裏庭のまぼろし 石井美保

2024.3.15

20物語の外で(2)

 

des signs

 

 この辺りの家がどれもそうであるように、海を見下ろす丘の中腹にあるヨシ子さんの家は平屋建てで、庭に面した応接間は日当たりがよく、柔らかな風が入ってくる。一番座と呼ばれるその部屋のソファに並んで腰掛けて、ヨシ子さんとユキさんと初子さんは、身振り手振りを交えて戦時中の出来事を口々に語ってくれる。
 いま、それぞれに八十代の終わりを迎えた彼女たちは、沖縄本島南部の知念半島にあるこの村で半生を過ごしてきた。暮らしてきたのは同じ土地ではあるけれど、彼女たちの生活は、一九四五年を境に一変した。この年の六月、九歳だったユキさんは、南部への攻撃が激しくなる中で両親やきょうだいとともに壕を出て戦場をさまよい、たった一人生き残って米軍の捕虜になった。当時六歳だった初子さんは、集落の近くの洞窟に家族とともに隠れ、六月頃に米軍に見つかって捕虜になった。十一歳だったヨシ子さんは、自分の家が受けた砲撃で両親と兄を亡くし、避難民の群れに交じって戦場を逃げまどった挙句、やはり捕虜になった。
「いつ戦争が終わったと知りましたか?」
 この私の質問は、そんな彼女たちにとっては、あまりにも漠然としていたに違いない1

初子さん:ああ、それね。

ユキさん:とっても暑かったよね。夏……。何月だったかね。ものすごく子どもだったから。

初子さん:九月ぐらいまでは……。

ユキさん:七、八月じゃなかったかね。とっても暑かったのね。

ヨシ子さん:夏だったね。

ユキさん:洋服もシラミ湧いてさ。〔…〕捕虜になったら髪も丸坊主にされて。ウル〔いる〕シラミ、パチパチだから。

 遠い記憶をたどりながら、三人は口々にそう言い合い、頷きあう。けれども彼女たちにとっての終戦は、八月十五日という特定の日付と結びついてはいない。一九四五年の夏。その頃、彼女たちは家を失くし、家族を亡くし、捕虜として収容所に入れられていた。当時のユキさんたちにとっては、日本が無条件降伏をしたことも、本土で玉音放送が流れたことも、知る由もないことだった。八月十五日という日付は、だから彼女たちにとっては、今なお大きな意味をもたない。

 ユキさんたちと同じ集落に住む勲さんは、一九四五年当時、十歳の少年だった。この年の五月末頃、彼は集落近くの壕で米軍の捕虜になり、知念村にあった収容所に送られた。終戦の記憶について尋ねた私に、彼はつぎのように答えている2

 ——勲さんは敗戦、戦争が終わったっていうのはいつぐらいに。

 昭和二十(一九四五)年の五月の末。

 ——五月の末。

 僕らが捕虜になったのがよ。沖縄戦〔の終結〕は六月二十三日と言われてますよね。だけど、戦争は終結しないまでに、まあ四月に捕虜になった人もいるだろうし、また五月にも。私たちは五月の末だったと思いますね。六月一日になるかならないか、はっきり憶えてない。記憶もないし。

 ——日本の本土では八月十五日が……。

 そうです、終戦ですよ。

 ——終戦の日ですけど、その時何をされてましたか。

 私たちは捕虜になって、この地域の人たちは米軍に連れられて、知念村の志喜屋(しきや)というところ。あそこが中心で、この地域から捕虜になった人びとが全部収容されていたんです。玉城村(たまぐすくそん)の百名(ひゃくな)からですね、知念村の知念辺りまでだったと思います3〔…〕向こう〔知念村の辺り〕は戦争の被害もなく、昔からの建物もそのまままるまると残って。〔収容者が〕入らない分は、米軍のテントで暮らしてる人も少しはいましたね。でもほとんどが民家に何所帯か入り込んで。〔…〕

 ——じゃあその、終戦の日っていうのはまったく知らなかったわけですか。八月十五日というのは。

 あのね、ちょうど米軍はあの時ね、空砲で、夜の夜中よ、もうボコンボコン空砲鳴らしてるんですよ、米軍の兵舎のあるところで。あくる日話聞いたら、沖縄戦が終わったと。米軍は喜んで空砲を空に発射して。

