裏庭のまぼろし 石井美保

2023.10.1

09絹糸のひかり(1)  

 

I'll WAIT FOR YOU THERE

 

 曾祖母のことは、写真でしかみたことがない。家の石垣の前で、椅子に座った曾祖父の隣にしゃがんでいる姿。縁側に座布団を敷き、曾祖父と並んで正座している姿。眼鏡をかけて座卓の前に座り、裁縫をしている姿。いつも控えめに微笑んでいる写真の中の面影から、素朴で温和な人柄が伝わってくる。
 家では、曾祖母は「ハルエばあさん」と呼ばれていた。母によれば、ハルエばあさんは自分の孫である母とその姉をとても可愛がってくれたそうだ。親に叱られた時など、母はよく曾祖母に泣きついて、慰めてもらっていたという。我が家には、そんな「優しかったハルエばあさん」の思い出が語り継がれているのだが、家に伝わるもうひとつの伝説は、彼女の夫だった宇一郎の伊達男ぶりである。やや目尻の下がったハンサムな顔立ちに着流し姿、若い頃には地元でも評判の色男だったという曾祖父の浮気性に、曾祖母はけっこう苦労もしたようだ。
 そうした生前のエピソードを断片的に伝え聞いてはいたものの、おぼろげだった曾祖母の姿がたしかな像を結びはじめたのは、彼女の書き残した手紙を読んだここ最近のことだ。それは曾祖母が、自分の末息子の婚約者である文子さんとその家族に宛てた数通の書簡だった。
 直筆の手紙は、その内容だけでなく、筆跡や余白が多くを物語る。黒々として明晰な祖父の筆跡。くずし字でも美しく、読みやすい祖母の書き文字。それらに比べると、曾祖母の字は筆圧も弱く、よろよろとしている。改行や句読点もほとんどないので、とても読みづらい。でもその分、真心をこめて一所懸命に書かれたのだろうと思わせる。

 手元にある戸籍簿によれば、曾祖母は一八八三(明治十六)年五月二十日、大阪市西区裏新町二十一番屋敷というところに生まれている。聞くところによれば、曾祖母の生家はもともと大阪市内で酒造業を営んでいた。ところが曾祖母が生まれて間もなく、その家の蔵で造った酒が腐造してしまうという事態が続いたため、困った一家は酒造りのための新天地を求めて北河内に引っ越してきたのだという。
 一九〇五(明治三十八)年の五月、家同士が同業であった縁で曾祖母は曾祖父の元に嫁ぎ、以来、一九六四(昭和三十九)年の四月に八十歳で亡くなるまで婚家に暮らしつづけた。夫の宇一郎は一八八五(明治十八)年生まれだから、祖母の場合と同じく曾祖母もまた、夫より年上の「姉さん女房」だったことになる。
 結婚から五年後の一九一〇(明治四十三)年六月に曾祖母は長女を出産し、その三年後の一九一三(大正二)年七月に長男、つまり私の祖父を産んでいる。そして、これは戸籍簿を見てはじめて知ったのだが、これまで「次男」だと思いこんでいた私の大叔父は、曾祖父母の三男だった。長男である祖父と大叔父の間には、実はもうひとり息子がいたのであり、この次男は一九一六(大正五)年の二月に生まれて数日後に亡くなっている。大叔父が誕生したのはその四年後、一九二〇(大正九)年三月のことだ。
 祖父と大叔父は、二人兄弟だと思っていた。事実その通りなのだけれど、二人の年齢が七歳も離れていることの背景には、そうした事情があったのか。
 生まれたばかりの子どもを亡くした曾祖母が、当時どれほどの悲嘆を味わったのか、それはいまとなってはわからない。けれどもその後、三十六歳になって生まれた末っ子を、彼女がこの上なく大切に慈しんでいただろうことは想像に難くない。曾祖母が書き残した手紙の文章は、そのことを示して余りある。一九四一年六月、東京の文子さんに宛てた手紙で、曾祖母は次のように書き綴っている1

 御家内様御快健にておすごし遊(あそば)されますか お尋ね申し上げます 〔…〕在京中は一方ならぬお世話様に相成り 英夫も親者もおよばぬ御厚情に預(ママ)り御礼の申し上げ用もなき事と一家一同悦んで居ります 何卒貴女様より御両親様へよろしくおつたえ下いませ
 英夫も去る〔四月〕廿(にじゅう)三日元気よく目出度く出征致しました 本人は申す迄もなく一家の光栄と一同悦んで居ります そして私も千人針致しましたのですが 真心込(こめ)てお送りされた貴女の千人針身に付けて そして家を出る時文子様の写真を出し 元気よく行〔っ〕て来るよと申しますのを見て思わず袖をしぼりました〔…〕
 慰問袋を送り度(た)いと存じ そして其中へ東京で頂きましたあのお人形の絵を入(いれ)て置きました 定めし悦ぶ事と存じます そして私の心配は只英夫が病気してはとそれのみ心にかかります 元気で立派に御奉公の域をつくしてくれます用にと毎日神様や佛様へお祈り申して居ります 文子様も私にかわり慰問文をどしどしお送り下い そして武運長久をお祈り下い〔…〕

