裏庭のまぼろし 石井美保

2024.4.1

21竹林と夕星

 

 

 敗戦ののち、大阪の家の人たちは、どのような日々を過ごしていたのだろうか。

防人は待てど帰らぬ虫の夜夜

 祖母の句集に収められたこの俳句には、「昭和二十一年秋」という日付が付されている。けれども、この俳句が実際にいつつくられたものなのかはわからない。ひょっとすると、それは敗戦の年のことではなかったか。
 戦後間もない頃の家族の様子を知る手がかりは乏しいけれど、晩年になって祖母の書いた回想録には、当時の彼女たちの心情がわずかに綴られている。
 祖父と祖母、曾祖父と曾祖母。それに、七月に長男を出産したばかりの文子さん。互いに口に出すことは憚りながらも、当時、彼らの胸の内を占めていたのは、その年の三月以来音信が途絶えたまま、行方のわからない大叔父のことだった。
 回想録の中で、祖母はつぎのように記している。

 夏の夕方、ホタルの飛び交う前の小川へおしめを洗いに行った文子さんの帰りがおそいので私が見に行った時、すっかり陽の落ちた西の空を眺めて文子さんはボンヤリ立っていました。なだめて連れて帰るのに私は悪いことでもしたように苦しかったものです。……

 夕陽に照り映えていた雲が薄墨色に沈んでいくまで、身じろぎもせずに川辺に立ち尽くしていた文子さんの姿が目に浮かぶ。そのとき彼女は何を思い、夕空の向こうに何を見ようとしていたのだろうか。
 数年前、私の母に戦時中の経験について聞いたとき、母は祖父から伝え聞いた話として、こんなことを語っていた。

 ……それで、英夫叔父さんが戦死したってことがわかって〔…〕あるとき、それはおじいちゃんが言うてはったけどな、夜中に文子おばちゃんが外に出て行って、どんどんあっちのお墓の方に行くねんて。そしてな、「もし魂があるんやったら、魂が自分のところに飛んでくるのが見えるかなと思って見に行った」って言ってたって……。そんなんよ。ねえ1

 大叔父の戦死公報が出たのは、終戦から二年近くが経とうとする一九四七年五月のことだ。家の者たちが彼の葬式を出したのは、それからさらに三年後の一九五〇年四月のことだった。

 戦争が終わり、だが依然として弟の生死もわからなかった頃、祖父はどんなことを考えていたのだろうか。彼が晩年になって書いた手記には、その当時のことについては一言も触れられていない。
 大阪の実家には、祖父の古い日記が何冊か残されているけれど、それらはどれも戦後数年が経ってから書かれたものだ。戦時中や戦後間もない頃に彼が親族や友人の誰かれとやりとりしていたはずの書簡類も、数通だけを残して見つかっていない。
 なぜ、大阪の家には戦時中の祖父の日記や手紙が残されていないのか。
 たぶん、誰かが誤って捨ててしまったのだろうと思っていたけれど、このエッセイを書きつづけているうちに、そうではないような気がしてきた。日記も手紙も、おそらくは戦後のある時点で、祖父自身が焼却したのではないか。これだけは捨てられないという、数通の手紙だけを残して。
 その思いを深めたのは、表紙に「昭和二十四年」と記された祖父の日記帳に挟まれていた、一通の手紙を見つけたときだ。便箋ではなく、罫のない帳面のような紙に書かれていて、封筒にも入っていない。それは終戦後間もない一九四五年の十一月、行方不明の弟に宛てて書かれた祖父の手紙だった。この頃にはまだ、祖父たちは彼が生きているかもしれないという望みをもっていたはずだ。

 此の手紙が果して君の手許に着くかどうか知らぬ。然し万一の可能性を願いつつペンを持った。もし生きていたら何も心配せず かえる事を許される時が来たら世間に気兼ねせずかえって来る様にして下さい。
 日本は戦争に負けた。そして世の中は一変した。何もはじる事はない。自己のベストを尽した後は例(ママ)え捕虜の身となっていよう共、それを諒解する程世の中は一変している。これから何もかも再出発だ。吾々は平和的な新日本を建設しなければならない。官僚や軍閥に対する吾々の憤激は非常なものだが何も知らないで唯祖国のためにのみ戦った君等の心情は心の底より世間の人達の敬愛と同情と感謝を得るだけの価値があるのだ。何も心配せずかえって来る事を切望する。〔…〕
 兎に角 米軍進駐後の内地はその後平和だ。君の長男も丈夫ですくすく育っている。文子も至って健康だ。家族は全部無事でいる。一同は唯々君の許されて帰郷する日を待ちこがれている事を忘れない様に。
 君の生きている事を祈りつつ
   昭和二十年十一月三日