 ——それはいつですか。六月ですか。

 六月のね、だから……正式には六月二十三日と言われてましたが、ひめゆりの塔4の石碑にありますよね。〔…〕だけど終戦、戦争が終わったというあの空砲を聞いたのはね、憶えてないですね。

 この私たちの会話は、どことなく嚙み合っていない。八月十五日の終戦について尋ねた私の質問に対して、勲さんは米軍の祝砲を聞いたという自身の経験にふれながら、それが「沖縄戦が終わった」時だったと述べている。その言葉を聞いた私は、「それはいつですか。六月ですか」と尋ね、それに対して勲さんは、空砲を聞いたのが六月だったことを示唆する言葉を返している。
 けれども実際には、沖縄にいた米軍が戦勝を祝う祝砲を上げたのは、八月十五日のことだった5

 ——八月ではないですか。

 あれは沖縄には知らされてない。

 ——知らされてない。

 はい。日本の終戦、無条件降伏は沖縄県民には知らされてない、知らない。後でいろんな情報が入ってきて、「あ、日本が負けたよ」ということで。

 ——なぜ知らされなかったんでしょうか。

 これは統治が、米軍統治下でしょ。いろんな情報というのは秘密ですよ、そういうのは。戦争に関してのことはね6〔…〕

 ——じゃあ九月の降伏の調印7のことも、まったく知らされなかった?

 うん。日本が無条件降伏したということも知らないで、ただもうひたすら生活に困って、食べるものに困ってる。もうその日その日の、どんなすれば食糧を探して、食べて生き残るかということしか考えてないです。

 自分が捕虜になったのは、米軍の祝砲を聞いたのは、戦争が終わったのは、いつのことだったのか。ラジオの前に正座をして玉音放送を聞いた私の祖父母たちとは異なり、勲さんやユキさんたちにとっての終戦の記憶は、本土の終戦記念日とされる八月十五日という日付とも、沖縄の慰霊の日である六月二十三日という日付とも、明確には結びついていない。戦場から収容所に連行され、捕虜としての生活を経てようやく村に戻り、焼け跡の中で必死に日々の糧を探す生活の中で、彼らは終戦をそのような区切りとして経験することはなかった。

 一九四五年、八月十五日。玉音放送と終戦の詔勅。
 この日付に凝縮され、刻印され、この日付のもとに再生産される、国民の物語としての敗戦。そうした物語が前提とする一方で創りだしているのは、帝国の崩壊の刹那にあってなお、それを集合的に経験しうる共同体の存在だ。物語の内部にいる者は、そこから暴力的に切り離され、疎外され、例外化された領域があることに気づかない。そうした暴力的な切断と疎外は、この日付にまつわる物語の再生産を通して、何度も繰り返し再演される。
 そのような物語の外にありながら、人びとによって生きられた幾多の経験は、それでは一体どのように記憶され、想起され、忘却されていくのだろうか。

 たくさんのお菓子が所狭しと並べられた座卓を前に、ユキさんたちは戦後まもない頃の食料難の経験について語り合っている。私には聞き取ることのできない方言を交えて、口々に賑やかに、さも可笑しそうに笑い声をたてながら。

高枝さん(ユキさんの長女):食べものがない時にさ、何かオイルで天ぷら焼いたって言うさ、おばさんたち。

ユキさん:あれはずっと後。

初子さん:後よ。

ユキさん:あれは部落に帰ってきてからだもの。

初子さん:帰ってきてからよ。

高枝さん:それ、油はどこから持ってきたの? じゃあ。〔…〕

ユキさん:アメリカーのところにもらいに行きよったんだ。〔…〕

高枝さん:車に入れるオイルか何かでしょ。

ユキさん:やってんよ。それで天ぷら焼いてさ(笑)8

高枝さん:スミ子さん9はさ、アフリカマイマイ食べていたって。そしたらおいしかったって言ってたよ。〔…〕灰で洗ったって。

ユキさん:みんな食べてるや。

高枝さん:おいしかったって言って、〔スミ子〕おばさんが。

ユキさん:最初は茹でて食べたらむくむくしておいしくないわけ。また次から……。

高枝さん:生で食べたわけ?

