裏庭のまぼろし 石井美保

2024.1.15

16月と海鳴り(1)

 

 

 

 

 十月空襲。この島はイモがいっぱいあったら、食べ切れなかったらイモをきれいに洗って、薄く刻んでから、ピサ浜っていうところにきれいな石があるわけ。なめらかなきれいな石があるの。潮で洗い流されてるからいつもきれいなわけさ。〔…〕このイモを干してから、また炊いたらおいしいわけよ。刻んだ人が〔イモを干す〕場所取りに行ったら三機、三機、三機、三機、もう点がいっぱい来るわけ。今日の飛行機は何かなと。あれが十月十日の空襲。あれが戦争の始まりでさ。
 今日の飛行機は何かなとばっかり思ってるわけさ。あんなおっきい戦争起こるとわからんでしょう。もう点のいっぱいいっぱい、三機、三機、三機、三機〔…〕今日の飛行機は何かなと思っておうちに帰ってきたらもう那覇は大空襲。十月十日の十・十空襲。あれが戦争の始まり。あれから那覇は丸焼け。

 一家の営む商店の帳場の奥にある座敷で、ヒデ子さんは時々方言を交えながら、早口で歌うように語ってくれる。同じフレーズを何回も繰り返し、話はぐるぐると循環する。話されていることがヒデ子さんの体験なのか、誰かほかの人の経験なのかも判然としない。それはすでに、この島で生まれ育った人たちの集合的な記憶の一部になっているのかもしれない。まもなく百歳になるヒデ子さんの語りは、どこか神話めいている1
 
 ヒデ子さんは一九二三(大正十二)年に沖縄県の久高島(くだかじま)に生まれ、小学校を出てすぐに那覇に出て、子守兼店番として親戚の家に住み込んでいた。
 一九四四年十月十日、沖縄本島は米軍による激しい空襲に見舞われる2。十・十空襲として知られるこの大空襲のあった当時、ヒデ子さんは那覇からいったん久高島に戻っていたようだ。島の浜辺から、編隊をなして飛んでいく飛行機を見送ったヒデ子さんは、ほどなくしてそれが那覇を爆撃する敵機の群れだったことを知る。空襲の後、ヒデ子さんは奉公先の従姉に呼ばれて那覇に戻り、家のあった場所を探して焼け跡を歩きまわった。

 今日の飛行機は何かねと思っておうち来たら、もう那覇は大空襲。火も見えよったよ、島から。那覇は全滅。〔…〕私たちがいた〔那覇の〕おうちも焼け野原だけわからんさ。東町がどこ、西町がどこもわからんから、手紙が来たわけで、姉さんから。わったーがいた場所を探しに行くからおいでって姉さんから手紙来て、安座真あざま)〔港〕で待ってるわけさ。それから安座真に姉さん待っていたから行ったら、もう那覇は全滅だ。焼けて何ひとつもないから、少し歩いて行っても、どの辺、またまた歩いて行って、もう全然わからない。自分がいた店も全然わからない。もう焼け野原だから一軒もないのに……。

 一九四一年の秋に台湾の楠梓(なんし)で大叔父の撮った写真には、朗らかな家族の様子が写されていた。それから三年後の一九四四年十月中旬、彼らの住んでいた高雄州岡山郡は、米軍による激しい爆撃に曝される。塚本家の人びとを火炎の海に吞み込んだかもしれない岡山への空爆と、ヒデ子さんたちの家を跡形もなく焼き払った十・十空襲。それらは互いに無関係な爆撃だったのではなく、米軍にとってはひとつの作戦の一部だった3
 だがそんなことは、それぞれの土地に暮らしていた人たちにとっては知る由もないことだ。チェスの盤のように、広大な地理的空間に戦線という名のラインが引かれ、チェスの駒のように配置された部隊の間で陣地をめぐる攻防が繰り広げられるとき、その土地に住む人びとの存在は捨象され、あるいは攻撃対象としての人口へと変換される。けれども一度地上に降り立ったなら、そこにあるのは等身大の人びとの暮らしだ。
 台湾の北港で、十一歳の少女だった阿李さんは上空を飛ぶボーイングの機影を数えていた。久高島の浜辺で、二十一歳のヒデ子さんは那覇方面へ飛んでいく爆撃機の群れを見つめていた。
 それぞれの場所で、彼女たちは空を見上げていた。帝国と呼ばれていた地理的領域の周縁で、何が起ころうとしているのか知る由もなく。

