京の文子さんの元に届いた九通の手紙のうち、台北から出されたものは六通。残りの三通には高雄の住所が記されている。
 手紙の中で大叔父は、当時まだ女学生だった文子さんが興味を惹かれそうな台湾の風物や日常の出来事について、あれこれと書き綴っている。

〔…〕十五日の日に台南の方へ用事で行った 「台南で又お便りをする」と言っていたけど台南ではお仕事が忙しくてとてもかけなかった 今日(十八日)台北にかえってきたので早速かいている処だよ〔…〕
 台南のお話でもするかな? でもこんなお話はお兄チャンはとても下手でね
 台ワンと言う処は一体に新らしい感じのするところだ 特に都会は
 台ワンが日本の国となってから新らしい都市計画が立てられて その計画に基いてどんどん建設せられているので道路などは昔の平安京の様に縦横にゴ板〔碁盤〕の目の様に走っている3
 又草や木は気候があたたかなので伸々としている この点は同じ朝鮮の都会とは大部(だいぶ)異っている点だ 朝鮮もやはり新らしい計画に基いて建設されているのだが木草が元気がないので一寸新らしい気分がしない
 台ワンはそれに加えて南方諸国特有の真白い建物が多いのでとてもさっぱりした気持がする 北方のインキな建物とは大分違っているよ…… 台北なんか文子が見たら一ペンに「此処に住んで見たいな」なんて言うよ アハ…
 台南と言う町は台ワンの屈指の大都会だけに堂々たるビルディングも沢山あって百貨店4もある 大したものだよ〔…〕

(一九四一年九月十八日)

 この手紙を書いてから約ひと月後、やはり台北から出された手紙の中で、大叔父は日常の些事を書き記しながら、ふたたび台湾の都市の美しさに言及している。

〔…〕アソウソウ 今度台北の映画館へね ほら「女学生の記」5と言うのが来るんだよ お兄チャンはそれをきいて文子チャンからのお手紙を思い出して 待ち遠しくて困っているんだよ 早く来ればいいなと思ってね……… 見たら感想をかいて送るよ 直ぐにね あれは皆で見に行ったんだろう?……〔…〕
 台北は仲々美しい都だ 此の間から防空演習をやって真黒だけど 灯がつくととてもきれい それに樹木が多くて道路が第一ひろい それに人道、車道、自動車道と区別されていて街路樹がきちんと立ちならんでいる
 又都会を離れて田舎の方へ行っても 道はひろくて又 道の両側には並木があるので何となく涼しい気分がする 台ワン位はあついとは言えない 文子チャンだってきっと好きになるぞ〔…〕

(一九四一年十月二十二日)

 大叔父の手紙に描かれているのは、植民地統治の下で近代化していく台湾の光景だ。都市計画に基づいて建設された新しい道路や市街地のこと。台北にくるという映画の話や、書店で購入した小説のこと。高雄や嘉義市で泊まった旅館のこと。彼は仕事の合間を縫って風景の写真を撮り、たまの休みには北投の温泉地などにも出かけていたようだ。東京との気候の違いについてはたびたび触れられている一方で、家の造りや日用品などについては、「内地と同じ」という表現が何度か出てくる。

 台南で何かお土産をと思ってさがしたんだけど適当なものがない〔…〕その内に台北でいいものを送ります 何がいいのかな? でもこちらは内地と殆ど同じ物許りでだめだね……
 文子チャンだってお兄チャンにもう慰問袋の必要はないよ こちらは内地と同じだからね 唯慰問文だけをその代りどんどんと下さいね〔…〕

(一九四一年九月十八日)

 文子さんに宛てた手紙だということもあるのだろうが、大叔父の手紙に登場するのはもっぱら、彼の目に好ましいものとして映った「新しい」台湾の姿だ。日本と同じ建築様式の建物が立ち並び、日本語が通じ、東京と同じ映画や品物が流通している——それは植民地化された国の土地土地に、それぞれの歴史や言語や暮らしのあることを度外視した、無邪気な植民者のまなざしに映った当地の光景だったろう。同質性を浸透させ、植民者にとって居心地のよい空間をつくりだすその同じ力が、現地の人びとに及ぼしていたはずの負の作用について、大叔父の手紙では一言も触れられていない。
 同時にまた、文子さんの観たという映画がくることを心待ちにしている彼の文章からは、異郷にいる淋しさを紛らわすために、お互いのいる場所が離れてはいても「同じ」であり、共有しているものがあるということにあえて意識を集中させているかのような心情が透けてみえる。
 そんな風にいつも明るい話題を探し、陽気な調子を保とうとしながらも、大叔父の手紙にはときに孤独や淋しさといった感情が顔を覗かせている。一九四一年九月二十二日に高雄で書かれた彼の手紙の続きは、つぎのようなものだ。

 夕方から曇り出した 雨が到々(ママ)ふり出しました 旅に出て雨にふられる位に いやに淋しくなることはありません 東京にいても雨と言うのは一寸淋しいのに……
 海南島6よりずっと涼しい上に雨にふられて一寸さむい位 ざアざアと言う雨の音にふと北沢7の事など思い出す 雨のふった晩 ビショぬれになって演習から帰って来てあの縁側であついお茶をいただいたことなど 次から次へと思い出す〔…〕
 皆と遠くはなれて色々と仕事をしていると 仕事をしている最中はまだいいけれど それを終えて了うと無精〔性〕に淋しくなる〔…〕
 旅に出ると色々の事があるものだよ でも二、三日して台北にかえるときっと手紙が二通きていると思うと急にうれしくなる きっときている様に……〔…〕

