裏庭のまぼろし 石井美保

2023.9.1

07縁側の椿(1)

 

a breath of air

 

 大阪府の北端にある実家の付近一帯は昔、「氷室村」と呼ばれていた。その名に違わず、冬の実家はとても寒い。木造の平屋建てなので、隙間風と底冷えがひどく、下手をすると家の外よりも中の方が寒いくらいだ。実家に住んでいた頃は、しもやけが冬の風物詩だった。そんな冷えびえとした家の中でも、縁側だけはぽかぽかと暖かい。南向きのそこは庭に面していて、窓の外に寒椿が紅い花をつけているのがみえる。晴れた日にはたっぷりと陽が差し込んで、木の床を温める。その、家で唯一の「ぬくい」場所に座布団を敷いて、祖母はよくこまごました手仕事をしていた。
 小学生だった私は、ときどき祖母と一緒に縁側に座って、ちぎり絵や編み物を教えてもらっていた。編み物といっても、すいすいと編み針を動かしてセーターやチョッキを編み上げる祖母の腕前には遠く及ばず、私が習得できたのはほぼ鎖編みだけだったけれど。いろんな手芸を教えてもらった中でも、小さな二枚貝を端切れで包み、紐を挟み込んだ飾りを作ったことは鮮明に覚えている。可愛らしいものができて、嬉しかったからだろう。
 祖母は器用で、母や伯母の着物を簞笥一杯に手作りしていたらしい。和裁もすれば俳画も描き、畑でさまざまな花や野菜を育てていた。いま思えば多芸だったのかもしれない。それとも祖母の世代の女性にとって、そんな風にいつも何かしら手を動かしていることは、いたって普通のことだったのだろうか。

 一九一二(明治四十五)年生まれ、祖父より一歳年上の祖母は、なかなか気丈な人だった。いつもズバリとものを言い、身内に手厳しいところもあった。私の知るかぎり、祖父は完全に祖母の尻にしかれていて、よくやりこめられていたけれど、それをまったく苦にしておらず、そんな厳しいところも含めて祖母にぞっこんだったようだ。
 二人は一九三四年、祖父が二十一歳、祖母が二十二歳になる年に結婚した。そもそも、曾祖父母が長男の縁談の相手として祖母に白羽の矢を立てたのは、彼女がこのあたりでも評判のしっかり者だったかららしい。結婚した当初、祖父は亭主関白にふるまっていたようだけれど、祖母は初めからそんな祖父をけっこうクールにみていたのではないか。
 その祖母にも、そういえば戦時中のことはほとんど聞いたことがない。話したくなかったのか、それともそんな昔のことには誰も興味がないだろうと思っていたのか。わずかに、戦争のときには裏の畑で食料を作っていたが、水だったか肥だったかを担桶(たご)で運ぶのが大変だったと聞いたことがあるくらいだ。
 ただ、祖母は戦後、それまでの人生を振り返った短い文章をいくつか書き残している。それに、家族の歳時記としての句集も。それらを読むと、祖母にとって当時の暮らしがどのようなもので、彼女がその中で何を思っていたのかが垣間見えてくる。

 祖母の残した随筆のうち、ひとつは大叔父について書かれたものだ。彼女が嫁いできた当時、まだ十三、四歳だった義弟との出会いは、祖母にとって印象的なものだったようだ。彼女はこんな風に綴っている。

 花嫁の後ろに立てられた金の六枚折屛風が「ジリッ」と少し前に押し出されて動いてくる。私が伏し目がちにソッと見てみると、屛風の陰から、いがぐり頭の可愛い男の子がのぞいて直ぐ又引っ込んだ。それは昭和九年の三月、当時旧制中学の一年生であった英夫さん、あなたでした。

 この随筆によれば、大叔父は裏山で小鳥を捕まえてきては鳥飯を炊いてくれとねだったり、スモモの実をもいできては手渡してくれたりと、大所帯の嫁ぎ先で気苦労の絶えない祖母の心を和ませる存在だったらしい。「とにかく、何でもよく気のつく可愛い男の子でした」と、彼女は書いている。
 その義弟は、陸軍士官学校に入学するために十六歳で生家を離れて東京へ旅立った。離れて暮らすようになってからも、祖母は歳の離れた義弟のことをずっと気にかけていたようだ。一九四三年、二十三歳になった大叔父がティモール島に赴任していたときに、祖母が彼の婚約者の母に宛てて書いた手紙からは、一向に便りをよこさない義弟に呆れながらも、彼の無事を祈る祖母の心情が伝わってくる。

