このたび、菊地成孔さんの新刊『レクイエムの名手』(亜紀書房、2015年10月24日発売)が刊行されました。本書は菊地さんがここ十数年のあいだに折に触れて綴った追悼文、そしてラジオで語った追悼放送の数々を1冊の書籍にまとめたものです。その中には、2004年から東日本大震災をあいだに挟み、2015年に至るまでに亡くなった様々な人々に捧げられた追悼文の数々が収録されています。
本書の刊行を記念し、スペシャル記事として、青山ブックセンター本店にて開催された菊地成孔さんと末井昭さんのトークセッション(2015年11月14日)の一部をお届けします。
末井 菊地さんの新刊『レクイエムの名手』を読ませていただきまして、追悼文集なのですごく「面白かった」って言うとなんですけど、読むととっても元気になる本ですね。
菊地 ありがとうございます。これは決して暗い本のつもりはなくて、どうせみんな死ぬんだから、派手に見送りましょうやって本にしたかったんで。死んで悲しいって言っちゃったらそれは終わりですよ。
末井 僕の『自殺』って本も編集者に「面白い自殺の本」を書きませんかって言われて書いたんです。最後の相倉久人さんの追悼文は面白かったですね。相倉さんも菊地さんも仲良くなった人がみんな死ぬんで「死神」って仇名だったから、最初は『死神』ってタイトルの本にしようと思ったんだけど、落語の有名な演目と同じタイトルになるんでやめたっていう。
菊地 本屋に『死神』って本が並ぶのもどうかなっていうのと、ジャズと落語ってのはワタシも相倉先生も大嫌いだったので、あえてベタベタですけどこのタイトルにしました。「レクイエムの名手」とか「ノクターンの名手」っていうのは、クラッシックの演奏家によく使われるんですね。あとは嵐山光三郎さんに『追悼の達人』って本があって、そこからの引用もあります。
末井 僕が最初に菊地さんと会ったのは『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』という本を出させてもらった時でしたね。担当の片田(直久)くんが菊地さんのブログの読者で、プロレスの話とかが面白いと言って教えてくれたんです。
菊地 そうでしたね。ワタシの『レクイエムの名手』って本は自分の父親が亡くなったところからはじまるんですが、末井さんの『自殺』もお母さまが亡くなったところからはじまりますよね。これに先駆けること30年近く前ですが、末井さんの処女出版である『素敵なダイナマイトスキャンダル』って名著があって、それもこのエピソードからはじまるんですけど、末井さんのお母さまは桁外れの自殺をなさっていますよね。
末井 派手なんですよ。ダイナマイト心中っていうね。隣の家の不倫相手とダイナマイトを巻きつけて心中したんですけど、僕は当時小学1年生の子どもだったから現場を見せてもらえなかったんですよね。山の中で二人抱き合って爆発したらしくて、腸が近くの枝に引っかかったりしていたらしいです。ちょうど12月だったし、クリスマスも近いんで、木に引っかかった腸がツリーみたいだったんじゃないかと。
菊地 (吹き出しながら)末井さんさすがにそれは(笑)。
末井 もしかしたら非常に美しく見えたかもしれない(笑)。あるいはトラウマになったかもしれないけど、どっちにしろ見せて欲しかったですよね。
菊地 『素敵なダイナマイトスキャンダル』って本も相当戯れたタイトルですよね。当時のダイナマイトスキャンダルってのは、山口百恵と三浦友和が熱愛とかそういうんですけど、それをそのままダイナマイト心中に引っかけたという(笑)。
末井 最初は派手なものがいいと思って、いきなり母親のダイナマイト心中の話からはじまるんです。
菊地 さっき末井さんにおっしゃっていただいたように『レクイエムの名手』って本のもともとのタイトルは『死神』だったんですけど、これで本当に『死神』だったら、いま『自殺』と『死神』が並んでることになるんで、相当エグイことになってますよ(笑)。
末井 2文字は強烈ですしね(笑)。山下洋輔トリオの結成40周年コンサートの時に日比谷の野音に行かせてもらったんですけど、菊地さんも含めた山下トリオの歴代メンバーが交互に演奏してました。その時の司会が相倉さんと菊地さんでしたね。2009年の夏で、ちょうど平岡正明さんが亡くなった直後でした。