ヨシ子さん:生でこの、おいしいわけ。

ユキさん:ワヤーナカイ、灰、へーノ〔家の中にある灰の〕、また芭蕉の葉、あれで洗って。

高枝さん:おばさんは灰で洗ったって言ってた。

ユキさん:硬くてよ、だけど。

高枝さん:湯がいたの?〔…〕じゃあどんなして食べたの? 生で食べたわけ? それは気持ち悪いね(笑)。

ユキさん:生を割って洗って、またそれを炊いたらおいしいわけ。お肉みたいに(笑)。

高枝さん:そのまま食べるわけ? 一緒に炊いた? 硬いよね。〔…〕

ユキさん:芭蕉の葉とかで洗いよって、渋みがあるもので。〔…〕食べるものがないから。

 激しい爆撃下での避難と戦場での彷徨。収容所での生活と、壊滅した村への帰還。
 それらを生き抜いてきた人たちが、その経験の一端を語るときの、深い憂愁と悲しみに曇る表情。そして不意に、厚い雲が切れて日の光が射すように、愉しげに笑みくずれる表情。その両方を行き来しながら、彼女たちは身振り手振りを交えて喋りつづける。三人三様の、独特な語り口で。それは私には、何か胸を衝かれるような、まぶしいような光景だ。
 ユキさんたちの語りの中に現れる、彼女たち自身はまだ幼い少女だ。いま目の前にいる三人の姿の奥に、焦土の上に裸足で立っている、痩せっぽちの子どもの姿が浮かんでくる。そうやって焼け跡の廃墟で、あるいは焼け残った森や畑地で食べものを探していたとき、彼女たちの瞳にも強い光が宿っていただろうか。
 生きること。食べること。生き延びること。たった一人でも。

 崩壊した帝国の物語の中に、再生する国家の物語の中に、そんな彼女たちの姿は含まれていない。大きな物語の外に、あるいはその狭間にあって不可視化されながらもなお、確かに生きられた一人一人の経験は、それぞれの仕方で記憶され、思い出され、親密な場所で語りだされる——こんな風に穏やかに、独特な抑揚をもって。
 そのしぐさや表情に見とれながら、彼女たちの言葉に耳を傾けるとき、私はひとつの日付につなぎとめられた大きな物語の外へと連れだされている。

 夕陽を背景に、畑の真ん中で一心に土を掘っている少女の、泥で汚れた頰と細い腕。長い蔓をつかんで、土くれの中からやっと小さな塊根を引きずり出す。みーんじゃーんむ10
 細い芋の束を地面の上に転がすと、少女はふたたび土を掘りつづける。顔についた泥を拭いもせず、ただ一心に、光る眼をして。





