裏庭のまぼろし 石井美保

2023.8.1

05水底の魚(1)

 

et en fait non

 

 子どもの頃、応接間は家のなかでも異質な空間だった。玄関を入ってすぐの、南向きの部屋。日当たりもよく、客人を迎えるハレの場所であるはずなのに、来客のないときには閉め切られて、どこか陰気で仄暗い。黒っぽい色調の壁紙のせいかもしれないし、窓のすぐ外に池があったからかもしれない。部屋の壁際にはヤマハのピアノが置かれ、棚の上には暗緑色の羽を広げたキジの剝製が、虚ろな眼で虚空をにらんでいた。
 小学生だった私は、ピアノの練習をするときにだけ、応接間に足を踏み入れていた。その日課は苦痛で、少し楽譜をさらうとすぐに飽きてしまう。そんなときにはよくソファの肘掛けに腰掛けて、誰も読んだ形跡のない書棚の本を読み漁っていた。読書の合間にふと目を上げると、硝子戸の中の写真と目が合う。襟に星のついた軍服を着て軍帽をかぶった、若い青年のモノクロ写真。その人が祖父の弟——私にとっての大叔父だということは知っていた。優秀な人だったけれど、若くして亡くなったということも。でもそれ以上、その人について深く知ろうとは思わなかったし、祖父母も詳しくは語らなかった。
 でもいま、若い頃の祖父のことを考えるとき、その弟の存在が、もうひとつの磁極のようにくっきりと浮かびあがってくる。

 青年時代の祖父と大叔父が並んで写っている写真が数枚、実家の古いアルバムに残されている。そのほとんどは、軍服を着た大叔父を中心にした親族の集合写真だ。陸軍に入っていた大叔父が、数年に一度帰省してはまた次の任地へ赴く前に撮影したものだろう。一九四〇年頃に撮られたらしい写真では、家の石垣の前に軍装の大叔父と白っぽい着物を着た祖父が立ち、二人を取り巻くように親戚や近所の人たちが佇んでいる。その前列には半袖のワンピースを着た祖母が膝をついて座り、椅子に座った曾祖父の両脇に、着物姿の曾祖母と高祖母がしゃがんでいる。後景にみえる家屋の様子はいまとそれほど変わらないけれど、軒下に一枚、小さな板が下がっている。酒屋の看板だろうか。
 祖父たち兄弟が二人だけで写っている写真は、それほど多くない。そのうちの一枚は、都島区にあった大阪帝大工学部の構内で、一九四四年の十二月に撮影されたものだ。やはり軍服を着て、地面に立てた軍刀の柄(つか)を握ってまっすぐに立っている背の高い大叔父の隣で、襟付きの白衣を着た祖父は両手を後ろで組み、猫背気味の姿勢でこちらを見ている。大叔父は年が明けてすぐに南方へ出征したのだから、これはその直前に、兄の研究室を挨拶に訪れた時のものだろう。

 七歳違いの兄と弟は、それぞれの仕方で戦争にかかわっていた。兄は航空学科の研究室で爆撃機の開発に携わり、弟は陸軍の将校として、数年にわたってアジアの各地を転戦していた。
 そうした両者のありようは、時代の流れの中でのそれぞれの意志と偶然と、それにたぶん、互いの関係性の帰結でもあった。兄と弟。カインとアベルではないけれど、兄弟の運命の絡まりあいと葛藤は、物語の永遠のモチーフだ。
 大叔父が、自分の兄についてどう思っていたのかはわからない。ただ、祖父のほうには確かに葛藤と屈託があった。祖父は長男として、中学を出てすぐに家業の酒屋を継いだけれど、本心では勉強を続けたかったからだ。

