裏庭のまぼろし 石井美保

2024.2.1

17月と海鳴り(2)

 

BUT WE KNEW WHERE IT WAS

 

 一九四五年の初春。大叔父が大阪の家を出立し、新たな任地である沖縄に到着した頃、八歳の少女だった徳田ユキさんは、沖縄本島南部の玉城村(たまぐすくそん)にある前川集落に家族とともに暮らしていた。その頃の暮らしについて、ユキさんはつぎのように回想している1

 ほんと言うたらね、二年生に上がって、もう二年からはね、勉強どころでなかったよ。しょっちゅう「空襲が来るよ」して訓練だったんだはず。サイレンが鳴るわけ。そしたら、その学校から、道には歩かんよ。みんなモーヌミー(森の中)に。もう道に歩いたら、もし見られたらやられるかと思って……。みんなカヤの中とか山の中に。それからあれしておうちに、また自分たちの壕に行くわけ。

 ——家に帰らず?

 家にも帰らないで。もう壕を準備しているんだからさ。そんなにしてやっていたのに、もう戦争が始まる前になったら、もう壕もジョートーゴーサー(上等な壕は)兵隊にクントゥラティ(奪われて)、みんな逃げてよ。

 やがて空襲が激しくなってくると、ユキさんたち一家は家の近所の壕を離れて雄樋(ゆうひ)川のそばの防空壕に避難することになった。そこでは多くの家族が、崖の中腹に掘られた狭い横穴に隠れて避難生活を送っていた2

 夕方なったら、トンボグヮといって偵察機であるわけ。これは弾も撃たない、何もしないから、みんなすぐ「これは何もしないよ」と言って、また壕から出て、野菜採ったり、食べもの探しにみんな出よったわけ。あれは偵察やってる、いま考えたら。人がどこに住んでいるか、どんな状況か調べてたはず、いま考えたらね。それを「このトンボグヮは何もしないし」ってみんな畑にすぐ野菜採り、食べもの取りに、こんなだった、夕方なったら。自分の頭の上からブーブー飛んでもへっちゃらさ。何もしないもんだから。

 ——その偵察機が来た後に爆撃機が来るわけですか。

 〔…〕夕方はあんまり弾来なかったよ。昼だったら弾バンバンやっていたかもしれんけど、みんな夕方なって遅くからしか出て行かないから。昼は怖いから。〔偵察機は〕飛んであるいても、また何もしないんだから。あれたちは偵察して、どんな状況かねと調べて写真撮っていたんだはず。

 一九四五年六月初旬、いよいよ戦闘が身近に迫ってきたことを知ったユキさんたち家族は、近隣の人びととともに、より安全な場所を求めて前川の壕を出た。ちょうど梅雨時で雄樋川の水嵩は増しており、男性たちが大きな岩を川の中に転がして、それを足場にして皆がようやく川を渡ったという。ユキさんたちは大勢の避難民とともに南部の糸満を目指したが、その途中の真壁(まかべ)集落で、彼らの隠れていた家屋が米軍による爆撃を受ける。

 真壁まで行って、そこでおうちの屋敷の中に防空壕があったわけ。そこに隠れているのを、近くで爆弾が落ちたんでしょう。妹はすぐそこに破片がぶち込まれて即死。お兄さんは脚にこうして〔破片が〕貫通してたよ。
 〔爆撃される直前〕よその人がそこ〔壕〕に入り込んできて、もう身動きもできないから、妹はわあわあ泣いて。私の妹だからまだ五、六歳しかならなかったはずよね。「母さんのところに行きたい、行きたい」して泣くけど、もう身動きもできないんだから〔…〕「もう我慢しておきなさい」って言ってる間に破片が飛んできてやられてね、そこですぐ即死だったよ、妹は。……

 この爆撃でユキさんの妹が亡くなり、兄は腿に重傷を負った。苛烈な爆撃の中で真壁に留まっていることもできず、ユキさんたち一家は妹の亡骸を置いて、再び出発せざるを得なかった。

 妹が死んだもんだから、これをもうそこで寝かして、毛布かぶせて寝かせてからみんな出て、外に出ていたわけ。そして、そこの山の中で何日か暮らしているのを、だんだん〔爆撃が〕激しくなってくるもんだから、ここからみんなまた喜屋武(きゃん)の方に。もう夜になったら、どこから出てくるかねと思うくらい、人がわっさいわっさいみんな出るわけ。〔…〕
 家族も一緒だけど、お父さんは怪我して、お母さんはまた弟をおんぶして、荷物も持って、私も荷物を持って。私はまたヒンジャニ(ひねくれ者)だから〔荷物を〕ぶん投げてよ、「アンネーノムンムリダ(あんなの無理だ)」と言って。米かなにか、とにかく炊いて食べるのだったはず。〔…〕重たいからあっちに捨ててきた。〔母親に〕叱られてさ。もう炊いてあげるのがないさーね。〔…〕〔母親が〕「アイエーナー、ケエモノモワカラン、ウッチャンゲッツチャンナ(食べものともわからんで、うっちゃってきたのか)」って言って。