菊地 開催の1週間前に平岡正明さんが亡くなったんですね。この本はいろんな方面の人たちを追悼しているんで、出てくる人を全員知っているという方はあまりいないと思うんですが、本の主軸には山下トリオというのが流れているんです。山下トリオの中で直接亡くなったのは武田和命さんだけですが、平岡先生も相倉先生も山下トリオに関係の深い方でした。
ワタシは1989年に武田さんが食道ガンで亡くなったので、まだ20代の小僧だった頃に武田さんの追悼公演のための演奏で山下トリオに呼ばれたのがデビューなんです。それで、そもそもデビューが追悼演奏だっていう洒落みたいなもんが付いているんですけど(笑)。平岡先生は大変な批評家でしたけど、ご本人曰く「俺が本物のアカだ」って方でね。まあ、ごりごりのマルクス主義者です。山下トリオ40周年という絶対に平岡先生が来ないといけないイベントの直前に亡くなってしまった。
末井 その時に日比谷野音にきれいな虹が出ていて、虹が平岡さんと重なったんですよね。
菊地 比較的珍しい二重虹がかかったんです。それが武田さんと平岡さんじゃないかって見立てで、公演DVDのタイトルが『ダブル・レインボウ』になったっていう(笑)。
末井 僕はもともとセルフ出版(現・白夜書房)でエロ本の編集者をやってたんですけど、「全国冷し中華愛好会(全冷中)」っていうものと関わるようになったのが、山下さん一派と知り合うきっかけです。
菊地 山下さんが「なんで冬場は冷やし中華が食べられないんだ?」って言い出して、それに抗議したり、さらには冷やし中華について学問的に研究するという人まで出てきて。みんな暇だったんでしょうね(笑)。
末井 今年(2015年)亡くなった奥成逹さんに当時やっていた『NEW SELF』ってエロ雑誌にエッセイを頼んだら、「おたくの雑誌で冷やし中華思想について連載させてくれ」と言われたのが最初ですね。「冷やし中華思想の研究」という連載でした。そこで上杉清文さんとも知り合ったし、平岡正明さんも全冷中のメンバーでした。結局『NEW SELF』は発禁になっちゃたんですけど、その連載がもとになって『空飛ぶ冷やし中華』っていう本になりました。
菊地 冷やし中華のナルトは銀河系を表わしている、とかどんどん話がでかくなっていくんですよね(笑)。
末井 読売ホールで「第1回冷し中華祭」っていうイベントも開催されて、筒井康隆さんや矢野顕子さんや、もちろん山下洋輔トリオも出てものすごく盛り上がって。文化人や芸能人が集まる「ホワイト」っていうバーにも奥成さんに連れて行ってもらって、そこに山下さんなんかもよく来てましたし、武田和命さんが入口の階段でテナーを吹いてるのも見たことがあります。武田さんの追悼で菊地さんがデビューしたというのは繋がりがあるような感じがしますね。
菊地 そうですね。70年代に学生運動が低迷期に入った時に、ノンセクトラジカルだった人たちがパロディみたいなことをしはじめて、全冷中って名前も学生運動のパロディですよね。初代会長が山下洋輔、2代目会長が筒井康隆先生で、2代目になる時に元号が「冷中」から「鳴門(ナルト)」に変わったという(笑)。みんなが新宿や四谷のバーに集まってそうやって遊んでたんですね。
山下洋輔ってのは昔はバリバリのアングラで、「バリケードの中のジャズ」っていう、若い頃の田原総一朗が仕掛けた特番で、核マルが立てこもった早稲田大学でゲバルトの最中に山下トリオが演奏するっていうようなことをやっている人でした。
末井 あれはDVDになっているからみなさん見た方がいいですよ。
菊地 実は上から下まで全部嘘の、ほぼほぼつくりのドキュメンタリーなんですよね(笑)。もともとアンダーグランドの寵児として出てきた山下洋輔が、70年代の後半くらいから「怖い人」から「面白いエッセイスト」へ180度パブリックイメージが転換したんです。
そういうノンセクトラジカルのステッピングボードを思いっきり踏んで出てきたのが、70年代の全冷中みたいなものだったし、80年代に末井さんや上杉さん、南伸坊さんらがやっていた「ハンジョウ・オール・スターズ」なんかの活動でした。「ハンジョウ・オール・スターズ」ってのは名だたる文化人の方々が楽器屋で吹けもしないサックスを買って、適当に演奏しまくってフリージャズをやるんだという集団ですよね。
末井 あれは上杉清文さんが最初に言い出したんですよね。上杉さんが「サックスってかっこいいよ」「なんかきれいだよ」とか言って、それでみんなで楽器屋に見に行ってみると、確かにきれいなんですよね(笑)。