 雨の音も夜の更けるに随ってだんだんと静(しずか)になって来た
 さアねよう 又明日働かねばならぬ 文子もしっかり大きくなれよ 早くね そして待っていてくれ〔…〕

 文子さんに宛てた大叔父の手紙からは時折、ただ淋しいというだけではない、どこか漠然とした不安感のようなものが伝わってくる。それはおそらく、彼の旅が常にただの物見遊山ではなく、来るべき戦闘のための任務を帯びていたということと無関係ではないだろう。
 自分が完全に把握することもコントロールすることもできない情勢と上からの命令によって動かされ、次に赴くべき場所も自分の行動も、生命でさえすでに他人の手の中にあって、自分の意のままにはならない。そのことを、大叔父は軍人としてみずから選択したのであり、自身の職務として納得もしていたにちがいない。ただそれでも、完全には消し去ることのできない予感のような不安を、彼は心の奥底に抱えつづけていたのではないだろうか。
 一九四一年十一月二十七日、次の任地への出発を間近に控えて書かれた大叔父の手紙は、いつも通りの朗らかな筆致で書き始められているものの、全体のトーンは不穏さと切迫感を帯び、先行きの読めない状況の中でなお自分を鼓舞しているような様子が見てとれる。

 文子チャン 今日は 
 十一月九日 十日 両日に出したお便りは確(たしか)に拝見致しました。元気そうなお便りを見て大変うれしくなりました。お兄チャンの旅行も大分日がたつにつれて次第に高雄に近(ちかづ)いて来ました 此の頃は高雄に近い楠梓(なんし)と言う所にいます こちらの方はとても田舎の方で夜などはどちらの方を見ても真黒です〔…〕
 一昨日 楠梓の小学校の生徒達の学芸会があったので見に行った 一人の小さい女の子が(四年生だと言うことだ)とても上手で色々の舞をまったよ 女の子の舞って言うのは実にいいね いつか文子チャンが和子チャンと二人で 愛国行進曲か何かのダンスをやったことがあったでしょう お兄チャンはあの時のことを思い出してひとりでほほえんでいました
 もう東京ではコタツなんか入れているって? こちらはまだまだジュバン一枚で朝晩もすごしている 朝晩は一寸涼しいと思う位です

 お兄チャンはこの頃は文字通り忙しくて仲々ゆっくりしていられないよ……
 でも「お国の為に」と思うとつい一生懸命になり出す が身体も至って丈夫だし心配することはない
 今もお便りをかいていると 何かお仕事を持って来たよ それで頭がくしゃくしゃに成って了った

 それからもう一つ これは これから色々と忙しくなってくるので或は二、三ヶ月位お手紙が出せないかもしれない が 若しお便りが行かなくても元気で働いていると思って 時々お便りを出して下さい
お兄チャンもいつかのお写真をながめて 日曜日毎にはお便りをかくよ そして 出せる様になったら一度に出すからね……

 何だか気がせいて今日はペンが動かない 空には飛行キがブンブンと飛んでいる 近くの小学校では兵隊ごっこの声がきこえてくる
 愈々(いよいよ)非常時だ 皆一生懸命やらねばならぬ さア やろう
 文子チャンは学校に お兄チャンはお仕事に……
 ではくれぐれも身体に気をつけてね……


 この手紙を出して間もなく、大叔父は高雄港に集結した船団の一員として次の任地へ出帆し、そこで初めて大規模な戦闘を経験することになる。



1 高雄港駅は一九四一年まで高雄駅という名称だった。なお、一九二〇年九月に州制が実施されるまで高雄の名称は打狗であり、同駅は一九〇〇年から一九〇八年までは打狗停車場、一九二〇年までは打狗駅と呼ばれていた。https://taiwan-shugakuryoko.jp/spot_south/2555/参照。
2 楊・平野(二〇〇一)、井上(二〇一四、二〇二一)参照。
越沢(一九八七)によれば、日本統治期の台湾では一九三二年に郊外の開発を目的とした都市計画が策定され、一九三七年の都市計画法制度の整備以降、土地区画整理による新市街の開発が行われた。
一九三二年に創業した林百貨店を指すと思われる。
ここで大叔父が言及しているのは、一九四一年に公開された村田武雄監督による東宝映画「女学生記」のことである。原作は一九四一年に有光社から刊行された細川武子の同名小説。映画の公開に先立つ一九四一年四月、大叔父は海南島へ向かう途上で滞在していた台北の書店でこの本を買い求め、その感想を文子さんに書き送っている。
大叔父は一九四一年の五月初旬から九月中旬まで海南島に駐在していた。
文子さんの家を指す。


[参照文献]
井上敏孝 二〇一四「日本統治時代における高雄港築港事業——砂糖積み出し港から工業港への変遷」『兵庫教育大学教育実践学論集』一五:一八三−一九二。
——— 二〇二一『日本統治時代台湾の築港・人材育成事業』晃洋書房。
越沢明 一九八七「台北の都市計画、1895〜1945年——日本統治期台湾の都市計画」『第7回日本土木史研究発表会論文集』一二一−一三二。
楊平安・平野侃三 二〇〇一「高雄市の日本植民地時代における公園緑地計画の歴史的展開」『ランドスケープ研究』六四(五):四五一−四五六。



この連載は月2回の更新です。
次回は2023年12月15日( 木)に掲載予定です。
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