裏庭のまぼろし 石井美保

2023.9.15

08縁側の椿(2)

 

 

 

 この随筆だけを読むと、戦時中、祖母たちは大局的な政治状況については新聞やラジオといったマスメディアの他に情報源をもたず、官製のニュースを信じ込んでいたようにみえる。その一方で、祖母は当時からそうした情報を鵜吞みにするばかりではなく、自分たちの生活にかかわるような局面では、比較的冷静かつドライに時局をみていたのではないかと思わせる節もある。
 それを示すひとつのエピソードが、祖父の手記の中に描かれている。それは一九四二年の春、国民徴用令をめぐって二人がちょっとした議論を交わしたときのことだ。当時、日給二円二十銭の普通工員として枚方製造所に勤めていた祖父は、苦労して夜学を出たにもかかわらず、せっかくの知識や技術を活かせないでいることに鬱憤を募らせていた。

「徴用令なんて、適材適所どころか、人材を泥溝(どぶ)に捨てるようなもんで、非常時の国家に役立つもんやないで、ほんまに……」

 そう愚痴をこぼす祖父に、祖母はからかうような言葉を返している。

「ほんなら、あんた御自身は、自分が人材やと思ってはるわけや。えらい自信がおますねんなあ」
「俺が人材と言えるかどうかは、ほかの人が決めることやさかい、自分ではなんとも言えんこっちゃがな。そんなことくらい分かってる。そやけどな、徴用令で折角人を集めても、人を駄目にするだけで、国家のえらい損失やということだけは確かやで」

 そう言い返す祖父の言葉を、「そらそうどす」と受けとめた上で、祖母は徴用令について、祖父には思いもよらなかった見解を述べている。

「そやけど、徴用令の悪口ばっかり言ってたらあきまへん。徴用令のお陰で、あんたも私も助かってるんですわ」
「徴用令のお陰で、父さんに文句を言われずに廃業できたということか?」
「そんな利己的なことばっかり考えてたら、大きい人間にはなれまへんで。徴用令で軍需産業に人が集められたために、商家の人手不足が起こって、その人手不足のお陰で、廃業するうちの従業員の身の振り方が、うまい具合に決まって再就職の口にありつけたことになりまっしゃろ。つまり、あんたは、徴用令のお陰で蔵元としての自分の責任を全うすることができたという訳でおますがな」

 「そう言えばそうやなあ、確かに……」と、妻の言葉になかば納得しながらもいまだ釈然としない面持ちの祖父に、祖母はおっとりした口調でこう言ったという。

「時世時節ということがおますやないか。もう少し長い目でみましょ。何が起こるか分からん時代ですよって、またどんな良いことが起こらんとも限りまへんよってなあ……」

 この祖母の予言どおり、祖父はそれから数ヶ月後、枚方製造所の敷地内で大阪帝大の川原教授と再会し、科学技術動員体制の拡充の下で新たな職をつかむことになったのだった。

 一九三〇年代の終わりから一九四五年にかけての時局の変転の中で、祖父と大叔父の二人はそれぞれの職業を通して戦争にかかわり、ダイレクトにその影響を被っていた。対して、祖母はこの間一貫して、家の中の仕事を切り盛りしていた。炊事、洗濯、針仕事。薪割り、水汲み、畑仕事。子どもの世話、夫の世話、義理の両親の世話。それに加えて、祖父が酒屋を廃業するまでは店や蔵の仕事も手伝っていた。
 祖母がしていた家事の多くは、いまであれば「ケア労働」と呼ばれる仕事だ。とりわけ彼女にとって、パーキンソン病を患っていた義父と、高齢になって認知症を患った義祖母の世話は大きな負担だったようだ。祖母の手記にはくりかえし、その頃の辛かった思い出が綴られている。
けれども、晩年近くなって書かれた回想録の中の「糟糠の妻」のイメージと、戦時中に書かれた彼女自身の手紙や、祖父の手記に登場する祖母のイメージは若干異なっている。戦争、廃業、食糧不足。農地改革に家族の介護。戦時中から戦後にかけて、次々と降りかかってくる困難を甘んじて耐え忍ぶばかりではなく、時局の変化とその影響をその都度察知しながら日々の仕事をこなし、家族の生活を維持していく胆力と、ある種の自信のようなものが、そこにはみてとれる。偉そうな男たちの始めた時代のゲームに否応なく巻き込まれながらも、いつの世も変わらない裏庭での仕事を一手に引き受け、結局は自分がいないと何もまわらないことをわかっている人の、それは腹立ち混じりの自負でもあっただろうか。

 そうした生活の中で、祖母はささやかな創作活動を続けてもいた。戦時中にも娘たちのジャケツやハーフコートを編み、義弟の婚約者だった文子さん宛の手紙には、婦人雑誌に出てくるようなおしゃれな女性のイラストを描いて送っている。そうした手紙にはしばしば、詩や童謡の一篇が添えられていた。一九四三年の春に、祖母が文子さんに書き送った手紙もそのひとつだ。

