裏庭のまぼろし 石井美保

2023.6.15

02蔵の中

 

sur la révolution darwinienne

 

 散歩をしていて、生垣に囲まれた古い日本家屋のそばを通りすぎるとき、その敷地に蔵が立っているとつい見入ってしまう。黒い瓦に白い壁。高い所にひとつだけある、格子のはまった明かり窓。その無駄のない、すっきりとした佇まいにまず惹かれる。時には、そこに住んでみたいとさえ思う。けれども、その内にしまわれているものにまで思いを馳せることはついぞなかった。最近、蔵の中のことを考えるようになったのは、いまの勤め先の同僚である歴史家たちの影響だろう。その家の人にとってはガラクタにすぎなくても、歴史家からみれば宝の山。そんな古物や古文書が、蔵には眠っているかもしれないのだ。あるいは、他人からみればただのゴミでも、その家の人にとっては大切だったに違いないものたちが。

 大阪にある実家にも、年ふりた土蔵がふたつある。古い方の蔵が建てられたのは一八七七(明治十)年、いまから百四十六年も前のことだ。新しい方の蔵は、一九一七(大正六)年の建築。新しいといっても、すでに百年以上が経つ。どちらの蔵も、幾度もの修繕や塗り替えや瓦の葺き替えを経て、家に住む人のいなくなったいまも物置として使われている。
 台所に隣接した新しい方の蔵には、普段使わない食器類や、鍋釜などの調理道具が収められている。蔵の中は涼しいので、昔はお酒や餅、箱入りの林檎や蜜柑といった食料品も貯蔵されていた。でも、私が子どもの頃に好んでよく入り込んでいたのは、台所の裏手にある古い蔵の方だ。
 白く塗られた蔵の戸は重くて、子どもの力ではなかなか開けられない。浅い把手(とって)に指をかけて、勢いよく引き開ける。入り口の鼠返しをまたいで中に足を踏み入れると、ひんやりと黴くさい、独特の空気に包まれる。天井に近い明かり窓から薄い光線が斜めに射して、塵が静かに舞っている。黒ずんだ木の踏み板をきしませて、落っこちないよう慎重に梯子をのぼる。二階に着いても、傾いだような薄い床板の上では不安定な気分が抜けない。
 でもそれでいて、薄暗い空間を占めている雑多なものたちにたちまち心を奪われる。壁際の本棚に収められた、おびただしい数の蔵書に、変色した教科書やノート。硝子のケースに収められた人形。姉と私がもっと小さかった頃に愛読していた少女漫画。積み重ねられた行李にトランク。いつの頃までだったか、荷物の片隅には昭和天皇・皇后の「御真影」が斜めに立てかけられていた。
 蔵の中にいると外界から隔絶されて、降り積もった時間の層に吸い込まれるような心地がする。本棚から古い文庫本や漫画を抜き出して読みはじめると、黄ばんだページの間から、昔の時が滲み出してくる。もう切り上げて、ここから出て、明るい外に戻らなくちゃ。そんな風に気が急きつつも、時間も空間もしんと止まって動かない。

 積み上げられた古いノートの中には、几帳面な字で数式やグラフがびっしりと書き込まれたものが何冊もある。祖父の若い頃のものだ。
 一九一三(大正二)年生まれの祖父は、一九三一(昭和六)年に旧制中学校を卒業すると、家業の造り酒屋を継いだ。一九三一年は満洲事変が勃発した年だ。一九三七年には日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起こり、翌年に国家総動員法が施行されている。
 戦時中の経済統制の下で、米を原料とする酒造業への締めつけは、年々厳しさを増していたようだ。家業の行く末を憂慮した祖父は、一九三九年の春、近い将来の廃業と転職を見据えて夜間専門学校の電気科に入学する。一九四一年十二月八日にアジア・太平洋戦争が開戦。翌年の初春に祖父は専門学校を卒業し、その数ヶ月後に酒屋を廃業した。相前後して、一九三八年に開設されたばかりの大阪陸軍造兵廠(しょう)枚方製造所に徴用され、工員として働くことになる。その後、専門学校時代の恩師のはからいで、一九四三年から終戦まで大阪帝国大学工学部の研究室に勤務し、戦後は工学関係の教職に就いている。
 蔵にあったノートは、専門学校時代のものか、のちに大学の研究室に勤めていた頃のものだったかもしれない。

