裏庭のまぼろし 石井美保

2023.8.15

06水底の魚(2)

 

son cœur se balance

 

 経済統制と闇取引。それについて、祖母はさらりとふれるにとどめている。けれども、時局の変化や時々の政策に翻弄される中で、当時の酒造業界はかなりの苦境にあったようだ。祖父たちのおかれていた状況をよりよく理解するためには、日中戦争開始以降の酒造業に対する統制の経緯を知る必要がある。

 一九三七年の七月に日中戦争が始まると、政府は食糧を含む生活必需品の生産と流通の統制を本格化させはじめた。この年の八月、酒造業者の団体である酒造組合中央会(中央会)は、酒造組合法に「組合員の営業に関する統制」という項目を追加した。これは毎酒造年度(その年の十月から翌年九月まで)の初めに、中央会がその年度の生産石数を決定するとともに、それぞれの酒造家に対して過去の生産量を基準とした一定割合の減醸を勧告するというもので、当初は酒の乱売を防止するための自主的な規制であった。しかし、それからわずか数年のうちに、酒造組合による自主的な規制は、大蔵省主導の戦時統制へと変貌していく1
 一九三八年四月には国家総動員法が公布される。これ以降、あらゆる分野における戦時統制法が相次いで施行されていった。同年の七月に政府は経済警察を設置し、物資の闇取引をはじめとする統制違反を広範に取り締まるようになる2。また、酒造業への統制は原料である米の需給の管理統制と不可分であったが、一九三九年四月には米穀配給統制法が公布され、米穀取引所の廃止や米穀商の許可制化を通して、国家による米の流通の管理が強化されていった。
 一九三九年九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、九月三日に英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が開戦する。こうした世界情勢の中、酒造組合中央会は同月、一九三九年度の清酒生産量を前年度の約二十パーセント減とする方針を打ち出した。ところがその翌月、米の不作を懸念した政府が清酒の原料米を二百万石(例年は三百七十五万石)とするという通達を出したことから、中央会は同年度における生産量の再検討を余儀なくされる。その結果、同年十一月に中央会は一九三九年度の清酒生産量を前年度に対して四十八パーセント減とすることを決議し、これによってこの年度の清酒生産量は著しく減少することになった3
 このことは、酒造業界にとって大きな衝撃だったようだ。一九三九年十二月に日本醸造協会の発行した『日本醸造協会雑誌』には、「突發(とっぱつ)せる酒類製造制限問題特報」と題した特集記事が掲載されている。この記事の劇的な文体は、それ自体が当時の関係者の気分を伝えているようで興味深いので、その冒頭部分を少しだけ紹介したい4

 現下の食糧充実国策に順応して節米の一環を担うべく、酒造組合中央会が清酒、味淋(ママ)及び新式焼酎につきそれぞれ二割三分減産の決議をなし、数年このかた実行し来(きた)った自治的生産統制を強化して、もってこの難局に当らんとしたことは、僅か数十日前の出来事であった。〔…〕この際突風の如く業界を襲って来たものは、酒類の第二次製造制限の声であった。そうしてそれは国家総動員法に基(もとづ)く勅令として米穀搗精(とうせい)等制限令の酒類及麦酒の製造石数制限の規定となって現われた。〔…〕しかるに同勅令の公布に先(さきだ)ち酒造組合中央会は急遽所定の手続を踏んで、清酒四割八分減醸、その他の酒類についても従前の生産統制割合を増加して、自治的生産統制の方法により、政府の企画する酒造原料米節減の実を挙ぐるの態勢を整えた。しかし本稿締切までには未だ当局の認可を受くるに至らぬらしい。編輯(へんしゅう)部はこの際一応の特報を試みる。〔…〕なお来るべき新年号を時局対策特輯号としたいと思っている。皇紀まさに二千六百年5。宝祚(ほうそ)の隆栄と東亜の新段階と、躍進また更新のこの秋(とき)! 酒造業者の進むべきところ、拓くべきところ、果して如何に6