 陸軍士官だった大叔父の、最後の任地は沖縄だった。
 一九四一年の末に台湾の高雄港を出帆した彼は、南シナ海を南下して南洋の戦地へ向かった。一九四二年の一月以降、フィリピン、ジャワ、ティモールを転々としたのち、一九四三年の六月に陸軍学校の教官を任ぜられて隊を離れ、スラバヤとマニラを経由して東京へ帰還している。その年の末に青山の陸軍大学校に入学し、翌一九四四年の六月に文子さんと結婚。同年の十二月に陸大を卒業し、年が明けてすぐに沖縄に赴任している。
 台湾から南洋の島々を経て、沖縄へ。そうした大叔父の転戦の軌跡はそのまま、帝国の前線の一部をなぞっている。何が起こっているのかもわからないままに機影を見上げていた少女たちとは異なり、大叔父は戦況を知る立場にあった。軍人として作戦を遂行するために、彼は広大な地理的空間を俯瞰する視座を身につけていたはずだ。
 けれども後に残された彼の手紙からは、そうした軍人としてのまなざしはほとんどみえてこない。手紙から浮かびあがってくるのは、家で待つ文子さんの身を案じ、彼女の生活のあれこれに気を配る、夫であり恋人としての大叔父の姿だ。
 一九四五年一月二日、新たな任地である沖縄に到着した大叔父は、「現地第一報」として文子さんへの最初の手紙をしたためている。

現地第一報
 二日十一時半頃無事目的地につきました。話にきいていた町の情況は話のままで当時の状況が目にうつる様でした。〔…〕
 こちらは丁度内地の五、六月頃の気候で朝夕は少し冷えますが日中はとてもあたたかです きていたジャケツもこちらの飛行場でぬぎすてる位でした。
 食べ物も心配していた程の事もなく 毎日内地では食べられぬアメ玉や肉等を戴いています この分では少しいると太るなどと思っています〔…〕
 初めての出征で文子はさぞ淋しく思っている事でしょう
 だが軍人としては出征は本望 それに将来幾回となくある事だから今の内から練習をして居く必要がある
 三十一日 三十一日と思い乍らいつのまにか去って了(しま)って何一つ改(あらたま)って言う事なく過して了いましたが……
 一番心配で一番楽たのしみ)にしている事は何と言っても子供の事です この手紙がつく頃には大体目鼻がついている事と存じます
 どうか十分に気をつけて立派な私の第二世を生んで下さい それのみが今の私にとっての希望です〔…〕

 この手紙の中で、大叔父が「話にきいていた町の情況」と書いているのはおそらく、前年に那覇を襲った十・十空襲の被害のことだろう。一九四四年の暮れから文子さんは大阪にある夫の実家に疎開しており、年が明けて夫が出征したのちも、婚家の家族とともに大阪の家に暮らしていた。そしてこのとき、文子さんは第一子を懐妊していた。
 多忙を極める仕事の合間を縫って、大叔父はできるかぎり頻繁に文子さんに手紙を書いていたようだ。沖縄からの第一報の書かれた一月五日から、最後の手紙の日付である三月十二日までに出された手紙は七通。彼がかつて、その時々の任地や演習先から彼女に送っていた幾多の手紙と同じように、これらの手紙の中で大叔父は常に文子さんの様子を気遣い、努めて明るい調子で自分の身のまわりのことを知らせている。それでもなお、これらの手紙の底に隠しようもなく漂っているのは、言い知れない暗さと息苦しくなるような不安感だ。

 二月十五日、十七日附の便 及および) 一月三十日附の荷物 二月二十四日に確かに受けとりました〔…〕早速返事と思い乍ら つい今日三月三日迄延び延びに成って了いました 悪しからず
 益々太って来たとは仲々結構です
 文子の事この頃は努めて考えぬ様にしています
 この前戦地に行っていた時は楽しみにして努めて考える様にしていましたが 今度は考えると苦しくなる許(ばか)りですので……
 気の弱い兄貴を笑うべからず その内に甘いお砂糖が行くことだろうからそれでカンベンして下さい お砂糖を四kg許りこの前飛行機で送りましたから……〔…〕

 大阪の方の空襲はどうですか、内地の方も大変でしょう この前のこちらの空襲は大した事はありませんでした
 朝 空襲警報がなって防空壕の方へ行く途中 森の中を通っていますと小型爆弾が身辺に七発許り落ちて来て木の枝で破裂をして自分の身体を包む様に煙が出ましたが お蔭で傷一つ受けずに大丈夫でした あとからきいて見ると味方の機関砲弾だったそうです
 こんなことがあるから空襲の時には絶対に外にボット立っていない様にして下さい それからこれから段々と暖(あたたか)くなりますので心配はないと思いますが腰を冷やさぬ様にね……
                                (一九四五年三月三日)