 実家の本棚の奥にしまわれていた古いアルバムには、酒屋時代の祖父母の写真が残っている。祖父は「朝日杉」という清酒の銘柄の染め抜かれた前掛けをつけて、自分の両親と妻、姉婿とその子どもたちと一緒に縁側に腰掛けている。祖母は和服姿で、膝に猫を抱いている。二人とも真顔で、口の端にだけ微笑の影を浮かべたような表情だ。写真の日付は昭和十四年一月二十一日。祖父がひそかに夜間専門学校に入学する数ヶ月前のことだ。
 そうか、と今更ながらちょっと驚く。あんまりイメージが湧かないけれど、うちは商家だったのだ。そういえば、数年前に姉が蔵を整理していて見つけた、おそらく戦前のものと思われる縦長の帳簿には、その中表紙に墨で黒々と「一銭を嗤うな」と書いてあった。一銭を嗤うな。そんな家訓があったとは。
 酒屋をしていた当時、家には住み込みの従業員もいたらしい。祖父が八十歳を超えて書いた手記には、見習い時代の彼の教育係でもあった、多次郎さんという番頭が登場する。家業を継ぐことになった十八歳の祖父が、大名縞の野暮ったい仕事着に身をつつんで初めて酒蔵に入った日。大きな囲い桶から四斗樽に酒を詰める作業をしていた多次郎さんは、大事な酒をこぼさないように詰め替えるコツを祖父に伝授してくれたという。
 少し傾斜させた四斗樽の蓋を木槌でトントンと叩きながら、注ぎ口に挿した漏斗に酒を注いでゆき、音の変化でどこまで酒が溜まったかを聞き分ける。多次郎さんいわく、

 よう耳を澄まして、木槌で叩く音がだんだん変わってくるところを、注意深く聞き分けることが肝心ですねん。

 だんだんと速まっていくリズミカルな木槌の音とともに、一滴もこぼすことなく樽をきっちり満杯にする。祖父が思わず拍手したという、多次郎さんの名人技を私も見てみたかった。手記には書いていないけれど、きっとほかにもいろんな技や知識をもっていたに違いない。高祖父の代に丁稚奉公に来たという多次郎さんに、家族はいたのだろうか。祖父が酒屋の廃業を決めた後、どんなふうに身を処したんだろう。かなうことなら、彼のライフストーリーを聞いてみたかった。無理なこととはわかっているけれど。

 一九四二年の二月から翌年の七月まで、祖父の勤めた大阪陸軍造兵廠枚方製造所は、いまの京阪本線枚方市駅の北東約二キロから三キロのあたりに位置していたらしい。もともとこの一帯、地名で言えば御殿山から禁野(きんや)、中宮(なかみや)、上野と呼ばれる地域には、一八九六(明治二十九)年に竣工し、一九三九年頃まで拡張を続けてきた巨大な弾薬貯蔵施設である禁野火薬庫があった。
 一九三七年に日中戦争が始まると、砲弾を増産するために禁野火薬庫に隣接する土地が買収され、翌年一月に陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設された(一九四〇年四月に大阪陸軍造兵廠枚方製造所に改称)。ここでは、ありとあらゆる種類の砲弾や爆弾が製造されていたという。火薬庫の隣の敷地で弾薬を製造していたのだから、このあたり一帯が巨大な軍需工場・軍事施設だったことになる。
 祖父の手記には、この製造所を初めて訪れたときの印象が記されている。

 広大な敷地に幾棟もの工場が建ち並んでいた。どの位の広さか、見当がつかなかった。〔…〕幅三十メートル以上もあるようなアスファルト舗装の道路が、碁盤目に縦横についていて、長い鉄材を積んだトラックが行き交っていた。時々軍服の陸軍将校が、バンパーに旗を立てた自動車で所内を移動する光景が見られたから、まるで普通の工場街のような錯覚さえ覚える程であった。