 この記事からは、突如降ってきた政府の命令に対処するにあたって、中央会があくまで「自治的な生産統制」という方法を堅持しようとしたことがみてとれる。しかし一九四〇年以降になると、それまでのような中央会による生産者への勧告ではなく、大蔵省が中央会に当該年度の原料米を割り当て、中央会が酒造組合を通して各地の生産者に原料米を割り当てるというトップダウンの方式がとられるようになった。
 こうした統制に次ぐ統制によって、一九三九年以降の清酒の生産量は激減し、酒不足が人びとを悩ませるようになる。おりしも、日中戦争開始以降の軍需産業を中心とした好景気の下で酒類への需要は高まっており、この需要に応えるために公定価格を超えた闇取引が横行した。酒の闇価格はみるみる高騰し、酒に大量の水を加えて薄めた「水酒」や、金魚も泳げるほど薄いという意で「金魚酒」と呼ばれる粗悪品が出まわるとともに、「酒屋は酒を水で割って暴利をむさぼる非国民だ」といった悪評が広まったという7

 金魚酒。その響きからは、透明な液体で満たされた瓶の中を、ゆうらりと泳ぐ金魚の姿が眼に浮かぶ。しかしもちろん、実際のところはそんな優雅なものではなくて、それは厳しい統制の下でも酒を売り買いせざるをえない人たちの生みだした、薄くてまずい酒だったに違いない。祖母の回想録にあるように、彼女が夫とともに義弟の卒業式に出席したまさにその年の秋以降、酒造業界は激動の時期に入り、生産者たちも闇取引の嫌疑や「非国民」といった誹りを受けることになったのである。
 そうした中で、祖父はついに酒造業に見切りをつけ、一九四二年に酒屋を廃業した。その後の苦労について祖母は、「主人にとっては勿論、私にとっても荊(いばら)の道を行くことになったのです」と綴っている。けれどもこの廃業は、祖父が後年、電気工学の研究者となる道を開いたという意味で、結果的に彼の人生を好転させる契機になったといえる。
 その一方で、陸軍士官学校の卒業式で晴れ姿を見せ、家の者たちにとっての「希望の星」となった大叔父の運命は、時代の流れの中でやがて暗転することになる。

 ところで、弟の陸士合格に複雑な思いを隠しきれなかった祖父は、いつまでそうしたわだかまりを抱いていたのだろうか。兄と弟は、互いにぎくしゃくした関係のまま、大阪と東京に遠く離れて疎遠になってしまったのだろうか。
 当時の二人の心情を知る手がかりは乏しいけれど、一九三六年六月、陸士の予科生として東京の市ヶ谷台にいた弟宛に、祖父の書いた一通の手紙が残っている。

 どうだい元気かね? 軍服ももう板についた頃だろう。手紙によると予科は主として兵卒としての訓練をするそうだね。中学と違って一寸(ちょっと)骨だろう。然し、将として兵を動かすには先(ま)ず兵を知らねばならず、兵を知るには先ず己れが兵にならねばならぬ事を思えば当然の事だね。
 演習はどうだった? 一年生として、さぞ上級生の機敏な活動に驚嘆した事だろうと同時に、自ら省みて道遠しの感をいだいた事だろう。上級生の訓練は相当猛烈な様だね。然し、その猛烈さが「当たり前」という程度に至ればもう〆たものだが、どうだい、やれそうかね?〔…〕
 いいか、お前は軍人として将来しっかりとその本分を尽すんだ。俺は銃後の一員として、涙ぐましい軍人の奉公の誠を、世の人々にはっきりと認識せしむる事に努力しよう。故直木三十五氏は「日本の戦慄」8を書いたが俺も何か軍国日本の理想的干城(かんじょう)をえがき度(た)いと思っている。それも確(たしか)に君国の為だと思うが——