 〔…〕成る可く家の事を考えぬ様にしているものの 夜床に入るとやっぱり思い出します 殊にこちらはノミが多いので早いねむりに入れぬせいか 毎夜の様に夢を見て仕方がありませぬ
 毎日お茶を運んで来てくれる女の子が文子になって見たりして中々こみ入った夢を見ますよ 呵々(かか)……
 それから文子!! 文子もあまり考えるといけない 前の様な気持〔…〕で毎日を送る様に 戦局の事についてはあまり考えるな
 信ずる夫が心身を擲(なげう)って戦局打開に働いていることを神かけて信ずるのみ〔…〕
                       (一九四五年二月十三日)

 一九四五年の一月に大叔父が沖縄に赴任したとき、現地の日本軍はフィリピンと台湾への部隊の抽出によって兵力の三分の一近くを失い、すでに困難な状況に陥っていた4。そうした中、三月二十三日に米軍の機動部隊が沖縄諸島に大規模な空爆を開始する。その三日後、米軍は慶良間(けらま)諸島に上陸。つづく四月一日には沖縄本島に上陸し、地上戦が始まった。米軍による猛攻が続く中、首里を拠点としていた沖縄守備軍(第三十二軍)司令部は五月末、南部の摩文仁(まぶに)高地へと撤退する5
 音信の途絶えた三月半ば以降に大叔父がどんな生活を送っていたのか、彼の身に何が起こったのか、はっきりとしたことはわからない。ただ、たとえあと何通かの手紙が残されていたとしても、戦地で書かれた書簡からわかることは限られていただろう。
 大叔父の手紙の背後にあって、書かれなかった膨大な事実。周囲で起こっていたにもかかわらず、彼の目には入らなかった幾多の出来事。それらは底のない穴のような、巨大な欠落として残されている。彼の手紙から、たとえば当時の軍の行動や判断の背景を窺い知ることはできない。あるいはまた、戦場となった沖縄に生きていた人びとが、当時どのような暮らしを強いられ、軍の存在と行動によって、どのような被害を蒙ることになったのかも。


(つづく)



1 本章に登場する語りは、二〇二二年九月二十六日、久高島にて行った内間ヒデ子さんへの聞き取りに基づいている。
2 一九四四年十月十日、早朝から午後四時頃までおよそ九時間にわたり、那覇市を中心として沖縄本島は米機動部隊の艦上機延べ一四〇〇機による激しい攻撃を受けた。この空襲によって那覇市では一万一四五〇戸の家屋が全壊もしくは焼失し、死傷者は一四〇〇名以上にのぼった。防衛庁防衛研修所戦史室[一九六八:一一五−一二八]、八原[二〇一五(一九七二):五九−六七]、沖縄県教育庁文化財課史料編集班[二〇一七:四五]参照。
3 一九四四年の七月から八月に西太平洋のマリアナ諸島が陥落し、日本の絶対国防圏の一角が崩壊した。次の攻撃目標であるフィリピン・レイテ島への上陸作戦に先立ち、同年の十月十日から十四日にかけて、米軍の空母機動部隊は沖縄と台湾、フィリピン北部の日本軍航空基地を空爆した。防衛庁防衛研修所戦史室[一九六八:一二八−一三〇、一九七〇:二〇〇−二一三、二二九−二三一]、久手堅[二〇〇四]、沖縄県教育庁文化財課史料編集班[二〇一七:三〇−三一]参照。
4 一九四四年十月十七日に米軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、翌十八日に大本営は捷(しょう)一号作戦の発動を決定し、「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」との大命を発令した。これに伴い、一九四四年十一月に沖縄から中迫撃第五、第六大隊がフィリピン方面に抽出された。また、台湾から第十師団がフィリピンに投入されるに伴い、同年十二月から翌一九四五年の一月にかけては最精鋭部隊である第九師団が沖縄から台湾に抽出され、沖縄守備軍は兵力の三分の一近くを失った。防衛庁防衛研修所戦史室[一九六八:一三一−一三五]、八原[二〇一五:七二−七九]、沖縄県教育庁文化財課史料編集班[二〇一七:三二−三六]参照。
5 沖縄県教育庁文化財課史料編集班[二〇一七:四七−五五]参照。


[参照文献]
沖縄県教育庁文化財課史料編集班 二〇一七『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』沖縄県教育委員会。
久手堅憲俊 二〇〇四「第三章 第二節『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山」読谷村史編集委員会『読谷村史 第五巻資料編4 戦時記録 下巻』読谷村。
https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05b/index.htm(二〇二三年六月八日閲覧)。
防衛庁防衛研修所戦史室 一九六八『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社。
——— 一九七〇『戦史叢書 沖縄・台湾・硫黄島方面 陸軍航空作戦』朝雲新聞社。
八原博通 二〇一五『沖縄決戦——高級参謀の手記』中公文庫(一九七二 読売新聞社)。




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次回は2024年2月1日(木)に掲載予定です。
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