裏庭のまぼろし 石井美保

2023.12.15

14遠い島影(1)

 

 

it’s just around the corner

 

 実家にある何冊かの古いアルバムには、大小さまざまの写真が無造作に貼られている。写真館で撮られたと思しき写真もあるが、そのほとんどは祖父が蛇腹式のカメラで撮影したものだろう。和服姿の祖母が生垣のそばに佇んでいる写真。幼い母たち姉妹が野原で遊んでいるスナップ。家の前で撮影された家族の集合写真。
 そんな風に、家のまわりで撮影された写真が数多くある一方で、どこで撮られたのかわからない、異国の光景の写真もある。崖の下に延々と続く荒れた道を、馬に乗って行軍していく長い隊列。官舎の敷地らしい開けた場所で、サングラスをかけて自転車にまたがっている大叔父。大きなプールらしき場所で水に浸かり、同僚と肩を組んで笑っている大叔父……。どれもみな、彼が赴任していた海外の各地で撮影されたもののようだ。
 そんな古いアルバムのページの間に、どこかに貼られていたのが剝がれたらしい、一枚の写真が挟まれていた。それは大人数の家族の写真で、彼らの家の前で撮られたものらしく、背後には硝子のはまった格子戸が見える。
 最初に目にとまるのは、それぞれ縞柄と格子柄の着物を着た、姉妹のようにみえる二人の女性の姿だ。前列の中央には、一家の家長と思しき和服姿の中年の男性。その三人の間に挟まれて、それぞれ両隣の大人と肩を組むようにして、セーラー服を着たおかっぱの少女と半ズボン姿のいがぐり頭の少年が担ぎ上げられている。格子柄の女性の隣には洋装の少年が立ち、その後ろには彼とよく似た顔立ちの青年が、少年の肩に腕をまわしている。後列には眼鏡をかけた男性と、十代半ばくらいの少女の顔がのぞいている。
 子どもたちは弾けるような笑顔、大人たちもみな愉しそうな、いい笑顔で写っている。大叔父が撮影したのだろうか。「ほら集まって、写しますよ、三、二、一」という大叔父の声、真ん中のお父さんが「そうらいくぞ、ヨイショ」と子どもたちを担ぎ上げ、みんなが笑い声をあげる、そんな賑やかな雰囲気が伝わってくる。
 写真の裏を返すと、大叔父の筆跡と思われる字でこう書いてある。

  「明朗なる人々の家庭 台.楠梓(なんし)の塚本一家
 信子 洋子ノ可愛イ坊主たち」


 台湾に赴任していた大叔父が当地から文子さんに送った手紙のうち、楠梓の住所が記されている手紙は一通だけだ。その日付は一九四一年十一月二十七日、住所は「台湾高雄州岡山郡楠梓庄大字楠梓二九〇」とある。この写真は、その頃に撮影されたものらしい。「信子 洋子」とあるのはきっと、和服姿の姉妹のことだろう。敬称もつけずに下の名前を記しているということは、ひょっとすると親戚の一家か何かだったのだろうか。
 大叔父が台湾から大阪の実家に送った手紙は、やはり一九四一年の十一月半ばに台北から出された一通だけしか残っておらず、そこにもこの一家のことは何ひとつ触れられていない。この人たちはいつから楠梓にいて、そこで何をしていたのだろう。そして、大叔父とはどんな関係にあったのだろうか。
 日本統治時代、楠梓のある岡山郡はサトウキビの栽培で栄えていた。一九三九年の末には岡山に民間用の空港が開業したが、それはほどなく海軍航空隊の使用する軍用飛行場に転用される。この飛行場の隣には、当時台湾で最大とされた第六十一海軍航空廠があった。大叔父が当地を訪れたのはおそらく、この飛行場に用があったからだろう。
 彼自身は一九四一年の末に台湾を離れて次の任地へ向かったが、その後、一九四四年十月半ばに発生した台湾沖航空戦の最中にこの飛行場は米軍による空爆を受け、さらに一九四五年の四月末に至るまで、岡山は幾度となく激しい爆撃に曝された1
 この家の人たちは、当地を襲った空爆を逃げのびることができたのだろうか。四年後に日本が敗戦を迎えた後、この家族はどうなったのだろう。

 大叔父が写真に収めたのは、当時日本の植民地だった台湾に移住した一家の暮らしのひとコマだ。だが言うまでもなく、この一家の暮らしていた楠梓や、大叔父の寄留していた台北や台南や高雄を含めてこの島のあらゆる土地にあったのは、台湾を故郷とする人びとの生活だった。この島に滞在していた間、大叔父が目にしていたはずのそうした人びとの暮らしは、でも彼の手紙にはほとんど出てこない。
 台南から台北へ向かう列車の窓から景色を眺める。嘉義。雲林。彰化。駅ごとに現れては過ぎ去っていく町並み、白っぽく光る帯のような川、どこまでも平坦につづく水田。大叔父が滞在していた頃、この土地の人たちはどんな風に暮らし、何を経験していたのか。

 私は台湾の台南県で生まれたんです。しかしね、台南県に住んだことはありません。父が電力公司、昔の電灯会社に勤めていたので、大体いまの雲林県……中部の雲林はわかりますか? あそこで幼い時を過ごしました。〔…〕昭和八年生まれで、昭和二十年に第二次世界大戦が終結したんです。だから、十二歳までずっと日本人でした2