 この手紙に書かれている通り、一九四一年の春、大叔父は陸軍自動車学校を卒業してすぐに東京を発ち、大阪の実家で数日を過ごした後、神戸港から海外の任地へと出帆した。時に大叔父は二十一歳、その母であるハルエは五十七歳。
 千人針というからには近所の人たちにもひと針ずつ縫ってもらったのだろうが、大部分は曾祖母自身が仕上げたに違いない。出征にあたって大叔父が身につけていったのは、でも自分の母のではなく、婚約者である文子さんの手になる方だった。曾祖母にとってそれは少し淋しく、切ないことだったかもしれない。それでも、遠い任地にいる息子が喜ぶようにと、彼女は慰問袋にも文子さんの描いた絵を入れてやり、自分にかわって手紙を書いてやってくれと彼女に頼んでいる。
 その翌年、一九四二年の十月末に書かれた曾祖母の手紙は、次のようなものだ。

 昨日は御手紙有難う御座いました それに御写真迄御同封下(くださ)れ厚く厚くお礼申し上ます ほんとに御丈夫にお成り遊されました御姿相見致し心からうれしく存じました〔…〕
 容子はとても可愛く紅葉のお手てでお祖父様お祖母様のお肩をたたいてくれます それに〔在京中に〕文子様がやさしくお肩をたたいて下いました事を主人と共に何日も感謝致して居ります〔…〕
 過日今井少尉殿が御越し下いましてあまりのうれしさで御挨拶も出来ず袖をしぼりました お笑(わらい)になりました事と深くはじ入(いり)ました 私はほんとに泣上戸ですな お笑い下い でも今度御目にかかります時は必(きっ)と泣(なき)ません 
 栗少々御送り申しましたから何卒お召し上り下い 末筆ながら御両親様へよろしくおつたえ下い〔…〕

 当時、大叔父はジャワ島に赴任していた。この手紙に出てくる「今井少尉(仮名)」は大叔父と同じ連隊にいた人で、任地から神戸の実家に一時帰省した折に、大阪の僚友の家にまで赴いて現地の様子を色々と家人に教えてくれたのである。わざわざ立ち寄ってくれた今井少尉の姿を目にした曾祖母は、感涙のあまり碌に挨拶もできなかったようだ。曾祖母は本当に涙もろい人だったようで、彼女の手紙には「袖をしぼりました」というフレーズが何遍も出てくる。
 その一方で、生前の大叔父が文子さんに宛てて書いた手紙からは、ひょうきんでお茶目な曾祖母の姿も垣間見える。一九四〇年の秋、曾祖父母は世田谷の陸軍自動車学校に通っていた息子を訪ねるために上京した。その折に二人は、息子の下宿の近所に家を構え、何くれとなく彼の世話を焼いてくれていた文子さん一家との親交を深めたようだ。
 この手紙の中で大叔父は、自分が下宿を留守にしている間に文子さんが訪ねてきてくれたことを知り、留守番をしていた母ハルエにそのことを確かめたときのことを、次のように書き送っている。

 文子チャン 今日はおやつ有難う それに写真とお花も……
 今日は午後の六時頃帰って来た
 勉強室に足をふみ入れると急に文子チャンらしい匂がするので「おや?」と思って四周を見廻したがそれらしい影が見えない まさかと思ったが椅子の下を見た でもみあたらぬ よく見るとお花がひとりで笑っている〔…〕
 やっと落ちついて「お母様!(いや おかアチャンだよ アハ……)文子チャン来たの?」と叫ぶと「いいえ まだいますよ ホーラ」と言って例の写真を顔の前にかぶせて入って来られた よく見るとこの前貰う約束をしていたあの写真だよ〔…〕

 文子さんの写真を顔の前にかざして、息子の前にひょっこり出てくる小柄な曾祖母の姿が目に浮かぶ。快活な人だったらしい大叔父は、そんな曾祖母を見ても呆れることなく、一緒に笑いあったのではないか。
 曾祖母から文子さん一家への最後の手紙は、一九四四年の四月、大叔父と文子さんが結婚する二ヶ月ほど前に書かれたものだ。この頃、大叔父はすでに海外の任地から帰国しており、青山にある陸軍大学校に通っていた。