 祖父は、この製造所内にある変電所に勤務して、それぞれの工場に送電される回線の負荷電力のデータを読み取ってまとめ、本部に報告するという仕事を受け持っていたらしい。毎日、家から製造所までの六キロ強の道のりを、枯れ草色の工員服にゲートルという格好で自転車に乗って通ったという。田園地帯にある自宅から、火薬庫地帯に毎日出勤していたわけだ。
 ただし、危険だったのは巨大な軍需工場とその周辺だけではない。大量の弾薬や火薬を陸上輸送するために、一九三六年には禁野火薬庫と国鉄片町線の津田駅を結ぶ専用線が建設された。津田駅と実家の間は三キロほどしか離れていない。さらに、一九四四年の末から米軍の本土空襲が激化してくると、禁野火薬庫に保管されていた弾丸や薬莢類は、津田町の火薬庫集積所や学校、神社、民家に分散して格納されたという。
 一九四五年の六月から八月にかけては、B−29機がたびたび来襲して大阪の各地に爆弾を投下した。いわゆる大阪大空襲だ。この間、枚方の火薬庫や製造所に本格的な爆撃が加えられることはなかったという。とはいえ、弾薬類を学校や民家に分散して「避難」させたことは、空襲時における民間人のリスクを格段に高めたのではないだろうか。

 数年前、一九四三年生まれの母に戦時中の出来事について訊ねたとき、彼女は自分の父、つまり私の祖父から聞いた話として、つぎのように語ってくれた。

 おじいちゃんから聞いたことがあってな。中宮って知ってるやろ、枚方に行くまでの。中宮のところにすごい大きな爆弾の倉庫があったらしいねん。あの、貯蔵庫が。ほいでな、(そばにいた父に)そこに焼夷弾が落ちたんやった?〔…〕そこに落ちたんかもしれない。そいでな、みんながタッタタッタ逃げてきやはってんて。あの〔国道〕三〇七号線。その当時はあの道一本や。今みたいにいろいろ道が分かれてなくて、一本の道。ずっと歩いて、それこそ走って逃げてくる、車も何もなくて。
 おじいちゃんはその当時、酒屋してたから、配達のためにミゼット(オート三輪)みたいなあれを持ってて。それこそ近隣では、おじいちゃんが持ってるそのミゼットと、尊延寺にお医者さんが車を持ってはった、その二台しかないねん。そいでな、おじいちゃんが、その焼夷弾が落ちたっていうので、中宮からしたら反対側に逃げなあかんやん。つまり穂谷の方に逃げなあかん。ほんで車出して逃げようとしたらな、家族乗せて。〔…〕そしたらな、走ってんのに〔逃げてきた人たちが〕もうどんどん走ってる車に手をかけてよじのぼってな、鈴なりになっちゃってんて。(私「えー危ない」)車走ってんのに上によじのぼって。
 そいでな……おばあちゃんたちを降ろして、おじいちゃんだけ家を見に帰ったって言ってたわ。結局家も燃えなくって。 (二〇二〇年八月二十二日)

 母の語りに出てくる「中宮にあった大きな爆弾の倉庫」とは、禁野火薬庫のことだ。この火薬庫で起きた爆発事故のことを祖父から聞いたという母は、その原因については詳しく知らず、焼夷弾が落ちたのかもしれないと推測している。でも、火薬庫は空襲で被災したのではなかった。人為的な過失によって、大爆発が起きたのだ。

 昭和一四〔一九三九〕年三月一日午後二時四〇分、禁野火薬庫の一五号倉庫で、砲弾解体中の一工員の過失から砲弾が爆発し、それが次々と大爆発を誘発することになった。〔…〕黒煙を天に吹(ママ)き上げ、爆発音は京阪一帯に響き渡った。爆発と同時に出火し、倉庫はほぼ全焼し、禁野・中宮・渚・磯島・三矢・岡など近隣の集落に延焼して、二日午前三時ごろようやく鎮火した1

 この爆発事故で九十五人が亡くなり、三百五十一人が重軽傷を負った。先にも書いたように、一九四五年に大阪がB−29機による空襲を受けたとき、禁野火薬庫や枚方製造所は本格的な爆撃を免れた。けれども、たとえ空襲がなくても、爆発事故は起こりえた。火薬庫に隣接した爆弾製造工場。それは言うまでもなく、そこにあるだけで危険な施設だったのだ。
 それではなぜ当時、この場所に陸軍造兵廠が作られることになったのか。『枚方市史 四巻』には、つぎのように書かれている。