 真壁を出たユキさん一家は、激しい爆撃の合間を縫って米須(こめす)方面へ向かった。このときユキさんの父は負傷しており、母が幼い弟を背負い、途中で合流した親戚の男性が重傷を負ったユキさんの兄をおぶっていた。

高枝さん(ユキさんの長女):ここからまたここまで結構遠いんですよ、米須までね。

ユキさん:急須ば持ってね。

高枝さん:その道からみんな、負傷した人も。

ユキさん:水欲しいという時はあげると言って。

 米須の集落で彼らが避難していた家にも爆弾が落ち、一緒にいた知り合いの家族のほぼ全員が亡くなった。ユキさんたちはこの集落を出て喜屋武方面へ向かったが、その途中でユキさんと兄は両親とはぐれてしまう。

高枝さん:この〔親戚の〕おじさん、〔ユキさんの兄を〕おんぶしてから、ここで今度また「糸満に行こう」って言うからみんな出てるわけよね、喜屋武部落に向かって。そして、その途中で母と、おじさんと、脚をやられてる〔兄の〕三人と、このまた親たちと別れ別れになったみたい。ここから行く時に見失ってるわけ。
 そして見失って、結局このおじさんが途中でこの小屋グヮに、小屋に伯父さん〔ユキさんの兄〕を下ろして、母も置いていかれ……。自分だけ逃げてるわけさね。

——おじさんがお兄さんとユキさんを置いて?

ユキさん:私と兄さん置いてからに、自分はもう。

高枝さん:茅葺きのおうちにね。いなくなってたって。

 粗末な小屋に負傷した兄と二人で取り残されたユキさんは、小用を足すために小屋の外に出ようとして、周囲を取り囲んでいた米兵に遭遇する。

ユキさん:しっこしたいもんだから、〔…〕外に出たわけ。外出たら、アメリカーが鉄砲でこんなして、ずらっと並んでいるわけ、後ろに。アギジャビヨーと思ってびっくりして、そのままチャーハーエー(ずっと走って)逃げてなんよ。にいにいもうっちゃ投げて。〔…〕
 たぶんこの小屋、兵隊がいるかと〔疑われて〕燃やされたはずといって、いまは思うわけ。燃やさなければ、兄貴も生きていたはずなのに。たぶん、燃やされたんだはずね。いつもそれが悔しいわけ……。

高枝さん:自分だけ走って逃げて、逃げて、逃げてるわけ。

ユキさん:自分一人逃げてしまった。

 たった一人になったユキさんは、糸満へ向かう人びとの群れに流されるようにして歩きつづけた。その途中でユキさんは、たまたま出会った同郷のお婆さんから、はぐれた両親が自分を捜していたと聞かされる。

ユキさん:「親たちはあんたを捜して歩いていたのに」と言って、私は怒られたわけ。

高枝さん:〔両親は〕先に行ってから、もうやられたんじゃないかね。

ユキさん:自分一人生きてきてるさね。

 そしてユキさんがたどり着いたのは、喜屋武岬にほど近い岸壁の岩穴だった。逃げ場を失ったユキさんは、他の避難民たちとともに崖をつたって海岸に降り、東の方角に向かって海の中を歩きつづけた。

ユキさん:もう下はね、崖だから、逃げるところもないわけ。あとはもう夜が明けたらアメリカーが来ると思ってるから、アダニバーニカカジラッティ(アダンの葉にひっかかれながら)海の下に降りて。すぐ夜ね、その海の中を、東に東にしてさ。溺れたら、満月だから、溺れたら一緒に歩いてる人が〔海から〕引っ張り出すわけ。〔…〕

高枝さん:海にみんなポコンポコンって、もう最後はこっち〔崖の上〕からね、みんな飛び降りたりとかして死んでるじゃないですか。

ユキさん:たくさん。

高枝さん:高いところからね。

ユキさん:兵隊さんたちなんか、アイエー、その一晩生きておけば国に帰れよったねと思う。〔…〕パンパン手榴弾で。歌うたってよ。天皇陛下万歳、万歳してね。お父さんお母さん、さようならして。兵隊さんたち、もうチャッサガシジョウタラワカラン、ムルハンタ(どのくらい死んでたかわからん、崖っぷちで)。もう下は海であるわけ。もう逃げるところないんだから、そこまでだねと思って、あれたちも諦めてるわけ。どこにも行けないから。

 そして、「最後におにぎり食べた話して、母ちゃん」と高枝さんに促され、ユキさんは投降する前の晩に出会った二人の女性のことを、つぎのように語っている。

 あれはもうほんとに……不思議ね。お姉さんたち二人だったけど、私に、私一人がこんなにしてあれしてたら、「あんた一人か」と〔お姉さんたちが〕言ったら、「一人」と〔私が〕言ったら、「アイエーナー」と言ってよ、ご飯。
 「明日は殺されるか、生かしてくれるかわからないからね、食べておきなさい」と言って、おにぎりあげたお姉さんたちがいたわけ。「もう一緒に明日は捕虜になろうね。出て行こうね」と言って。「明日は殺されるか、生かされるかわからないよ」と言ってよ。この姉さん二人がよ。……
 あの時はほんとにもう……何も長い間、食べてないさね。とってもあれだったよ、アイエーナーと思うぐらい。これだけほんとに。親子だったか、きょうだいだったかもわからないけどさ、二人が。どこでこのおにぎりも作ってきたのか。「おにぎりよ、食べなさい」と言って。……「明日は殺されるか、生かされるかも。死ぬか生きるかだよ」と言って……。