 一九三六年、春。大叔父は旧制中学四年生、十六歳のときに陸軍士官学校(陸士)予科の入学試験に合格した。当時、この小さな村から陸士に進んだ人はいなかった。この快挙に、祖父たち兄弟の父である宇一郎は大喜びし、合格発表の翌夕には近所の人も招いての盛大な祝宴が開かれた。自家製の吟醸酒がなみなみと注がれた大皿には大きな焼鯛がどっぷりと浸かり、酒の盃が賑やかにまわされ、誰かが歌い始めた祝い酒の唄を皆の手拍子が盛り上げる。
 そんな晴れやかな宴の席でひとり、複雑な思いを抱いて杯を重ねていた祖父のそばに寄ってきたのは、彼の教育係でもある番頭の多次郎さんだった。祖父の手記には、酔いのまわった多次郎さんが、祖父の心中をぐっさりと言い当てた時のことが描かれている。

 若旦那、酒はやっぱり気分次第でんなあ。うちの銘酒「朝日杉」が、こないに旨い酒やとは今日初めて知った……なんて言うたら、こらあきまへんわなあ。

 多次郎さんはそうご機嫌に喋りはじめたかと思うと、祖父にひたと目を据えてこう続けた。

 そやけどな、若旦那。この多次郎には、今夜の酒は、ちょっぴり苦い味がしますねん。

 嫌な予感を覚えて話題を変えようとする祖父にかまわず、多次郎さんは喋りつづける。いわく、弟にも負けないくらい勉強のできた若旦那に、丁稚のような修業をさせるのが自分の辛い役目である。そう思ったら、せっかくの酒の味も変わってしまう。

 わたいは一方だけを見てるわけにはいきまへん。大旦那方のほうだけ見てたら、旨い酒になりますねんけど、若旦那のほうを見てたら、ほろ苦い酒になりますねん。

 そう多次郎さんに同情されていたたまれなくなった祖父は、そっと宴席を離れて自室に引き揚げた。ところが、それを見つけて「どないしましてん? 急に逃げ出してしもたりして」と図星をついた祖母を思わず怒鳴りつけてしまい、事態は夫婦喧嘩にまで発展したようだ。祖父にとっては、何ともやりきれない一日だっただろう。
 多次郎さんがはからずも代弁していたように、祖父の心中を複雑なものにしていたのは、進学を諦めて家業を継いだ自分をよそに、好きな進路を選べる弟への羨望だった。これについては祖父自身が、「私は、自分の進むべき道を、自分で選ぶことの出来る自由を持っている人間に対して嫉妬していたのである」と書いている。
 それにくわえて、家業一筋であったはずの自分の父が弟の陸士合格に大喜びしていることに、祖父は悔しさを抑えきれなかったようだ。なぜ、宇一郎はそこまで手放しで次男の合格を喜んだのか。当時、日に日に強まっていく軍国主義の下で、酒造業は厳しい検査と統制の対象になっていた。酒税法違反を取り締まる役人に頭を下げつづけているうちに、曾祖父の脳裏にはいつのまにか、官尊民卑の思想が刷り込まれていったのだろうと祖父は推測している。そんな時勢の中で、曾祖父がその将来に大きな期待をかけたのは、家業を継いだ長男ではなく、やがて「煌びやかな参謀肩章をつけた幕僚として、軍の中枢部で活躍する」であろう次男のほうだった。

 それでは、大叔父はいったいなぜ、陸軍士官学校を目指したのだろうか。それは祖父の言うように、彼自身の自由な選択だといえたのか。
 長男である祖父は、勉強を続けたかったにもかかわらず、家業を継ぐためにやむなく進学を諦めた。その無念と苛立ちを、弟である大叔父は間近にみていたはずである。そんな兄をさしおいて、高い学費のかかる高校、さらには大学へ自分が進学するわけにはいかない。そう彼は考えたかもしれない。ではどうするか。
 文部省系の上級学校とは異なり、陸士は学費のみならず食費や衣料費なども官給であり、しかも卒業後には高等官への任官が約束されていた。また、一九三一年に満洲事変が勃発して以降、軍学校の定員枠は年々拡大されるとともに、進学先としての陸士の人気が全国的な高まりをみせていた。とりわけ、学力はあるが経済的余裕のない地方出身の中学生にとって、陸士は高等学校にかわる有力な進学先だった1
 そうしたことを考え合わせると、大叔父にとって陸士に入ることは、親に経済的負担をかけず、なおかつ兄との軋轢を避けて上級学校に進学するための、ほぼ唯一の選択肢だったといえるかもしれない。いまとなっては大叔父の本心を確かめることはできないが、陸士への進学という彼の決断の背景には、家族、とりわけ兄との関係があったのではないだろうか。