 お前が陸士に入学出来たという事を、俺は他の誰にも負けず喜んでいるのだという事が、今になって始(ママ)めてはっきりとした観念になって認識されたよ。
 妙なものだ。人間の気持なんて、実際分らないものだよ。然し「分らない」とは、「どう変化するか知れたものじゃない」と言う意味ではなくて、平常自分のいだいている観念が、或る一(ひとつ)の事実にぶっつかって、始めて、「やはりこうだった」と証拠だてられねば、はっきりと認識され難いという意味だよ。
 俺はお前の入学を「うれしい」と思った。が俺はそれを極めて率直に「うれしい」とどうしても言えなかった。俺の気持が分るかね? いいか、もう少し辛棒(ママ)して先を読んでくれ。
 然し、俺はふと、陸士を受験して失敗した時のお前を想像したんだ。俺は考えただけでもたまらなかったね。つまり「家貧しくして孝子現わる」と同じ理屈だ。
 お前が余り順調に成功したので、実際の所、合格の報を得ても余り頭にピンと来なかったんだ。俺はお世辞を言うのが極めて嫌いな方だからな。実際余り感動を受けないのを、甘(うま)く表現出来なかったんだ。父母は俺を冷淡だと責めたよ。が俺は決して弟を想う情に変わりはないと信じているし、実際自分で不思議だった位だ。
 が今やっと原因が分った。それは俺が余りお前を信じ過ぎたからだよ。というのは、俺は一度だって、お前が試験に失敗する——なんかと深刻に考えた事はなかったんだ。何だか「奴あ何とかうまくやるだろう」という気がしてならなかったんだ。つまり何時の間にか、「試験に失敗するお前」を想像出来ぬ位に、極めて自然にお前を信用していたんだよ。いやそれに違いないんだ。丁度、父母がお前が中学に入学出来た時に、俺が入学した時程大さわぎをしなかった様に……
 此の一寸した事に気がつかないで、俺は俺の心をまで疑ったりしていたんだが——やっと原因が分って俺は救われた様な気持だ。愉快だよ。〔…〕

 この手紙の続きで祖父は、自分の友人が弟の陸士合格を知って大いに驚いたことから、弟のことをよく知らない者ほど驚愕するのであって、弟をよく理解している自分が驚かなかったのは当然だということに気づいたというエピソードを記している。そして、己を他人に理解してもらうためには素直かつ率直にふるまわねばならないと弟を諭した後、「最後にもう一言。いいか、絶対に自己をあざむくな! 此れだ!!」という力強い言葉で彼は手紙を締めくくっている。

 うーん、でも、これって言い訳やん……。と、初めて読んだときにはそう思ったのだけれど、何しろこれは、まだ二十代の初めだった祖父が、十六歳の弟に書いた手紙だ。そう思って読んでみると、微笑ましくも感じられる。祖父が晩年に書いた手記の中では、自分が当時、好きな道を進んでいける弟への羨望と葛藤を抱いていたことが吐露されているけれど、この手紙では、祖父は弟だけでなく自分自身に対しても、「嫉妬ではない」と思いこませようとしているかのようだ。
 弟は花の東京で、陸軍士官を目指しての新生活。かたや自分は大阪の片田舎で、酒屋の前掛けをつけて配達の日々。それでもこの手紙からは、年の離れた兄としての沽券というか矜持のようなものを、精一杯保とうとしている祖父の心情が透けてみえる。
 興味深いのは、当たり前かもしれないが、祖父が完璧な標準語で弟への手紙をしたためていることだ。普段は関西弁を話していたのだから、祖父にとって標準語は、主に書簡の中でだけ使う特別な言語だったに違いない。そこに表現されているのは、理想主義的な近代青年としての祖父の姿だ。大阪の片隅にいながらにして、祖父もまた、上京した弟と同じように近代青年としての自己形成の途上にあったのだ。