本章に登場する女性たちの会話は、二〇二三年九月二十六日に沖縄県南城市前川で行った徳田ユキさん、徳元初子さん、知念ヨシ子さんへの聞き取りに基づいている。
2 以下の会話は、二〇二三年九月二十二日に沖縄県南城市前川で行った大城勲さんへの聞き取りに基づいている。
3 知念半島の収容地区は玉城村の百名、仲村渠(なかんだかり)、下茂田、知念村の志喜屋、山里、具志堅(ぐしけん)、知念、久手堅(くでけん)などであった[豊田 二〇〇四]。
4 沖縄戦において看護隊として動員され、亡くなったひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒)と教師のための慰霊碑。沖縄本島最南部の糸満市にある。ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館ウェブサイト(https://www.himeyuri.or.jp/)参照。
5 日本兵として沖縄戦を生き延びた津田耕作氏は、隠れていた大里の山中でこの祝砲を聞いた時のことを次のように回想している。「終戦になった夜だったんでしょうね、アメリカ軍が各陣地から曳光弾の十字砲火を撃ち上げたんです。特攻機でも来たのかなあと思っていたけど、あれは終戦になったというので各アメリカ陣地でお祝いの祝砲を上げたんだ、とあとで考えました」[読谷村史編集室編 二〇〇四]。同様の証言として石田[二〇〇〇:四五八–四五九]、大田[二〇一四:九]も参照。
6 勲さんの言うように、沖縄にいた市井の人びとの多くは当時、政治情勢に関する情報を得る手段をもたず、日本の敗戦をただちに知ることはなかった。ただし、一部の県民はすでに八月十五日に米軍から日本の降伏を知らされていた。鳥山[二〇一七:六二五−六二六]によれば、一九四五年四月に沖縄本島に上陸した米軍は、米国海軍軍政府布告第一号(ニミッツ布告)を発し、日本の統治権の停止と軍政の施行を宣言。六月二十三日に日本軍の組織的抵抗が終わると、米国海軍軍政府は同日付の回覧で諮詢会の設置を通達し、各地の軍政スタッフに民間人の代表候補の選抜を要請した。八月十五日に沖縄本島中部の石川で第一回仮諮詢会議が開催され、百二十八名の住民代表が出席したが、その会議の最中に彼らは日本の降伏を知らされたという。小林[二〇一四]も参照。
一九四五年九月二日、東京湾に停泊していたアメリカ艦船ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた。一方、沖縄では同年九月七日に、南西諸島の日本軍代表として第二十八師団の納見敏郎中将らが降伏文書への署名を行った。安仁屋[二〇〇二]、沖縄県公文書館ウェブサイト「あの日の沖縄 1945年9月7日 沖縄での降伏調印式」(https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4741)参照。
8 近隣の集落に住む一九三五年生まれの湧上洋さんによれば、戦後まもない食料難の時期に、彼もエンジンオイルで揚げたイモの天ぷらを食べていたが、それは当時「モービル天ぷら」と呼ばれていたという。沖縄タイムス社編[一九九八]も参照。
9 ユキさんたちの近隣に住む戦争体験者の女性。
10 芽の出ているイモのこと。収穫時に採り残されたイモは、地中で根を出して塊根を増殖させることで、戦時中の人びとの飢えを救った。このことについて大城勲さんはつぎのように語っている。「このサツマイモというのは、根っこから、一回植えれば掘りだして、また次もここに小さいイモが残るんですよ。これは沖縄言葉では、ミーンジャーンムといって。〔…〕それからまた根が出て、蔓(かずら)が生えて、しばらくしたら根、とにかくイモが絶えることがないんですよ。〔…〕目の前にはないが、ちょっと行ったところに行ったらもう、畑はみんな耕してないし、荒れ放題で。そこにはもうサツマイモいっぱいあるから、そこ行って漁る。〔…〕そういうようなことがあって、ああ……命をつないだんだなあと」(二〇二三年九月二十二日、南城市前川にて聞き取り)。


[参照文献]
安仁屋政昭 二〇〇二「第一章 太平洋戦争と沖縄戦 沖縄戦の終結」『読谷村史 第五巻 資料編4 戦時記録 上巻』https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05a/chap01/sec00/cont00/docu024.htm(二〇二三年十一月二十五日閲覧)
石田俶孝 二〇〇〇「迫撃砲第四中隊 沖縄戦に散華す」『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)10』平和祈念事業特別基金編。
https://www.heiwakinen.go.jp/library/shiryokan-onketsu10/ (二〇二三年十一月二十五日閲覧)
大田昌秀 二〇一四「アーカイブスと私——沖縄の経験から」『アーカイブス学研究』二一:八−一六頁。
沖縄タイムス社編 一九九八『庶民がつづる沖縄戦後生活史』沖縄タイムス社。
小林武 二〇一四「占領最初期の沖縄の統治構造——「沖縄諮詢会」についての分析を中心に」愛知大学法学部法経論集 第二〇一号、一二七−一五八頁。
豊田純志 二〇〇四「第四章 米軍上陸後の収容所」『読谷村史 第五巻 資料編4 戦時記録 下巻』https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05b/chap04/content/docu074.html(二〇二三年十一月二十五日閲覧)
鳥山淳 二〇一七「第一章 戦時下の米軍基地建設 第一節 米軍政のはじまり」『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』沖縄県教育庁文化財課史料編集班編、六二五−六三〇頁。
読谷村史編集室編 二〇〇四「第四章 米軍上陸後の収容所 体験記」『読谷村史 第五巻 資料編4 戦時記録 下巻』https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05b/chap04/content/docu081.html(二〇二三年十一月二十五日閲覧)







この連載は月2回の更新です。
次回は2024年4月1日(月)に掲載予定です。
バナーデザイン:山田和寛+佐々木英子(nipponia)