 当地に弾丸製造工場が建設されたのはどのような事由によるものであろうか。本市域にはすでに明治中期から禁野火薬庫が設けられていたこともその一つであろうが、当時砲弾製造・格納の方式が変更され、広い敷地が必要になる一方、原材料や製品の砲弾・爆弾の輸送に適した交通の便利な地域が求められた結果、近在を片町線が走り、開発が遅れ、人家散在の当地が選ばれたという2

 「開発が遅れ、人家散在」とされたこの土地が選ばれたのは、造兵廠の建設にあたって広大な用地が必要だったということに加えて、軍の側がこの種の施設の危険性を承知していたからだろう。実際、一九四四年には、「火薬・信管類を製造する第五製造所を大阪市内に置くのは危険であることや、空襲のおそれ」3があるという理由で、大阪市内の陸軍造兵廠にあった信管製造設備が枚方製造所に移転されている。
 だがもちろん、禁野一帯は無人の原野ではなかった。そこには人が住み、子どもを育て、田畑を耕したり、商売をしたり、勤めに出たり、老後を過ごしたりしていたのだ。けれどもそうした人びとの暮らしは、大都市と比べたとき、相対的に「無に等しいもの」とされた。
 このことに関連して思いだされるのは、祖父の手記にあった「不急不要」という言葉だ。祖父は一九四二年の一月に専門学校を卒業した後、酒屋の廃業届が正式に受理される前に、国民徴用令の適用を受けて造兵廠に徴用された。つまり、形式上は酒造業者として徴用されたことになる。祖父はつぎのように書いている。

 酒造業者は、戦時下では不急不要の産業に従事する者と認定されていたから、国家総動員法の適用該当者であった。従って、法に基づき国家の命ずる軍需産業に転職して、国家の非常時に専心ご奉公せよ、という趣旨であった。

 不急不要。ここでも国の尺度によって、長きにわたって培われてきた人の営みが、一方的に「不要なもの」とされている。人家散在。不急不要。曾祖父母や祖父母のような地元の人びとの暮らしと生業は、そうした言葉によって二重に見えなくされ、抹消されてしまったかのようだ。それでも実際には、人びとは右往左往しながら、その土地に住みつづけ、生活を営みつづける。そうやって、ある土地に生きることのリスクを引き受けさせられるのは、いつも市井の人びとだ。

 禁野、中宮、上野、御殿山。どの地名も聞き覚えがあるし、バスで通ったこともある。なんの変哲もない、平凡で退屈な故郷の一部だと思っていた。でも、それらの土地について、いまや建売住宅とマンション、工場やチェーン店の立ち並ぶ街並みの底に埋もれている過去の記憶と痕跡について、私はどれほどのことを知っているといえるのだろう。自分の生まれ育った家の周囲のことさえ、ほとんど何も知らないのだ。
 ではなぜ、知らなかったのか。どうして、忘れ去ることを許されてきたのか。

 いまも昔も、ひんやりと静かな蔵の中はタイムカプセルのようだ。膝に広げた祖父のノートの間から、昔の時が滲み出てくる。過去に生きていた人たちの想念が亡霊のようにあたりに満ちて、降り積もった時の層がゆっくりと攪拌される。
 もう切り上げて、ここから出て、明るい外に戻らなくちゃ。子どもの頃はそうやって、夢から覚めるように元の世界に戻っていた。蔵の中に保存されている、曾祖父母や祖父母たちの生きた時間の痕跡。それは古びて遠い、過去のものだった。
 けれどもいまは、それほど遠いものとは思われない。一九三〇年代の終わりから終戦にかけて、彼らの経験したさまざまな出来事。不条理な法の命令と、知らぬ間に引き受けていた危険。自分たちの暮らしが突然、無きものとされること。
 それは何十年も前に起きたことではあるけれど、近い将来にかたちを変えて、再び起こることかもしれない。それはいまどこかで、すでに起きていることかもしれないのだ。

1 枚方市史編纂委員会[一九八〇:七三九]。
枚方市史編纂委員会[一九八〇:七二三−四]。
枚方市史編纂委員会〔一九八〇:七二二〕。


[参照文献]
大阪府文化財センター 日本民家集落博物館 二〇〇七「企画展示 禁野火薬庫の調査」『カルチュア はっとり』十号 一−八頁。

枚方市史編纂委員会 一九八〇『枚方市史 第四巻』枚方市。

この連載は月2回の更新です。
次回は2023年7月1日(金)に掲載予定です。
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