 他方で、弟が陸士に進んだことは、祖父が酒屋の廃業を現実的な可能性として考えるきっかけとなった。祖父が廃業を覚悟した直接的な契機は一九三八年の国家総動員法の施行だったけれど、それだけではなく父や弟との関係性もまた、彼の決断の要因をなしていたと思われる。
 そのひとつは、家業の発展よりも弟の立身出世に期待をかけているかのような、父・宇一郎の態度への失望である。いったい俺は何のために、家業に人生を捧げてきたのか……そう祖父が感じたとしても無理はない。それなら俺だって、好きな道を歩みたい。
 もうひとつは当時、困難な状況にあった酒造業を営みつづけることが、陸軍士官となるべき弟の将来に差し障るのではないかという危惧だった。これについては戦後、祖母が書き残した回想録の中に、わずかに言及されている。
 一九三九年九月七日、大叔父は陸軍士官学校を卒業した。祖母によれば、神奈川県座間の士官学校で行われた卒業式に、彼女と夫は両親の代わりに出席することになったらしい。昭和天皇も臨席したこの式典は、二人に強い印象を残したようだ。

 それは、清冽の気が漲るとでも言ったらよいのでしょうか、陸軍士官学校五百八名、陸軍航空士官学校百二十八名、併せて六百三十六名2の士官候補生が、新しい軍装もりりしく粛然と整列した光景は、私共には全く絵のように見えるものでした。
 遥かに陛下の御英姿を拝し、夢心地であった私は、突如、まるで電光に打たれたように全身が硬直するのを覚えました。四名の士官候補生が横一列に並び、陛下の直前九歩まで進んで、陛下に向かって挙手の敬礼をするのが目に入ったのです。真白い手袋をした右手がさっと上がった時、その一番左の端の士官候補生が貴方であることを私は直感しました。……

 この文章の中で「貴方」と呼ばれているのは、大叔父のことである。この式典を目の当たりにした兄夫婦は、弟のいる場所はもはや自分たちの暮らしから遠く離れた、国家の中枢につながる輝かしい世界だと感じたに違いない。
 ひるがえって祖父母たちの商売は、戦時経済体制の下で、一歩間違えれば官憲に検挙されかねないような危うい状況にあった。政府による酒造業への経済統制が強まる一方で、統制をかいくぐる闇取引が増えはじめていたからだ。弟の将来のためにも、そうした嫌疑をかけられかねない業界からはきっぱりと離れることにした——というのが、祖母のみた祖父の決断の背景だった。

(つづく)

1 山崎編[一九六九:六八]、広田[一九九七]、武石[二〇〇五]参照。
山崎編[一九六九:二六五]によれば、航空士官学校の五二期卒業生は百二十七名。それ以外の士官候補生と合わせた全卒業生数は六百三十五名だった。


[参照文献]
武石典史 二〇〇五「進学先としての陸軍士官学校——明治・大正・昭和期の入学難易度と志向地域差」『史学雑誌』一一四(一二):五五−七九。
広田照幸 一九九七『陸軍将校の教育社会史——立身出世と天皇制』世織書房。
山崎正男編 一九六九『保存版 陸軍士官学校』秋元書房。



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次回は2023年8月15日(火)に掲載予定です。
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