 ほんとに春らしくなりました 家の桜も今日明日が見頃となりほんとに見事にさいてうつくしい事です 皆々御一同様にはお変りなくお過遊(すごしあそば)されます様子 何よりもうれしく存じます〔…〕
 のり子2も此頃はとても可愛くなりました 容子はお姉様と云う用なお顔して居ります 私も毎日お守り致して居ります でも年を取りますと子守がとても大仕事の用になります でもみち子3が達者になりましたのと とてもやさしく大切に世話してくれますので私も幸福と存じ悦んで居ります それにまたやさしいやさしい文子と申す娘が出来ましたので毎日毎日ほんとにうれしき日を送って居ります〔…〕
 英夫もいよいよ性質出してわがまま申してあまえて居りますると存じます 何卒此上ながらあまえさしておやり下い お願い申します でも此頃の用に物資のたりない今日 御両親様の御心づかい一方ならぬと存じます お送り申し度いと存じますがそれも出来ませずお許し下い〔…〕
 私も此頃は二人のうれしいお顔が夢に迄見ては一人悦んで居ります そして毎日絹糸を出しておふとん織りまして そして友禅に染め 私が世を去りましても母がと思うてくれます用に手形を残し度いと存じ 一生健(ママ)命作〔っ〕て居ります でも昔の絹糸ですからとてもほねがおれますが毎日楽しく致して居ります
 何卒英夫に母のよろこびおつたえ下い そして英夫は子供の時からあまえるのが常で御座いました ご無理のみ申しまするで御座いましょ〔う〕が 何卒一生の楽しさをあじあわせ そして何卒ご両親様にあまえさせて下い 返す返すもお願い申します 此頃は私も英夫の事は心配致しません用になりました
 何卒宜しくお願い申します〔…〕

 まもなく結婚する若い二人のために、曾祖母はきっと、日のよく当たる縁側に座って一心に布団を織っていたのだろう。私の母によれば、曾祖母は布団を何枚も手作りしていたそうで、年に一度はそれらの中綿を全部出して天日に干し、また布団皮に入れなおすという手間のかかる作業もしていたらしい。
 この手紙の文面からは、甘えん坊の末っ子のことを案じるとともに、その幸せを願う曾祖母の気持ちが痛いほど伝わってくる。曾祖母はこのとき、自分の先がそう長くはないことを見越して、息子たちに形見を残したいという思いで布団を織っていたようだけれど、いま思えばこのとき彼女はまだ六十歳だったのだ。そして、この頃には思いもよらぬことだったろうが、大叔父はそれから約一年ののちに二十五歳の若さで戦死し、曾祖母はその後、さらに二十年の歳月を生きたのである。

 末息子を亡くしてから曾祖母が何を思い、どんな風に日々を過ごしてきたのかはわからない。ただ、曾祖母の長男の嫁にあたる私の祖母の回想録には、つぎのような文章が記されている。

 あなた〔英夫〕の所属する兵団がチモール島にあった時、陸軍大学の試験を受け合格されました。その時一緒に受験予定であった隣村の中村さんは直前に病気になり無念の思いに暮れたと聞きましたが、今でも健在で新しい時代に立派に生きて居られることを耳にしますと、本当に計り知れない人間の運命の妖しさを感じないではおれません。後になってよくお舅さんとお姑さんは、「あの時陸大に合格したばかりに——」と、つぶやいて居られたのも私は知っています。

 もしも陸大に合格せずに、ティモール島に残っていたら。もしも最後の任地が違っていたら。もしも士官学校に入学していなければ。そうしたら、あの子はまだ生きていたかもしれないのに……。
 無数の「もしも」を胸のうちに抱えながら、曾祖母はそれでも息子の死を、意味あるものとして納得しようとしただろうか。それとも戦時中の自分の無知を嘆き、みすみす息子を死なせてしまったという後悔に、生涯苛まれつづけたのだろうか。
 そんなことを考えていると、そもそも大叔父が陸軍士官学校に合格したとき、曾祖母は本当にそのことを手放しで喜んでいたのだろうか、という疑問が頭をよぎる。もちろん表だっては喜んでいただろうけれど、甘えん坊でさほど頑健でもない、十六歳になったばかりの末っ子をたった一人で東京の、しかも軍学校へやることは、曾祖母にとっては心配でたまらないことだったに違いない。
 一九四一年の春に大叔父が海外の任地へ出帆した折にも、文子さんに宛てた手紙の中で曾祖母は、「本人は申す迄もなく一家の光栄と一同悦んで居ります」と書きながら、その一方で、「私の心配は只英夫が病気してはとそれのみ心にかかります」と、ひたすら息子の無事を祈る気持ちを綴っていた。


(つづく)



1曾祖母の手紙の原文はほとんど改行されていないが、本章では読みやすさを考えて、適宜改行を加えている。
2ハルエの長男の次女。私の母にあたる。
3ハルエの長男の嫁。私の祖母にあたる。

 


この連載は月2回の更新です。
次回は2023年10月15日(日)に掲載予定です。
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