 つくしにたんぽぽに田舎はすっかり春の風情で御座います その後ご家内様お揃(そろい)の程 只今御親切なお便りに接し有難く存じています〔…〕
 こちらもお蔭様で一同無事に暮して居ります
お父様は でもだんだんと手足が不自由になり 御飯等は頂かれなくなりました 時々容子が「おヂイちゃんは赤チャンみたい」と云って笑いますの
お母さんも此の冬はなかなか達者に過されました
赤ん坊が生れてから(二月九日出産)一層家の中が忙しくなってお父さんの身のまわりの世話やら子供のお守でなかなかです〔…〕
容子もだんだん成長致しましてなかなかお姉さまぶりを発揮致しますので大笑いです 赤ん坊の沐浴のまねごとやらお宮まいりのまね等お人形相手にとてもよく遊ぶ様になりました 御飯も一人で頂きますので「お祖父チャンが羨しいヨ」等と申されます
先日頂きましたツミキもだいぶ積める様になりました〔…〕
只今は又、お手間のこんだお人形の数々頂戴致しまして有がとう存じます
御器用なお手なみの程うかがわれてまいります 子供より私までが嬉しく拝見致しました〔…〕

 この手紙の最後には、鈴をつけた猫のイラストとともに、「ワタシモオ姉様」という詩が綴られている。「ヤサシイヤサシイオ姉チャマ 容子ハ三ツニナリマシタ」という一節から始まるこの詩は、数え三歳になったばかりの長女になりかわって祖母が書いたものだろう。この手紙を読むと、祖母はこの頃、すでにパーキンソン病が進行して食事もままならなくなった義父の世話をしながら、まだ幼い長女と、生まれたばかりの次女(私の母)の世話に明け暮れていたことがわかる。当時、祖父は枚方製造所での工員勤めを続けており、大叔父はティモール島に赴任していた。
 祖母の手紙からはまた、彼女と文子さん一家との間で、しばしば贈りものがやりとりされていたことがわかる。それは、やがて姻戚となる家同士の儀礼的な交換というよりも、祖母と、文子さんとその母という女性たちの間の、ささやかな情愛のやりとりであったように思われる。祖母は当時、まだうら若い少女だった文子さんを楽しませるようなイラストや詩をかいて送り、遠方にいる義弟の代わりに食べてくれといって餅を送り、裏の畑で採れた野菜を送っている。他方で、東京の文子さんとその母からは、祖母の娘たち——文子さんからみれば、自分の婚約者の姪たち——に積み木や手作りの人形がプレゼントされている。文子さんから祖母への手紙にも、きっと時折、可愛らしい絵や詩が添えられていたに違いない。
 それらの贈りものは大仰なものではなく、暮らしの中で自分で創りだすことのできる、ささやかで何かしら美しいもの、心愉しいもの、生活に喜びをもたらすものだ。そうやって彼女たちは、戦時中もお互いを楽しませることに心を砕いていた。

 そうした祖母たちの手紙からは、戦前から戦後まで一貫した、生活の基層のようなものを感じとることができる。それは、ある時代に総がかりで行われたひとつのゲームに完全に組みこまれたり、その色調に塗りつぶされたりすることのない、重層的な日常の営みだ。そうしたものこそがおそらく、戦時中の生活を支えるとともに、激変した戦後の日々を彼女たちが生きつづけていくための素地となったに違いない。炊事、洗濯、針仕事。畑の世話に人の世話。そうした日々のくりかえしの中で、自分の手を動かして何かしらの喜びを生みだしていくこと。暮らしを営んでいくための基本的なことがらは、戦時中も戦後も、さほど変わらないのだから。

 そしてまた、家族の毎日の暮らしを支え、時局の変化の中でもその芯を形づくっていたのは、そうした襞のように重層的な生活の基層であったとともに、祖母という女性の重層性だったのかもしれないと思う。
 私の知る祖母は、当たり前だけれど私にとっての「おばあちゃん」としての祖母だ。しっかり者で、草花に詳しく、孫には優しいが夫にはけっこう辛辣。けれども祖母の手紙や随筆を読むと、それだけではない、多面的な女性としての彼女の姿が浮かびあがってくる。それは私の抱いていた祖母のイメージと重なりながらも、ある時代の中を懸命に生き抜いてきた人の意志と感情と重みをともなって、私の前に新たに現れてきたものだ。

 縁側から前庭に出て、離れの脇の小道を通って裏の畑へ。そうやって庭の樹々や畝の間を歩きまわっていると、祖母のことが思いだされる。春も、夏も、秋も、冬も。暇さえあれば庭に出て、草花の世話をしていた祖母。庭も畑も、彼女のことを憶えていて、静かに懐かしんでいるような気がする。庭も畑も、祖母の厳しさと優しさに、祖父と同じように心酔していたのかもしれない。

 

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・manifesto gallery(大阪・天満橋駅徒歩)9月11日(月)~20日(水)(www.14thmoon.com/)
・books &gallery ラシューム(広島県福山市)9月13日(水)〜19日(火)
(https://lashumabp.jimdofree.com)
休館日等、詳細をお確かめの上、ぜひお越しください。


この連載は月2回の更新です。

次回は2023年10月1日(日)に掲載予定です。
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