裏庭のまぼろし 石井美保

2024.1.1

15遠い島影(2)

 

 

treasure


 四年生まではよかったんです。〔…〕だけど、おそらく四年生の時〔一九四三年〕か、あれは何年の時か……満州から軍隊が台湾に移転してきたのね。そうして校舎は兵隊さんがみんな住んで、私たちは学校に行けなくなった。それで私たちは林間教育と言って、森の中……森と言っても神社の後ろの森の中で、なにか小さい腰かけとかを持っていって座って、そこで勉強した。空襲警報が鳴ったら、防空壕に避難したの。

 戦局が押し詰まるにつれて米や砂糖なども配給制となり、食料不足の中で「ほとんど落花生ばかり食べていた」という阿李さんは、いつもお腹を空かせていた。

 お米は配給ですよ。しかも、あれはみんな玄米ですよ。玄米をただ……とにかく玄米。土色をした、あれ。炊き方によるね。最初はもう、とってもまずかった思い出が。だから空襲時代は苦しかったね。食べものも十分にないし、おやつなんて何もない。〔…〕
 印象に残っていたことは、日本政府ね……戦争の末期、兵器をつくるのに金属が欠乏しているでしょう。だから献金の名目で民間の黄金をできるかぎり巻き上げたよ。家の女たちの指輪、耳輪、何から〔何まで〕、みんな献金の名目で巻き上げられた。のちには窓硝子の鉄格子まで、みんな取られてしまったよ。〔…〕女の人が自分の飾り物をみんな出さないと、見つかったら処罰される。みんな怖いでしょう。で、出すの。とても出したくないけれど、処罰されるのが怖いからみんな最後は出してしまって。〔…〕

 そうした戦時下の強権的な命令や処罰に加えて、日本人と台湾人の間には、日常的に多くの差別や不平等が存在していた。なかでも当時、子どもだった阿李さんが鋭敏に感じとっていたのは、教育における差別と食料の配給をめぐる不平等である。

 学校に入る時に、第一に日本人は小学校、台湾人は公学校。あと台湾人で日本の小学校に入れるのは、国語常用家庭とか、改姓名して小学校に行きたい人は申請して行ける。教育からして不公平だしね。とくに戦争中は物資が配給制度になっているでしょう。私はまだ子どもだったから、一体どんな配給制度だったかわからないけれど、日本人に配給するのと台湾人に配給するのは平等でない。〔…〕台湾人にはやっぱり少なめにあげているか、〔…〕とにかく日本人には特別待遇がある。

 そして一九四四年頃になると、阿李さんの暮らしていた北港の町も米軍の空爆に見舞われるようになった。

 一九四四年……空襲が頻繁になったよ。毎朝米軍の爆撃が九時から。だから空襲警報も朝の九時から鳴る。そうしたらみんな防空壕に退避する。最初はみんな、米軍のはただ軍事要塞とか工場とか、重要な所だけ爆撃しているでしょう。民間は爆撃してない。だからみんな怖がらずに空を見上げて飛行機を数えてたんですよ。特にボーイング。B-29かね。ボーイングを数えてたのよ。私なんか防空壕の外で、「おー、何機、何機」って。それでそのあと爆撃されてから、焼夷弾を落とされたの、民間に。ああ……怖かったね。

 ——北港にも焼夷弾が落ちたんですか。

 ええ。終戦前あたりに民間にも爆撃して。北港という所には製糖会社がある1。以前は製糖会社だけ爆撃されると思ってたけど、その後そうでもない。民間にも焼夷弾を落とされたよ。そして機関銃掃射。……私もある日小説を読みふけってたら、空襲警報が鳴ったと同時にキャンキャンキャンキャンって、あの爆撃の知らせが。掃射知らせの、カンカンカンの鐘が鳴った。早く二階から飛び降りて、風呂場に隠れた。もしすぐに二階から離れなかったら——あとで見たら二階の壁に爆弾、人差し指の大きさの爆弾が入ってた。私がもし逃げなかったら、おそらくあの爆弾に当たってしまってる。怖かった。……

 そんな風に阿李さんの子ども時代は、日本人からの差別や戦時中の食料不足、米軍による空襲の恐怖に曝されていたという点において、決して平穏なものではなかった。
 その一方で彼女は、公学校での楽しかった思い出についても多くを語っている。利発でお茶目な少女だったらしい阿李さんは、公学校の先生たちに可愛がられていたようだ。なかでも彼女に目をかけてくれたのは、堀先生という女性の教員だった。堀先生は若くして結核に罹患したが、阿李さんは闘病中の先生を見舞い、彼女が亡くなった後も度々その家族の元を訪れていたという。

 私が三年生の時のあの先生。さっき言ったでしょう、肺結核で台湾で死んだの。未婚者よ。堀先生といって、とっても優しい先生なの。四年生になっても五年生になっても終戦後でも、私、あの先生の家に行くのよ。お参りに……。
 〔終戦後〕私が女学校一年生の時に、割烹のレッスンがあるでしょう。それでドーナツを作ったの。そのドーナツを家に持っていって、堀先生のお参りをしたの。そうしたら堀先生のお母さんがね、日本に撤退する前に私の家にたくさんの生菓子を買ってきて、私の父に、「阿李さんはとてもいい子だ」って。とても感情があって、〔亡くなったのは〕もう何年も前だというのにまだ先生のお参りに来るし、割烹のドーナツを持ってきて〔くれて〕とてもありがたい。幸せを祈っておりますって、和菓子をたくさん持ってきてくれた。
 その先生は、台湾にお墓があると思うけど、どこにあるか私もわからない。〔家族が日本に〕帰るとき、おそらく誰かに壊されてしまっているかもしれない。……

