裏庭のまぼろし 石井美保

2023.7.1

03科学と動員(1)

 

même une petite chose

 

 実家の本棚にしまわれていたアルバムには、小さな襟のついた白衣に身を包んで、実験器具に向かっている祖父の写真がある。やはり白衣を着た祖父が、軍服姿の弟と並んで立っている写真には、「〔昭和〕19. 12月 大学内にて」というメモが記されている。太い石柱に支えられた立派な建物の階段で、同僚と思しき人たちと一緒に写っている写真もある。どの写真も、祖父が大学の研究室に勤めていた頃のものだ。
 家業の酒屋を継いでいた祖父は、一九三八年の国家総動員法の公布を受けて近い将来の廃業を覚悟し、その翌年に夜間定時制専門学校の電気科に入学した。一九四二年の一月に専門学校を卒業して酒屋の廃業届を出したものの、それが正式に受理される前に徴用されて、枚方製造所の工員として働くことになる。それから約一年後の一九四三年七月、祖父は大阪帝国大学工学部航空学科の助手に着任した。
 酒屋をしながら夜学に通い、勉強して、阪大の助手になった。そうした祖父の経歴について聞いてはいたものの、どこか半信半疑でもあった。「夜学で勉強」から「阪大の助手」に至る間に、かなりの飛躍があるように感じていたのだ。阪大の助手って、そんな簡単にはなれないんじゃないか。
 けれどもいま、祖父の手記と、当時科学者たちのおかれていた状況についての資料や論文を照らし合わせてみるとき、祖父の経歴が理由あるものとしてみえてくる。鍵は、戦時中の科学技術動員である。

 一九四二年六月。霧雨の中、枚方製造所内にある変電所から本部事務所に向かってとぼとぼと歩いていた祖父は、その途中で誰かに呼びとめられる。それは祖父が夜間専門学校に通っていた頃の恩師、川原教授だった。彼は大阪帝国大学工学部の教授だったが、非常時における科学技術研究の強化を図る国の要請を受けて、専門学校でも教鞭をとっていたのである。その教授が、いったい何の用事で枚方製造所に来ていたのか。わけを尋ねた祖父に、教授はこう答えている。

 いや、私の研究室は陸軍の委託研究をしている。早く言えば、戦時動員研究室ということだよ。まあ、君が徴用されたのに近いかな。そんな訳で、時々此処に来るんだ。

 その場で祖父の境遇を聞いた川原教授は、自分の教え子が電気工学の専門知識を持っているにもかかわらず、普通工員として働かされていることに憤り、製造所長への直言を約束する。そのおかげで祖父は、翌一九四三年の四月に枚方製造所の技能者養成所教官に転任し、さらに同年の七月末には大阪帝大工学部の川原研究室に配属されることになった。この経緯について、祖父はこう書いている。

 川原教授の研究室が、工学部航空学科に属する戦時動員研究室でなかったら、如何に川原教授の意見が正論であったとしても、徴用令によって徴用された私の身分は、容易に解除されることはなかったであろう。

