裏庭のまぼろし 石井美保

2024.3.1

19物語の外で(1)

 

Yes, sometimes

 


美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会う
ことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように
透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような
香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も
つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして
一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた1
            (花森安治「見よぼくら一銭五厘の旗」)


 晩年になって書かれた祖母の手記には、終戦の日のことが数行だけ綴られている。

 八月十五日の終戦の詔勅をラジオの前に正座して聞いたものです。赤ん坊を抱いた文子さんが、「日本は負けたんだワ——」と泣いた時は居並ぶ者一様に、只涙にむせぶばかりでした。それから家の者は余り喋ることなく黙々と、未来の不安を考え乍ら仕事に精出すばかりでした。

 その光景を、私はまるで自分の目で見ていたかのように想像することができる。文子さんと曾祖母は泣き崩れ、祖母も涙をこらえきれずに嗚咽し、曾祖父は茫然としたまま動かない。祖父は怒ったように座を立って、部屋から出て行っただろう。そのとき、すだれをかけた窓の外では油蟬がやかましく鳴いていたことだろう。
 そんな風に当時の光景をまざまざと思い浮かべることができるのは、あの夏の日のことが私の中で記憶として定着するほどに、それが国民の物語として繰り返し再生されてきたからだ。

また あの日が やってくる
あの日
大日本帝国が ほろびた日
もっと正確にいうと
大日本帝国が ほろびたはずの日
いまから 二十八年まえの
昭和二十年八月十五日2
            (花森安治「二十八年の日日を痛恨する歌」)

 一九四五年八月十五日、正午。玉音放送と終戦の詔勅。
 大日本帝国が崩壊していくそのとき、それでもなおそれは、滅びゆく帝国の臣民への呼びかけだった。それはまた、滅び去った帝国の残骸の中から再生すべき、新たな国民の物語の重要な一幕をなしてもいる。
 瓦解していく帝国の中にあって、そうした物語に同一化できなかった人たち。新たな国家の枠組みから除外されることになった人たちは、それではそのとき、何を経験していたのだろうか。

 窓際の古い籐椅子に長身を沈めて、廖運潘(りょううんぱ)さんは戦時中の体験を淡々と語りつづける。彼は一九二八年に台湾北部の桃園(とうえん)に生まれた。一九四五年三月、高等商業学校に入学したばかりの十七歳のときに彼は日本軍に召集され、終戦までの間、桃園郡の海岸地帯や七星(しちせい)郡の山地で、対戦車攻撃の訓練や塹壕掘りなどの労働に従事させられていた3
「学徒兵じゃない。学徒苦力(クーリー)だよ、あれはもう」

 一年生になった途端に徴兵に引っかかってね。当時は十八歳ですよ、数え年で。それはなぜかというと、フィリピンから今度は北上して日本へ攻め込むマッカーサーの軍隊は、台湾へ上陸するか、あるいは沖縄へ上陸するかわからない4。いずれにしてもここで食い止めなきゃいかんというわけで、食い止めるためにはまず、〔敵は〕必ず戦車で上がってくるからこの戦車をやっつけなくちゃいかんと。

 ——戦車ですか。

 我々は結局、戦車と戦うための訓練を受けた。沖縄は沖縄でそれでやっとった。ところが〔米軍が〕台湾に上がらなかったから、沖縄はひどい目に遭って。台湾はひどい目には遭っていないけど、いざ〔敵が〕来ないとなるとですね、この兵隊を持て余している。〔…〕だけど何かしなくちゃいかんというわけで、あちこちの飛行場の整備とか、それからトーチカを〔作る〕、そういった風に、要するにいつかは来るだろうということで、来なくてもとにかく何かやらなくちゃいかんということで、八月の十五日までそれをやった。

 一九四五年八月十五日。その日、廖さんはいつも通り、陣地構築作業のために宿営地の近くの山に出かけていた。

 僕は塹壕を掘っているときに——塹壕というのは高いところです、下の方は兵隊が通っている。「おい、そこの兵隊」と〔呼ばれた〕、自分も兵隊のくせに。「何ですか」と言ったら、「日本は負けたよ、もう掘るな」と。「本当ですか」と言ったら、「馬鹿、こんなことを噓つけるか。畏れ多くも天皇陛下が玉音放送で放送したぞ」と。〔…〕
 その日は何ともなかったけど、次の日、もう町の灯りがものすごくて、電燈でこんなに明るいものかと。山に住んでいたから。〔…〕
 次の日も、どうしていいかわからんからやっぱり現場に出かけてね。もう掘る気にならんからみんなあそこで座って、いろいろ話をしとった。

 終戦の日から除隊までの半月間を、廖さんたちは陣地を整理し、日本兵としての装備を手放す作業に費やした。廖さんは、自分たちが使用していた旧式の銃が接収された時のことを、つぎのように回想している。

 ——〔日本が〕戦争に負けて、もうそろそろ自分が除隊されるということはわかっていらしたんですか。

 わかっているよ。たとえば銃。我々〔学徒兵〕が使っている銃は三八式。三八というのは明治三十七、三十八年の戦争の時に使った銃5〔…〕あれはもう我々は夜でも、灯(ひ)がないところでも〔操作〕できるぐらいに中学二年生からやらされている。命中率もいい。その代わりに欠点は、重いね。そして長い。〔…〕我々はそれを磨いて、パッとやるところ、あれは何と言ったかな……束(たば)の上にね、鏑(かぶら)の、あそこに菊の紋章が付いている。まずはそれを磨けと。取ってしまう。

 ——取ってしまう?