 その翌日、ユキさんは大勢の避難民たちとともに海岸の岩陰からよろめき出て、米軍の捕虜となった3。米軍のトラックで当山(とうやま)の収容所に送られたユキさんは、そこで偶然出会った遠い親戚の女性に引き取られ、彼女とともにその後の生活を送ることになる。

 「明日は殺されるか、生かされるかも。死ぬか生きるかだよ」と言って……。

 おにぎりをくれた女性たちにかけられたというこの言葉を、ユキさんは目を伏せてゆっくりと、嚙みしめるように語っていた。幼い自分の見ていたそのときの光景を、ふたたび眼前に見ているかのように。

 ユキさんがいつ、家族と一緒に前川の壕を出て、いつ家族とはぐれ、たった一人で米須の海岸にたどり着いたのか、はっきりとしたことはわからない。ただ、彼女が海の中を歩きつづけた夜が満月だったとすれば、それはおそらく六月の二十六日頃のことだったと思われる。海岸線の彼方から、東の空に昇ってくる月。その光を道標にして、ユキさんたちは夜の海の中を歩きつづけたのだ。
 軍司令官の自決によって沖縄守備軍の指揮命令系統が崩壊し、軍による組織的抵抗が終わったとされるのは六月二十三日。だが、ユキさんがそうであったように、その後も多くの人びとが戦場を逃げまどい、犠牲者は増えつづけた4
 ユキさんの長女である高枝さんは、私を車で送ってくれる道すがら、自分の母の体験についてつぎのように語っている。

 六月二十三日が一応、慰霊の日じゃないですか、沖縄県は。その後にいっぱい死んだって言われてるから。……
 最後の日がね、海に飛び降りた日はとっても月がきれいな日だったって、うちの母が。満月だったんでしょうね。ほんとでも、月がきれいで、もうあっちこっちよく見えるような日だったって言ってましたよ。最後、自分がこの海で溺れそうになるのを、みんなと一緒に東に東に歩いた日は、お月様がとっても明るい日だったって……。

 故郷の村の古い墓地にある大叔父の墓碑には、昭和二十年六月十九日という命日が刻まれている。けれども彼がいつ、どこで息絶えたのかは誰にもわからない。
 月明かりの下でユキさんが海の中を歩きつづけた夜、ひょっとすると、彼はそこからそう遠くない場所に斃れていたのかもしれない。


(つづく)



1 以下に記載した語りの内容は、二〇二三年二月二十三日、沖縄県南城市前川にて行った徳田ユキさんと大城高枝さんとのインタビューに基づいている。
2 ユキさんが避難していたのは玉城村(現南城市)にある前川民間防空壕である。前川樋川(ひーじゃー)と呼ばれる湧水に近接した崖の中腹には住民たちの手で掘削された約六十基の防空壕群が並んでおり、一九四五年当時、そこには多くの住民が避難していた。戦時中の玉城村ならびに周辺村落の状況については、玉城村史編集委員会[二〇〇四]、『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会[二〇二〇]参照。また、前川民間壕については吉浜[二〇一七:一九五−一九七]、南城市役所ホームページ(https://www.city.nanjo.okinawa.jp/movie_library/movie_ja/1579046288/1579240168/)参照(二〇二三年十二月二十一日閲覧)。
3 ユキさんが捕虜になった場所は定かではないが、「崖を下りてから一晩中東に歩きつづけた」、「砂浜に米軍のトラックがたくさん停まっていた」というユキさんの記憶と付近の地形を照らし合わせると、おそらく米須海岸の辺りだったのではないかと高枝さんは推測している。
4 一九四五年六月二十三日(二十二日説もあり)、第三十二軍司令部の牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、日本軍による組織的戦闘は終結した。だが、その後も残存部隊が戦闘を継続し、米軍は掃討作戦を展開したため、兵士や住民の犠牲者は増えつづけた。沖縄において日米代表による降伏調印式が行われたのは、敗戦から半月以上が経った九月七日である。吉浜[二〇一九:二八−三一]参照。


[参照文献]
玉城村史編集委員会 二〇〇四『玉城村史 第六巻 戦時記録編』玉城村役場。
『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会 二〇二〇『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会。
吉浜忍 二〇一七『沖縄の戦争遺跡——〈記憶〉を未来につなげる』吉川弘文館。
———— 二〇一九「日米両軍の戦闘経過」吉浜忍・林博史・吉川由紀編『沖縄戦を知る事典——非体験世代が語り継ぐ』吉川弘文館、二八−三一頁。





この連載は月2回の更新です。
次回は2024年2月15日(木)に掲載予定です。
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