裏庭のまぼろし 石井美保

2023.7.15

04科学と動員(2)

 

on the beach

 

 祖父を含めて戦時研究に動員された工学部の研究者たちは、最先端の科学技術を用いた実戦力の向上を目指して研究に邁進する一方で、アメリカの科学技術力との圧倒的な格差を認識してもいた。それゆえ、彼らは軍部の精神主義を批判的にみていたようだ。
 祖父の手記には、彼が当時、科学者を軽視する軍部や官憲の姿勢に危機感を抱いていたことが記されている。一九四五年の初春に、工学部で防空演習が実施された時のことだ。

 大学の工学部は都島区東野田町にあったが、筋向かいに網島警察署があって、その指導で工学部全体の防空演習が時々実施された。指揮を取るのは警部クラスの警官であったが、その指揮下で、当時の高等官二等以上の勅任官クラスの教授が、唯々諾々と動き回る光景は、私には異様とさえ見えたものであった。況(いわん)や助教授・講師・助手が命令されるままに、動き回るのは当然のことであったが、これとて問題であった。〔…〕いやしくも各分野の専門家であり、権威である学者集団であった。兵士に命令する指揮官のように、それらの人達を動かす〔軍隊の〕「訓練方式」が当然と受け取られていることに、先端科学技術を駆使する近代戦争に日本が負けるかもしれないという危険性を、私は予感しない訳にはいかなかった。

 また、祖父の同僚である研究者たちの一部は、軍部が秘匿していた敵国からの情報を、短波受信機を用いて独自に取得していたらしい。一九四四年七月、世界的に有名な電気工学者である松前重義博士が召集されたというニュースを知った時のことを、祖父は手記をもとにした自伝的小説に詳しく描いている。
 祖父によれば、その情報をもたらしたのは電気通信学科のI助手だった。学内電話で交わされたという以下の会話で、東京ことばで話しているのがI助手、関西弁で応答しているのが主人公(祖父)である。I助手は、祖父の周囲に誰がいるのかを確かめてから、慎重に話を切りだした。

「松前重義先生が召集された」
「えっ、ほんまかいな」〔…〕
「しかも、陸軍二等兵でだ」
「そら、無茶苦茶や。アメリカなら、少なくとも将官で召集するところやろなあ」
「東條内閣の戦争政策に反対したのが原因らしい」
「毎日新聞の記者1と同列やな」
「正に竹槍精神そのものの発想だよ。愈々(いよいよ)敗戦近しだぞ」
「そんなこと、みんな予感してることや。極秘事項でも何でもないがな。俺たち仲間以外に知れても構わんことやないか」〔…〕
「特高〔特別高等警察〕や憲兵に捕まりたくないからだよ」
「他の連中は信用ならんということやな」
「密告が恐いということさ」
「それ程の秘密情報ということやな」
「普通の手段では手に入らぬ情報を、どうして手に入れたか——第一、それが問題にされる時代だ」

 I助手は、違法と知りつつアメリカからの日本向け特別電波を受信して、松前博士が懲罰召集されたという情報を入手したのだった。彼はつぎのように語っている。
 「今や、デマではなく真相はこれしかない。そう思って、人に知られぬようにこっそり受信機を組み立てていたのだよ」。
 すでにこの段階で、祖父の同僚たちの間では、科学技術力と生産力の圧倒的な格差による日本の敗戦が予想されていたようだ。この年の十一月末、祖父は所用で東京に出かけ、当時陸軍大学校生として世田谷に所帯をもっていた弟の新居に泊まった。あいにく弟は演習で留守にしていたが、彼に宛てて書き置いた祖父の手紙には、当時の軍部の方針への批判が綴られている。