 新北市の閑静な住宅街にある自宅で私を出迎えてくれた蔡(さい)阿李(あり)さんは、おかっぱにした白髪の美しい、小柄な老婦人だ。阿李さんは一九三三年に台南で生まれ、日本統治時代は公学校の二年生まで雲林県の西螺(せいら)に、三年生からは北港に家族と暮らしていた。

 日本時代はね、日本人の子どもたちは小学校。で、台湾の子どもたちは公学校。台湾でも小学校に入れる人は、国語常用家庭とか、改姓名をした人の家庭の子どもは小学校に行っています3。私は公学校に行きました。〔…〕そこの街長(がいちょう)(町長)が父といい友達で〔…〕それで街長が父に、「改姓名しなさい。そうしたらきみこ(阿李さんのこと)を小学校に入らせる」って。うちの親父は頑として改姓名をしないんですよ。私には兄が一人いますが、うちの兄さんも、「改姓名しようよ、改姓名しようよ」って4。それで、ちゃんと「斎藤きみ子」って改姓名するって父に言ったんですけれども、父は改姓名しないと。だからそのまま公学校に行きました。

 日本統治時代の思い出として阿李さんが語ってくれたことの多くは、当時、彼女が暮らしていた西螺と北港の公学校でのエピソードだ。

 私の公学校の先生は、ずっと終戦までみんな日本人でした。みんな女の先生です。とても可愛がってくれましたよ。私は小さい時にわりと成績もよかったし、母がとても清潔好きで、毎日きれいに靴をきちんとしていたから、先生にも可愛がられました。二年生の時が、〔皇紀〕二千六百(一九四〇)年かな。

 ——何か式典がありましたか。

 紀元二千六百年の時は西螺におりました。「〽 紀元は二千六百年~」という歌があるんです5。今はただ、この一句だけを覚えてる。運動場で旗を持って踊りをしたんですよ。……
 私は学校では日本語、家に帰ったら台湾語を使います。ずっと終戦まで私の環境は、日本人との接触がほとんどありません。〔…〕ただ、印象にあるのがね、大東亜戦争勃発後、政府が廃品回収しなさいと。それで、先生が日本人の宿舎に行って回収しなさいと命令したので、二、三人の友達と日本人の住宅地に行って廃品回収をしたんですよ。空き瓶とか空き缶とかね。そうしたら日本人の子どもが、「リヤカー、リヤカー」って、私なんかを追いかけて石を投げたんです。だから印象の中で、日本人の子どもは好かないね。どうして台湾人を「リヤカー、リヤカー」って言って軽蔑しているのか。

 阿李さんは一九四一年、公学校三年生になる年に家族で北港に転居した。この年の十二月にアジア・太平洋戦争が始まると、戦争は次第に彼女の生活にも影を落とすようになる。

(つづく)



1 台湾沖航空戦とは、一九四四年十月十二日から十六日、台湾を空爆した米軍の機動部隊と日本の基地航空部隊との間で展開した航空戦を指す。高雄州岡山の軍用飛行場については下記を参照のこと。「日治時期的高雄飛行場與太平洋戰爭」https://showwe.tw/choice/choice.aspx?c=201(二〇二三年十一月十六日閲覧)。
2 以下にその一部を紹介する蔡阿李さんの語りは、二〇二三年五月五日に新北市で行った日本語でのインタビューに基づいている。なお、この語りは当時の台湾の人びとの経験の一端を示すものではあるが、もとよりそれを代表するものではない。洪(二〇二一)は日本統治期における台湾人の経験を分析する上で、台湾の日本語話者による語りやテクストの特殊性を指摘するとともに、階層(特に教育機会の有無)、世代、ジェンダーによる人びとの経験の差異に注意すべきであると述べている。
3 台湾では一九三六年末から皇民化運動が実施され、その一環として国語常用運動や改姓名が進められた。国語常用家庭とは、当時、日本語の使用や家庭環境に関して「日本国民としての基準に達している」と政府に認定された台湾人家庭に付与された称号である。また、台湾の人びとの名前を日本風の姓名に改名させる改姓名は、紀元二千六百(一九四〇)年の紀元節の際に打ち出された。台湾における皇民化政策とその経緯については駒込(一九九六)、植野(二〇〇七)、周(二〇一三:一八一−一九四)、藤森(二〇一六)参照。
4 阿李さんによれば、当時は台湾人が中学校を受験する際、改姓名をしていれば口頭試問で有利になると言われていたため、受験を控えた阿李さんの兄は改姓名をしてくれるよう父に訴えたとのことだった。
5 ここで阿李さんが言及しているのは、皇紀二千六百年を祝して一九四〇年に作曲された奉祝国民歌『紀元二千六百年』のことである。この歌については下記を参照のこと。「世界の民謡・童謡」ウェブサイトhttps://www.worldfolksong.com/songbook/japan/kigen-2600years.html(二〇二三年十二月四日閲覧)。


[参照文献]
植野弘子 二〇〇七「台湾における名前の日本化——日本統治下の「改姓名」と「内地式命名」」『アジア文化研究所研究年報』四二巻、九七−一〇八頁。
洪郁如 二〇二一『誰の日本時代——ジェンダー・階層・帝国の台湾史』法政大学出版局。
駒込武 一九九六『植民地帝国日本の文化統合』岩波書店。
周婉窈 二〇一三『増補版 図説 台湾の歴史』濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴・中村平訳、平凡社。
藤森智子 二〇一六『日本統治下台湾の「国語」普及運動——国語講習所の成立とその影響』慶應義塾大学出版会。




この連載は月2回の更新です。
次回は2024年1月1日(月)に掲載予定です。
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