 敗戦から三月(みつき)と経たない時点で書かれたこの手紙は、私に複雑な思いを抱かせる。
 この手紙に書かれているように、祖父は本当にそんなにもすぐに、再出発に向かって気持ちを切り替えることができたのだろうか。この手紙で彼はなぜ、「何もはじる事はない」「何も心配せず」といった言葉を、あえて連ねなくてはならなかったのか。そして彼は、若年とはいえ陸軍の将校だった弟が、「何も知らなかった」などということを、どこまで信じることができたのか。
 いまとなっては、本当のところはわからない。たとえ生前の祖父に当時の話を聞く機会があったとしても、そうした問いを投げかけることはできなかっただろう。いずれにしてもこの手紙が出されることはなかったし、そもそもの初めから、祖父はこの宛先のない手紙を投函できるとは考えていなかったのかもしれない。
 それでも祖父は、この手紙を残した。ただ帰ってくるようにと、切実な言葉で弟に呼びかける手紙を。

 いまに至るまで、大叔父の行方はわかっていない。
 村の古い墓地の奥に広がる竹林のそばに、祖父は弟の墓を建てた。この小さな村から大陸や南洋の戦地に赴き、還ってこなかった幾人かの若者たちの墓碑と並んで、その墓は立っている。
 夏の終わりに近い夕暮れどき、切り花と水の入った手桶を提げて、墓に向かう緩い坂道をゆっくりとのぼる。遠い昔、墓参りはいつも祖母と一緒だった。切り花の束を墓前の花立てに挿し、線香に火をつける祖母の手つきと、うっすらと漂う煙の匂いを思いだす。
 南西の空にひらけた墓地に西日が射して、墓碑の後ろに長い影をつくる。竹の梢がざわざわと揺れ、桿(かん)がふれあってカタカタと鳴る。どこからか、ひぐらしの声が聞こえてくる。
 海に面したあの丘にも、そういえば蟬の声が響いていた。熱帯の樹々に覆われた断崖の下からは、海鳴りの音が聞こえてきた。
 竹林の葉ずれとひぐらしの声。海鳴りの音と蟬時雨。それぞれの音と景色は、私の知らないはずの遠い日のことを思いださせる。それぞれの場所で、あの日生きていた人たちが目にしていたはずの光景と、その耳に響いていたかもしれないざわめきを。

 もしも魂があるんだったら、私のところに飛んでくるのが見えるかなと思って見に行った。

 そんな風に、文子さんは言ったという。
 大叔父の魂はどこにあるのか——故郷の野山か、文子さんの傍らか。それともまだ、あの丘と海のあいだをさまよっているのかもしれない。
 あのとき、あの場所で海鳴りの音を聞きながら、大叔父は何を見、何を思っていたのだろう。
 そして、彼の見ていなかったもの、彼には見えていなかったもの、彼の見ようとしなかったものは何だったのか。
 それらの痕跡と断片を私は探し歩き、拾い集め、自分の言葉に変えて、もうこの世にいない大叔父や、祖父や祖母たちに伝えなくてはならないような気がしている。そしてまた、彼らがその中に深く巻き込まれ、それを駆動してもいたあの戦争によって死に至らしめられた人たちに、捧げるように手渡さなくてはならないと。
 死者たちの言葉をたどり、生き延びた人たちの声を聞き、それをいま生きている人たちに伝えるだけではなく、死者たちの元へ送り還そうとすること。
 それはひとつの、弔いの仕方だろうか。鎮魂というよりも魂(たま)ふりの、追悼というよりも応答の、弔いというよりも償いの、それはひとつの方法なのかもしれない。それはまた、私が知らぬ間に幾多の死者たちから受けとってきた贈与への、遅すぎるかもしれない返礼でもあるだろう。

 遠くから、海鳴りの音が聞こえてくる。
 目をあげれば、ざわざわと虚空にうごめく竹の梢。異なる時空をつなぐのは、まぼろしのようなざわめきだ。
 海のそばの丘の上にも、村の古い墓地の奥にも、あの頃生きていた人たちの姿をとどめるものは何もない。それぞれの場所に建てられた記念碑は、遠い出来事を蘇らせるのではなく、過ぎ去った年月の中に閉じ込めてしまう。あの時を生き、死んでいった人たちのことは何もわからないままに忘れ去られ、過去は遠ざかっていく。
 けれども本当はたぶん、何ひとつ終わってはいないのだ。それぞれの場所を満たし、私の身体を通して共振していくざわめきは、そのことを思いださせる。くりかえし、くりかえし、まるで誰かの声のように。

 ——まだ終わっていない。まだ終わっていない。私の声は、まだ聞かれていない。

 ひぐらしの声は、いつのまにか止んでいた。
 竹林の影は薄闇の中に沈み、陽の落ちた西の空に夕星が光っている。

 

 

1 二〇二〇年八月二十二日、母への聞き取り。

 

 

この連載は月2回の更新です。
次回は2024年4月15日(月)に掲載予定です。
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