 今日も又空襲があった。もはや科学的な手段方法も又新しい意味の「作戦要務令」として青年将校から真剣に研究さる可きだと思う。新しく少佐参謀として出発するであろう君の所見や如何に?
 少くとも竹槍では勝てぬ事は銘記さる可きだ。もはや理屈や観念上の言葉で議論するには時局は余りにも切迫している。吾々は直(ただち)に而(しか)して具体的に実現さる可き手段方法の明示をする者にのみ指導者としての資格を認め、これに敬意をささげる。
 神風特別攻撃隊の壮烈な働きを口にするものは数限り無くある。然し神風特別攻撃隊の出ねばならなかった悲壮なる実を率直に述べる人は皆無だ。何故だ? 吾々は地団駄を踏んでいる。神風攻撃隊の記事を見て「これあるかな」と手を打った人があったとすれば吾々は非常な憤りを感ずる。〔…〕
 吾々の今やっている仕事が少くとも或る方面に於ける研究の最先端をゆくものである事を知っている自分の感想を述べて、少佐参謀殿の御参考に供し度(た)いが、直接逢って話せない事が残念だ。
 「真の恐ろしさ」を感ずる者は卑怯者でない。聡明な君の頭脳が今何を考えているか僕は知らない。が少くとも敵米をやっつける最善の方法に関して考えている事は本当だろう。〔…〕

 祖父がこの手紙を書く約ひと月前の一九四四年十月二十一日から二十五日にかけて、レイテ湾海戦で特攻隊がアメリカ艦隊に突入していた。祖父の言う「神風特別攻撃隊の出ねばならなかった悲壮なる実」とは、つまりアメリカに対する日本の軍事力と科学技術力の絶望的な劣位性のことだろう。ただしこの手紙の中で、祖父は戦争の是非自体を問うているわけではなく、目下の窮状を打開するためには科学的な手段方法が必要だと主張している。手紙の最後に、彼はこう書いている。
 「新しい参謀殿よ。君の仕事は多い。健闘を祈るや切。小生もがんばる」。
 だがそれから数ヶ月後、一九四五年三月十日の東京大空襲の報を受けて、祖父は敗北感に打ちひしがれることになる。三月十三日から十四日にかけては大阪もB−29機による爆撃を受け、続く六月七日の大空襲によって、都島区にあった工学部の校舎は焼失した2

 焦土と化した大阪で、川原研究室だけが例外であり得る訳がなかった。大阪帝国大学工学部が、電車通りに面した一部学舎だけを残して、総ての施設・設備が焼失した際、川原研究室も又焼失した。
 川原教授の下に研究室の全員が、心魂を傾けて取り組んだ実験の核であった大風洞も、小風洞も今は既に跡形もなかった3。焼け跡に立った私たちは、呆然として痴呆のように考える力も失っていたが、その時は、もう敗戦の現実だけは確(しか)と見定めていたように思う。
 竹槍精神の敗北——この思いが私の心の内の何処かにあった。

 一九四五年八月十四日に日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦となる。その後、航空工学の研究と教育はGHQによって禁止され、大阪帝国大学工学部航空学科は廃止された4。川原研究室の仲間も散り散りになり、祖父も大学の職を去った。

 酒屋から徴用工へ、そして帝国大学の研究員へ。祖父の経歴の変遷を辿ることでみえてくるのは、戦時中の科学技術動員の光と影だ。
 祖父の転身が、一九四三年以降の科学技術動員政策と密接に関係していたこと。またその中で、彼が爆撃機の開発という軍事研究プロジェクトに携わっていたこと。そうしたことを、私はこの文章を書くまで知らなかった。祖父が秘密にしていたわけではない。だって彼は、手記の中に詳細に書き残しているのだ。たぶん、戦時中の出来事など娘や孫たちは興味をもたないだろうと思って、あえて語らなかったのかもしれない。
 けれど私は少なくとも、いまから二十年ほど前に祖父の書いた自伝に、一度は目を通していたはずだ。ただ当時は、その内容にさほどの引っかかりを覚えなかった。対していまは、ぼんやりしていた景色に急に照準が合ったかのように、時代の動きの中での祖父の立ち位置——その必然とまでは言えないが、道理とでも言うべきものが、クリアに浮かび上がってくる。それは、単に私が年齢を重ねたからというだけではなく、祖父が青年期を過ごした時代と、いまの日本の状況がどこか重なり合ってみえるからだ。
 戦時中の国家による科学技術動員は、何よりも軍事力の増強を目的としていたが、それは当時の科学者たちにとって、研究ポストの拡充と研究費の増額を意味していた。多くの共同研究が組織され、科学者と技術者が雇用され、各人の能力を発揮する機会が与えられた。一九四一年に大阪帝大工学部航空学科を卒業し、終戦まで同学科に勤めた航空工学者である飯田周助は、この時期のことについて、「筆者にとって最も活動した時代であり忘れ得ぬものである」と回想している5
 祖父たちのような若手研究者にとって、戦争は、ふと気がつくと「廊下の奥に立っていた」(渡邊白泉)というような不気味なものであったと同時に、鼻先に差し出されたまたとないチャンスとしての姿をとって現れたのかもしれない。