 硬い石でこすって、それを今度は束ねて、十丁ずつ縄で〔縛って〕トラックに積んで、それを軍隊本部に持って行った。〔…〕向こうはちゃんと接収の人が来るからそういう命令が来て、まず銃。それから剣。この剣もゴボウ剣と言ってね、役に立たない6

 ——それは日本軍が回収したんですか。

 日本軍ですよ。〔…〕日本のものはすべて軍隊で分けて、使ったものを全部、飯盒から服もね、ほとんどボロボロだけど。〔…〕襦袢、袴下(こした)だけ残してあとはみんな回収。

 ——でもその菊の御紋を消したのはどうしてでしょう。日本軍が回収したのに、なぜ菊の御紋を消したのか。

 あれは結局日本軍が自分で、今はどうか知らんけどあのときは、これは畏れ多いと。銃に天皇陛下の紋章がついているから。それがないものをあげる、敵に渡す7

 ——なるほど、敵に渡す。

 これはもう最後の忠義です。

 銃を手放し、剣を手放し、軍服を手放した廖さんは八月末に除隊になり、故郷に帰還することになった。

 除隊に対してもらえる給料がある、十八円。

 ——十八円だけですか。

 特別にもう一ヶ月分おまけにくれた。十八円というと、あのとき町でこっそり売っていた小豆、小豆の小さいあれ〔ぜんざい〕でね、食おうと思ったら十杯だって食えるよ。一杯一円。

 敗戦の翌日の夜に廖さんの見たという町灯りの光景は、花森安治の詩に描かれている東京の夜景によく似ている。けれども、東京が敗戦を経ても日本という国の首都でありつづけたのに対して、廖さんのいた場所は帝国の崩壊とともに日本の一部ではなくなった。そして、日本軍の末端で少年兵として動員されていた廖さんもそのときから、もはや日本人ではなくなった。
 帝国が崩壊し、それまで繫ぎとめられていた国家の圏内から放り出されたその刹那。彼にとって八月十五日の終戦は、その後も続いていく「私たちの物語」の一幕ではなかった。自分がその一部であったはずの、自分の生命さえもそのために擲(なげう)つことを期されていた国家から突然に切り離され、わずか十八円の給料を握りしめて故郷に帰る列車に乗った、それは十七歳の少年の経験だった。

 廖さんの話を聞いたのは、台北市にある周月坡(しゅうげっぱ)さんのアトリエを訪れたときのことだ。一九三二年生まれの月坡さんは画家で、廖さんの俳句仲間でもある。鉄道省に勤務していた父親の仕事の関係で、彼女は幼少の頃から終戦の翌年まで、ずっと日本に暮らしていた。太平洋戦争の始まった一九四一年に九歳だった彼女は、その頃通っていた小学校で受けた軍国教育について、つぎのように語っている8

 だいたい戦争の始まりはね、毎日のようにどこで勝った、どこを占領したとか、そういう新聞が出るのよ。だからもう毎日、日本でお祭りみたいに騒いでる。もう万歳、万歳でね。ところが学校では子どもたちが講堂に座って、〔戦死者の〕写真がずっと〔壁に〕貼られてて、その写真に挨拶するわけ。「お国のために」って。でもね、そういう時にやっぱり、子ども心としてとても感謝する。ありがたいと思う、立派な人だと。それがみんな、ほんとに立派な男性を選んでるわけ。だからあの頃はね、「どうして私、女に生まれたか」って。いま考えたら、あの頃ほんとに男の人が国のために死ぬっていうことは、素晴らしい死に方だって教えられてきたのよね。
 でも、私のうちは家ではそんなこと言わないから、そこまではいかない。ただ、学校の教育でそう教えられて、頭ん中ではやっぱり、立派に生きてきた、立派に死んでいく人、とっても偉い人だと思ってた。〔…〕

 ——その当時はやっぱり、月坡さんも「天皇は神だ」っていう言葉を信じていらっしゃったわけですか。

 信じても信じなくても、あのとき小学生でしょ。ちっちゃい時から、そんなのおとぎ話みたいに聞いてるしね。でも、私のうちはお客さんがだいたい台湾から来る人が多いから、〔自分たちが〕日本人でないことは知ってるのね。それからお母さんが日本語をあんまり上手に話せない。たいてい女中さんと話す時は、ちょっと癖のある日本語で話したりしてるからね。自分たちは、日本にいるけど日本人でないことは知ってるけど、その頃の私たちにとっては、そんなもの全然大事でなかったわけ。