 続けて阿李さんは、仲良しの友達と一緒に先生の宿舎に泊まったことや、鼓笛隊の演奏を褒められたことなど、公学校の先生たちとの思い出を生き生きと語っている。
 だが、日本が戦争に敗れた一九四五年の夏以降、劇変した社会状況の中で、そうした教師たちと阿李さんとの交流も断ち切られた。

 ——その先生方は戦争が終わったらどうなったんですか。みんな日本に帰った?

 戦争が終わった時、日本人は可哀想よ。家のものをみんな売り払った。道端でね、家具とかお皿とか着物とか、持って帰れないものをみんな売らないと。〔日本に〕帰る時に規定されてるの、どれだけのお金、どれだけのものを持って帰れるか。それで終戦後、日本人は職もないし、お金儲けできないでしょう。みんな蓄えを使っているでしょう。お金がない。
 〔…〕家財道具、みんな安売りよ。そして売り払った後には何もないから、ぜんざい作って売ってる。ああ……そして教え子に出会ったら、とても恥ずかしそうな、頭を上げられないような表情で。あのときは、本当に私の先生は……私は先生が家具を売っているのに出会わなくてよかった。でないと一体、どういう風に慰めたらいいかわからない。本当に惨めだったね。日本にもまだ帰れないし。お金はもう使って使って、収入がないでしょう。終戦後からずっと2

 ——その辺の道端で売ってたんですか。

 道端で。道端といっても、もちろん彼らの住宅街の道端。あのとき、私なんかは子どもだったけど、やっぱり各家をまわって、好きなものがあったら買ってたよ。お茶碗とかコップとか、お人形とかね。……あのとき、本当に日本人は惨めだったね。可哀想だった。国が滅びると国民は不幸だ。

 文子さんに宛てた手紙の中で、新しく建設されていく台湾の街を大叔父が称賛していた一九四一年からわずか四年後。日本の一部として激しい空爆に曝された台湾の各地は焼け野原となり、そして日本の敗戦によって、台湾は植民地支配から解放された。
 「明朗なる人々の家庭」と大叔父の記した、あの楠梓の一家もまた、焼け跡の中で敗戦を迎えたかもしれない。彼らもまた、道端で家財道具を売り払い、着の身着のままで台湾を後にしたのだろうか。

 戦争が終わった時、日本人は可哀想よ。……国が滅びると国民は不幸だ。

 自分たちを支配し、差別していた日本人の没落について、阿李さんはそんな風に語っている。
 帝国から亡国へ。被支配から解放へ。植民者と被植民者の運命を分けたその変転を、みずからの故郷である台湾で、阿李さんは家族とともに生き延びた3。一方、軍人として台湾に寄留し、無邪気な植民者の目で当地の風物を見ていただろう大叔父は、この島を去った後に同じ変転の渦に巻き込まれたまま、二度と戻ってはこなかった。

 「台ワン位はあついとは言えない 文子チャンだってきっと好きになるぞ……」

 そう書いたとき、大叔父はいつか彼女と一緒に台湾に来る日を夢見ていたのだろう。けれども、そんな日は来なかった。戦後、文子さんが一人で台湾を訪れたことがあったのかどうか、私は知らない。



1 一九一〇(明治四十三)年、鈴木商店によって北港に「北港製糖」が建設された。一九一五(大正四)年、北港製糖は東洋製糖と合併し、一九三〇年に東洋製糖は大日本製糖に吸収された。辻原・青井・恩田(二〇二一)、鈴木商店記念館http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/area/taiwan_midwestern/post-290.php参照。
2 敗戦後の在台日本人の生活と台湾からの引揚については船橋編(二〇一二)参照。加藤(二〇二〇:八五)によれば、在台日本人の引揚は大きく三期に分けて行われた。第一期は一九四六年三月一日から四月末まで、第二期は十月十九日から十二月二十八日まで、第三期は一九四七年四月初旬から五月三日までであり、第三期までにほとんどの日本人が台湾から引揚げた。
3 だが、阿李さんの困苦がこれで終わったわけではなかった。彼女はその後、国民党政権による苛烈な政治弾圧である白色テロ(周 二〇一三:二二三−二三〇参照)の下で、長い苦難の年月を過ごすことになる。


[参照文献]
加藤聖文 二〇二〇『海外引揚の研究——忘却された「大日本帝国」』岩波書店。
周婉窈 二〇一三『増補版 図説 台湾の歴史』濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴・中村平訳、平凡社。
辻原万規彦・青井哲人・恩田重直 二〇二一「台湾濁水溪南岸における製糖工場の建設と地域開発」『日本建築学会九州支部研究報告』第六〇号、五五七−五六〇頁。
船橋治編 二〇一二(一九八二)『編集復刻版 台湾引揚者関係資料集 付録1 台湾引揚史』不二出版。



この連載は月2回の更新です。
次回は2024年1月15日(日)に掲載予定です。
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