 「少なくとも研究室で問題解決に没頭している限り、其処には、誰にも支配されることのない研究の自由と精神の自由があった」。
 そう、祖父は手記に記している。けれどもその状況は、本当に自由と呼べるものだったのだろうか。
 権威あるはずの教授陣が、警官の指図に唯々諾々と従っていた防空演習の様子に象徴されていたように、戦時研究に動員された科学者たちは、あくまで必勝の信念の下での戦争遂行を唱える軍部や政府に対して異議を唱えることはできなかった。一部の研究者たちは、自国の科学技術力の絶望的な劣位性を認識し、敗戦を予期さえしていたが、それを表立って指摘することは不可能だった。それを公言したならば、解雇や逮捕、懲罰召集の憂き目に遭うかもしれないからだ。
 科学技術動員の下で多くの研究室は活況を呈し、ポストと研究費を得た科学者たちは課題遂行のための研究に邁進した。だがそのことは、国家の突き進んでいく道行きに、自分たちもまたどこまでも付き随わなくてはならないことを意味していた。たとえそれが、科学的合理性からみて間違った方向であったとしても。
 そうして彼らが辿り着いたのは、祖父たちがそこに呆然と立ち尽くしたような、一面の焼け野原だったのだ。



1 二人の会話に登場する「毎日新聞の記者」とは、当時海軍省記者クラブの主任記者だった新名丈夫のことである。新名は一九四四年二月二十三日付の『毎日新聞』に「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」という記事を執筆して軍部を批判した。このことが東條英機首相の怒りを買い、彼は二等兵として陸軍に懲罰召集された。松前重義博士の召集の顛末については松前[一九六八]参照。
2
大阪大学五十年史編集実行委員会[一九八五:二一四−二一五]参照。
3『大阪大学五十年史 部局史』には、当時の航空学科の構成や施設の概要が記されている。「航空学科の施設は工学部本館の右翼一、二、三階を占め、一階には材料実験室と試験塔、発動機実験室、回流水槽が設けられ、教官の研究と学生の実験に供した。〔…〕一方別棟にはゲッチンゲン型口径1m、風速45m/秒の風洞があり、また〔…〕口径3.5m、風速65m/秒の大風洞も研究に用いられた」[大阪大学五十年史編集実行委員会 一九八三:五五八]。
大阪大学五十年史編集実行委員会[一九八三:五五九]、水沢[二〇一七:一八一]参照。
5
飯田[二〇一一]参照。


[参照文献]
飯田周助 二〇一一「私の航空工学との関わり——大阪府立大学航空工学科の創設まで」『鵬』三一:二−五、大阪府立大学工学部航空宇宙工学科同窓会。
大阪大学五十年史編集実行委員会 一九八三『大阪大学五十年史 部局史』大阪大学。
——— 一九八五『大阪大学五十年史 通史』大阪大学。
松前重義 一九六八『改訂新版 二等兵記』東海大学出版会。
水沢光 二〇一七『軍用機の誕生——日本軍の航空戦略と技術開発』吉川弘文館。


この連載は月2回の更新です。
次回は2023年8月1日(火)に掲載予定です。
バナーデザイン:山田和寛+佐々木英子(nipponia)