 鉄道省の官吏の娘として日本の各地を転々としてきた月坡さんは、女学校一年生だった十三歳のとき、東京で終戦を迎えた。当時住んでいた江古田の家で玉音放送を聴いたときのことを、彼女はつぎのように語っている。

 ……私が六畳ぐらいの部屋でラジオを聴いてたら、〔…〕「明日正午に重要な報告がありますから、皆さん注意して聞いてください」って。その時間に私、隣〔の部屋〕にいてラジオを聴いたわけ。そしたら、「朕(ちん)はもう、うがうがうがうがうがうが……」って、こんなような声で、降参するっていうことを宣告して。〔…〕
 私あのとき、小学校出た年だけど、ほんとに体に感じたね。戦争っていう嫌なことね。……っていうのはね、あのとき、私がラジオの前で聴いた〔ときの〕第一番の反応、何だと思う? 天皇陛下が降参するって言ったとき。

 ——ほっとされました?

 口から唾がだらだらこぼれ落ちてきて。あのね、甘いもの食べたことが何年もないのよ。だから、「ああ、おいしい飴が食べられる」って。

 ——そうなんですね。

 うん。だから人間の欲望よね(笑)。あんなに子どもでも、ほんとにおいしいお菓子が食べたかったよね。だから、その天皇陛下の声を聞いて、「降参」って聞いたときに、私が何に反応したかって、口から唾がどんどん流れてきて。

 ——これでお菓子が食べられる。

 そう。あの甘いお菓子、一口でも嚙めればいい。もうそれで嬉しかったわけ。

 玉音放送を聴いて、口中に唾が湧いてくる。それは、たとえば私の祖母の手記にあるような、あの放送を聴いた人びとの典型的な反応のイメージからはかけ離れている。月坡さんの言葉は、でもだからこそ、皮膚の粟立つような実感を私に与えた。
 人間の欲望。戦時中の過酷な状況の中にあっても伏流しつづけていた生命力、ひたぶるに生きることに向かう力。自分の知らぬ間に帝国の中に組み込まれ、戦争に巻き込まれ、学童疎開や東京大空襲を経験した少女の——。そのとき彼女の瞳はきっと、強い光を湛えていたに違いない。
 月坡さんはその翌年、家族とともに貨物船に乗り込み、台湾への帰国の途に就くことになる。けれどもそれは、日本で生まれ育った彼女にとって、言葉の通じない異郷への帰還だった。


(つづく)



1 花森[一九七〇:六]。
2 花森[一九七三:五]。
3 以下にその一部を紹介する廖運潘さんの語りは、二〇二三年八月一日に台北市で行ったインタビューの内容に基づいている。
4 一九四四年十月下旬のレイテ湾海戦で連合軍に敗北して以降、フィリピンにおける日本軍の戦況は悪化の一途を辿った。連合軍は同年十二月十五日にミンドロ島、翌年一月九日にルソン島に上陸。大本営陸軍部は当時、米軍がフィリピン攻略ののちに小笠原諸島を経て台湾と沖縄に進攻する可能性を予測していた。防衛庁防衛研修所戦史室編[一九六八:一四〇–一四一、一九七〇:二九〇–二九一]参照。
5 ここで廖さんの言及している三八式の銃とは、一九〇四〜一九〇五(明治三十七~三十八)年の日露戦争で使用された三十年式歩兵銃を改良して、一九〇五年に日本陸軍の制定した三十八年式歩兵銃のことである。『日本大百科全書』によれば、この銃はアジア・太平洋戦争終期まで軍用または学校教練用に使用され、軍隊内では兵器尊重の意味から薬室上部に菊花紋が打刻されていた。
6 一八九七(明治三十)年に日本陸軍で制定された三十年式銃剣のこと。
一九四五年八月十四日に日本がポツダム宣言を受諾して連合国側に無条件降伏したのち、蔣介石率いる中国国民党は米軍の支援と日本側の「協力」の下で在台湾日本軍の武装解除を含む終戦処理を行った。藤井[二〇二〇]参照。
8 以下にその一部を紹介する周月坡さんの語りは、二〇二三年五月四日に台北市で行ったインタビューの内容に基づいている。


[参照文献]
花森安治 一九七〇「見よぼくら一銭五厘の旗」『暮しの手帖』第2世紀第8号、五−一九頁。
——— 一九七三「二十八年の日日を痛恨する歌」『暮しの手帖』第2世紀第25号、五−一七頁。
藤井元博 二〇二〇「中国国民党軍の終戦処理——対日反攻から接収へ」『安全保障戦略研究』第一巻第一号、一四一−一五九頁。
防衛庁防衛研修所戦史室 一九六八『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社。
——— 一九七〇『戦史叢書 沖縄・台湾・硫黄島方面 陸軍航空作戦』朝雲新聞社。






この連載は月2回の更新です。
次回は2024年3月15日(金)に掲載予定です。
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