 どういうことか。この一文の背景を理解するためには、当時の時代状況について知る必要がある。
 祖父が川原教授と再会する数ヶ月前の一九四二年四月十八日、日本は初めて米軍による本土空襲を受けた。いわゆるドーリットル空襲だ。これは空母から陸上爆撃機B−25を発進させた奇襲攻撃であり、東京、横須賀、名古屋、神戸などの各地が爆撃されて三百名以上が死傷した。また、六月五日から七日のミッドウェー海戦では、山本五十六連合艦隊司令長官の率いる日本海軍が大敗している。
 一九四三年四月十八日には、その山本五十六がソロモン諸島のブーゲンビル島上空で乗機を撃墜されて戦死。五月十二日には、一九四二年六月以来日本軍が占領していたアッツ島に米軍が上陸し、五月二十九日に日本軍守備隊は壊滅した。
 このように戦況が悪化していく中で、国家の科学技術力を増強し、敵国に対抗しうる新兵器を開発するための動員が進められていく。一九四三年八月二十日には、「科学研究ノ緊急整備方策要綱」が閣議決定され、大学所属の科学者が戦時対策に組織的に動員されるようになる1。八月二十五日と二十六日に開かれた帝国大学総長会議において、政府・文部省は各大学に対し、科学技術動員に対応するための委員会の設置を求めた。その際、大阪帝大は五月末にいちはやく「戦時科学報国会」を結成し、「学内の兵器研究者及び基礎科学研究者、技術担当者の協力一致体制を整備」していることが報告されている2
 一九四三年十月一日には「科学技術動員総合方策確立ニ関スル件」が閣議決定され、同月十四日に公布された研究動員会議官制・臨時戦時研究員設置制の下で、軍・官・民の代表者からなる研究動員会議(会長は内閣総理大臣)が設置された。また十一月一日には、大学所属の研究者の動員を担当していた文部省科学局の規定に、「科学研究の振興及び動員に関する事項」という規定が追加された。さらに十一月二十五日には、学術研究会議官制が改正され、学術研究会議の会員数が倍増されるとともに、科学研究動員委員会の設置に関する規定が付け加えられた。こうした新たな体制の下で、一九四四年の春以降、学術研究会議を中心として約二百もの戦時研究班・戦時研究会議が活動を開始することになった3

 このようにみると、祖父が大阪帝大に勤務することになった一九四三年は、まさに科学技術動員が本格化していく時期だったことがわかる。非常時における科学技術力の強化と人材確保の必要性。科学技術関連のポストの拡充と研究費の増額。こうした時代の趨勢の中で、祖父は大阪帝大工学部の助手という職を得ることができたのである。
 陸軍造兵廠の徴用工から、戦時動員研究室の研究員へ。職種こそ異なるが、それもまた総動員体制の下での人員配置であったことに変わりはない。それでも、この転職は祖父にとって、願ってもない幸運だった。祖父に関するかぎり、酒屋の廃業にせよ、工員から研究者への転身にせよ、国家による否応のない命令が、オセロの石が黒から白に反転するように新たな道を開いたという経緯がみえてくる。
 こうして晴れて大学研究員となった祖父は、夜間専門学校卒でしかない自分の学力不足に懊悩しながらも、生まれて初めて存分に勉強し、研究に没頭できることの幸せを嚙み締めていた。

 川原研究室で助手として勤務するようになってから、私はやっと天職が与えられた気がして、不思議にこれまで経験したこともない心の落ち着きを得た。〔…〕誰にも支配されることのない世界が、私の前に開けていた。少なくとも、研究室で問題解決に没頭している限り、其処には、誰にも支配されることのない研究の自由と精神の自由があった。

 ここで祖父の書いている「誰にも支配されることのない自由」とは、彼を束縛していた家業や、上からの命令に従うほかない工員生活からの自由だっただろう。だが言うまでもなく、その自由とは、戦力の増強と戦争の推進という国家の命令に従うかぎりでのみ保障されるものだった。
 それでは、祖父は大阪帝大の研究室で何をしていたのか。

 昭和二十〔一九四五〕年三月十日、アメリカのB29爆撃機三百機が東京を空襲し、二十三万戸が焼失し、死者十数万人と報じられた時、私は思わず心中、やんぬるかなと臍(ほぞ)を嚙んだ。川原研究室の研究は、成層圏を飛行する爆撃機のエンジンの空冷に関する研究だったからであった。
 風洞実験による層流、乱流の研究や、シュリーレン写真を利用した熱の伝達機構の解明など総てが、空気の希薄な成層圏を飛行する航空機のエンジンが、如何にして過熱を防ぎ空冷の性能を効率化するかに関する基礎的研究であった。〔…〕私たちは〔…〕やがて誕生して成層圏を飛ぶであろう四発爆撃機(エンジンが四基ある超大型機で、当時の日本にはエンジン二基の双発機しかなかったから、四発爆撃機の開発は焦眉の急であった)を夢見ながら、研究に没頭していたのである。