 〔…〕英夫さんも此の度大尉に昇進なされし由 一家の名誉此の上なしと喜び居ります
 五月に朝鮮の連隊長殿より昇進のお祝状戴き恐縮致しておりました 本人よりは何の音沙汰もなく全くののんき坊にあきれて居る始末で御座います でもお宅の方へ便りありましたとの事に一同安心致しています 何卒無事御奉公されますようそれのみ祈っています
 先月英夫さんの当番兵だったと云う方がお出(い)で下されいろいろジャワでの生活をお知せ下さいました それから海南島以来同隊におられた軍医中尉の中嶋様が此の度靖国神社に参拝の途中種々戦地の様子をしたためて老父の無聊(ぶりょう)を慰めて下さいました
 中嶋様の書面によりますと只今チモール島に移動されたようです 地図の上ではついそこの様でも船でジャワから四日かかり、物資の少(すくな)いこと暑いこと ジャワに比べて丁度地獄と極楽だと申して居られます 青物等も全部乾燥物ばかりでそれに連日の空襲で宿舎も壕の中にあり 鬱陶しいこと内地の梅雨どころでないとのことであります 〔英夫さんの〕デング熱も大した事なく全快された由 家内一同安心致しています〔…〕

 祖母の残した文章には、しばしば義弟との思い出が細やかに綴られている一方で、夫である祖父のことについて、自分の心情も交えてそれほど詳しく書かれたものは見当たらない。祖母にとって、夫との関係は日々変化しながら現在進行形で続いていくものだったのに対して、義弟とのかかわりは途中で断ち切られたまま、心の中で何度も思い返されるものであり、そうした想いを発露する場所が必要だったのかもしれない。

 『家の暦日』と題された祖母の句集には、日常のあれこれの出来事に加えて、戦争について詠まれた俳句がいくつも収められている。いま私の手元にあるのは、祖母の手稿を祖父が清書したらしい、原稿用紙に黒いペンで書かれた八十ばかりの俳句だ。

春寒やいくさの匂ひ何処より   昭和十四年

千人針乞ふて佇ちをり花の下   昭和十八年

防人は待てど帰らぬ虫の夜夜   昭和二十一年秋

 祖父と祖母が戦後、戦時中の自分たちの暮らしや社会のありようを振り返って、どんなことを思っていたのか。それも聞く機会のないままだった。けれども、いまは亡き義弟に語りかけるようにして書かれた祖母の随筆の下書きには、それを示唆する文章が残されている。

 それからあなたは初めて少尉として朝鮮の輜重(しちょう)兵十九連隊付として北鮮に任官していきました。〔…〕
 その頃既に日本は、すべての面で大東亜共栄圏盟主の旗印を掲げた軍主導の国家に変貌していました。その行き着く所が、まさか敗戦国であろうとは、誰が思ったことでしょう。〔…〕やがて昭和十六〔一九四一〕年十二月八日、日本軍がマレー半島に上陸開始と同時にハワイ真珠湾攻撃が実行され、わが国は米英両国に宣戦布告するという事態になってしまいました。詳しいことは何も知らない私達が、当初、わが軍連戦連勝のニュースに喜んでいたことは、いったい何だったのでしょう。無知な私達であったとは言え、今から思うと悔やんでも悔やみ切れない思いです。〔…〕

 大叔父が輜重兵第十九連隊付として朝鮮半島に赴任したのは、一九三九年のことだ。一方で祖母がこの文章を書いたのは一九七二年、戦後二十七年が経とうとする年だった。開戦前後の戦況と当時の世情にふれたこの箇所には、元の文章に祖母自身が赤ペンで多くの修正を加えている。赤い線で消されているが、「その頃既に……」から始まる二段落目の元の文は、「その頃日本陸軍は大東亜共栄圏とか云って、ますます海外に侵略の手をのばしています」というものだった。

(つづく)

 

*挿画を担当しているイシイアツコさんの個展が開催されます。
・manifesto gallery(大阪・天満橋駅徒歩)9月11日(月)~9月20日(水)(www.14thmoon.com/)
・books &gallery ラシューム(広島県福山市)9月13日(水)〜19日(火)
休館日等、詳細をお確かめの上、ぜひお越しください。


この連載は月2回の更新です。

次回は2023年9月15日(金)に掲載予定です。
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