 兄と弟。そのそれぞれが、互いに影響を与えあいながら成長し、進むべき道をその都度模索しながら、時代の趨勢の中で自己実現を目指していた。兄は、酒屋から徴用工を経て研究者の道へ。弟は、陸軍士官学校を出て将校の道へ。
 そのとき彼らにとって、どこまでが自分の意志や決断であり、どこからが他者の希望や時代の要請への服従であり、あるいは偶然のなせる業だったといえるのか。それをにわかに判断することは難しい。おそらく、そのいずれでもあったのだろう。
 それでも現在の視点からは、同じ両親のもとに生まれ育ち、途中まで重なり合いながらも徐々に異なる軌跡を描いていく二人の足取りがみえてしまう。時代の流れと戦時情勢の変転の中で、それぞれの運不運はどのように反転し、生死の分かれ目はどこにあったのか。
 本当のところはわからないけれど、二人の足跡を辿っていくときにふと、崖の上に立って眼下にうねる渦潮を見ているときのような、底知れないこわさを覚えることがある。

 応接間の窓の外、楓や万両の植え込みの陰にあった小さな池にはかつて、数匹の魚が泳いでいた。「鯉ちゃん」と母は呼んで餌をあげていたけれど、ひょっとするとあれは、大きくなった金魚ではなかっただろうか。その池もいまはすっかり枯れ果てて、茶色い底面を露わにしている。
 けれどもこの文章を書き終えたいま、透明な液体をたたえた一升瓶の中をふうわりと泳ぐ金魚のイメージと、暗い池の中をゆっくりと横切っていく斑(まだら)模様の魚のイメージが、遠い過去と近い過去とをつなぎながら、頭の中にたゆたっている。



1青木[一九九九:七−八]、板垣[二〇〇九:二〇]、二宮[二〇一四:四八一−四八二]参照。
2二宮[二〇一四:四八四]、金[二〇一七]、李[二〇一九:六六]参照。
3板垣[二〇〇九:二〇、二〇一一:五]参照。
4引用にあたり、記事中の旧字体は新字体に変更し、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めている。
5皇紀とは、神武天皇が即位したとされる年(西暦紀元前六六〇年にあたる)を元年とする紀元。一九四〇年は皇紀二千六百年とされ、国家的な祝賀行事が行われた。
6日本醸造協会[一九三九:一一七〇]。強調は筆者による。
7板垣[二〇一一:五]、二宮[二〇一四:四八四−四八五]参照。
8直木三十五(一八九一〜一九三四)は大阪出身の小説家、脚本家、映画監督。『日本の戦慄』は一九三二年に中央公論社から出版されている。


[参照文献]
青木隆浩 一九九九「戦時統制下の清酒業における生産統制と企業整備——埼玉県、栃木県の事例を中心に」『歴史地理学』四一(二):一−二二。
板垣由美子 二〇〇九「酒類販売統制機関の実態——1941年〜1945年における資金調整」『歴史と経済』二〇五:一九−三二。
——— 二〇一一「酒類流通における流通統制の影響——酒類卸売業者の分析」『MMRCディスカッション・ペーパー・シリーズ』三三八。
金 守香 二〇一七「戦後の経済警察と「経済犯罪」」『中央大学政策文化総合研究所年報』二一:一一三−一三一。
二宮麻里 二〇一四「酒類産業における生産・流通規制」『福岡大学商学論叢』五八(四):四六九−四九五。
日本醸造協会 一九三九「突發せる酒類製造制限問題特報——新法令の解説を試みて其の対策に及ぶ」『日本醸造協会雑誌』三四(一二):一一七〇−一一七七。
李 杏理 二〇一九「『東亜新聞』からみる酒造規制と在日朝鮮人」『社会科学』四九(三):六五−八二。




この連載は月2回の更新です。
次回は2023年9月1日(金)に掲載予定です。
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