 爆撃機の成層圏飛行を可能にするための基礎研究。それが祖父の携わっていた研究プロジェクトだった。
 大阪帝国大学工学部航空学科は、航空関係の技術開発と技術者の養成を目指す文部省と航空工業界の要請の下で、一九三八年四月に開設された。その中心となったのは、愛知時計電機株式会社からスカウトされた三木鉄夫である。三木は一九二三年に東北帝国大学を卒業した後、愛知時計電機に入社し、航空機部門で飛行機の設計と製作に携わっていた。当時、海軍と民間の飛行機会社はこぞって独仏からの技術導入を進めていたが、愛知時計がドイツのハインケル社と提携したため、三木はドイツに留学。その後、彼の主導した大阪帝大工学部航空学科では、飛行機の設計・製作とともに境界層に関する実験的研究が行われた4
 当時の軍事研究の中でも最重要課題のひとつとされていた航空工学、しかも爆撃機の研究開発の一端を、祖父も担っていたのである。そんな彼が、東京大空襲の報を聞いて「臍を嚙んだ」のはなぜだったのか。それは航空機の開発において、敵国に大きく後れをとったという敗北感のためだった。

 B29機は成層圏を悠々と飛び、其処まで飛来できぬ日本の戦闘機を尻目に、首都に爆弾を投下したのであった5
 脆くも私達の夢は破れた。

(つづく)

1 河村[二〇〇七: 四七]参照。
青木[二〇〇六: 七三]、吉葉[二〇一二:一三−一四]参照。この閣議決定と帝国大学総長会議での議論を受けて、大阪帝大は一九四三年八月三十一日の部局長会議で戦時科学報国会について審議し、「戦争の現段階に於て〔科学研究を〕最高度に集中せしめ科学の飛躍的向上を図り、戦力の急速増強の要あるを以て」、学内有志によるものだった戦時科学報国会を全学的に組織化することにした。大阪大学五十年史編集実行委員会[一九八五:一八五]参照。
河村[二〇〇一:四六−四七、二〇〇七:四七−四八]、青木[二〇〇六: 七三−七五]、澤井[二〇一四]参照。
大阪大学五十年史編集実行委員会[一九八三:五五八、一九八五:一八六]、飯田[二〇一一]、西岡[二〇一八]参照。
実際には、一九四五年三月十日の東京大空襲は低高度からの焼夷弾爆撃だった。それ以前、一九四四年十一月二十四日から一九四五年三月四日の間に繰り返された空襲では、約一万メートルの高高度から首都への爆撃が行われた。東京大空襲・戦災資料センターウェブサイト(https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/)参照(二〇二三年六月八日閲覧)。


[参照文献]
青木洋 二〇〇六「第二次世界大戦中の科学動員と学術研究会議の研究班」『社会経済史学』七二(三):(三三一)六三−(三五三)八五。
飯田周助 二〇一一「私の航空工学との関わり——大阪府立大学航空工学科の創設まで」『鵬』三一:二−五、大阪府立大学工学部航空宇宙工学科同窓会。
大阪大学五十年史編集実行委員会 一九八三『大阪大学五十年史 部局史』大阪大学。
——— 一九八五『大阪大学五十年史 通史』大阪大学。
河村豊 二〇〇一「旧日本海軍の電波兵器開発過程を事例とした第2次大戦期日本の科学技術動員に関する分析」博士論文、東京工業大学。
——— 二〇〇七「戦時末期における文部省の戦時科学政策——陸海軍技術運用委員会の下での変化」IL SAGGIATORE 36: 47-63。
澤井実 二〇一四「戦中・戦後の日本産業技術開発」科学研究費助成事業 研究成果報告書。
西岡通男 二〇一八「流体力学に魅せられて」『ながれ』三七:四〇一−四〇七頁。
吉葉恭行 二〇一二「戦時科学技術動員下の東北帝国大学——大久保準三文書を手掛かりとして」東北大学史料館紀要七:一三−三三頁。


この連載は月2回の更新です。
次回は2023年7月15日(土)に掲載予定です。
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