菊地 車屋さんに車を見に行くみたいな感じで(笑)。
末井 「サックスってきれいだな……」ってずっと見てたらだんだん吹いてみたくなって、「これ吹けますか?」って聞いてみたら店長が「どうぞどうぞ」って言うから。それでセルマーを貸してくれたんです。
菊地 セルマーって車で言うとポルシェみたいなもんで、サックスの最高級のやつですね。
末井 みんなで吹いてみたら一応音が出るんですよね。
菊地 音はわりと簡単に出るんですよ(笑)。
末井 そのままみんなでめちゃくちゃに吹いていたら、とっくに閉店の時間になって、店長がニコニコしながらこっちを見ているんです。そうすると、僕なんかは上杉さんたちと違って社会性がある方だから(笑)、サックスを返して「ありがとう」ってこのまま出ていくのも悪いなって気になってきて。上杉さんの方でもなんとなく音が出せると手放したくなくなってきたみたいで、その場で三本セルマーを買ったんですよ。
菊地 車屋が三台ポルシェを売ったのと同じですから、大変な売り上げですよね。
末井 それで「サックス買ったからバンドをつくろう」って1週間後くらいにつくっちゃったのが「ハンジョウ・オール・スターズ」なんです(笑)。
菊地 ちなみにワタシ末井さんの編集してた伝説の『写真時代』を全号持ってますよ。
末井 それはまずいな(笑)。
菊地 正確には表紙がないやつとかラーメンこぼして無くなっちゃったやつとかもあるんですが、90%くらいは持っていると思います。エロの写真週刊誌がサブカル本になり得るってことを示されたのが末井さんのお仕事で、日活ロマンポルノと同じように表向きはエロ本なんだけど、裸を見せるという使用価値よりも剰余価値の方が上回ってしまった典型なんですよね。南伸坊さんが『笑う写真』って連載をしていて、あれはいまだにワタシの生涯のベストテンに入る本ですけど。
末井 『笑う写真』を連載していて面白かったのは、陰毛をどんどん伸ばしていって、胸辺りまで伸ばした写真を掲載して、「どこまでが陰毛か?」という問題提起をしたんです。『写真時代』は毎回警視庁に呼ばれて注意されていたんですけど、胸まで陰毛の写真を見て、さすがの警察官も笑ってましたね(笑)。「お前らもいろんなことを考えるな」って言われて、なんか褒められたのかなって(笑)。
菊地 その頃はワタシは高校生だったので、毎号毎号大変な刺激を受けていました。
末井 ありがとうございます。この本に話を戻すと、僕がちょっと関わっているのは浅川マキさんの追悼文ですね。
菊地 この本で唯一末井さんとニアミスしてるのがこの文章ですね。
末井 この追悼文すごく面白いんですよ。晩年ちょっと頭がぼやっとしていた頃の浅川マキさんとピットインで出会った思い出が書かれているんですが、浅川マキさんが亡くなった1周忌で『ロング・グッドバイ』という追悼本をつくった時にこの文章を入れさせてもらいたいと思って連絡したんです。でも、諸般の事情があって収録できなかったんですよね。その節はすみませんでした。
菊地 いやいや、末井さんの責任ではないので(笑)。末井さんがあの文章をピックアップしてくださって、「浅川マキさんの追悼本にあの文章を載せないか?」って言われた時に、また末井さんが無茶してんなあ、きっと怒られるに違いないと思ったら、やっぱり怒られちゃったんですね。
末井 怒られました(笑)。僕はあの文章は愛情があるからいいと思ったんですけどね。浅川マキさんが新宿ピットインで菊地さんと初対面をくり返すというエピソードがすごく面白かったんです。
菊地 新宿のアングラの女王と言われた浅川マキさんは、晩年はあのおっかない、近寄ることも出来ない、ものすごい暗黒のオーラのアングラの女王ではなくなっていて、軽くボケた感じの人のいいおばあさんになられていたんですよね。
新宿にピットインスタジオってのがありまして、そこの料金カウンターにある日から必ずマグカップを持って坐っているおばあさんってのが現れまして。まあ新宿ってのはヤバい人がマグカップ持って勝手に坐っちゃったりする街でもあるので、角を立てないように話していたら、なんとそれが浅川マキさんだったんです。店員が「マキさん」って呼びかけるまで結構長い間気づかなかったんですけど。
末井 ヤバい感じだったんですね(笑)。
菊地 「あらあなた菊地さんよね、はじめまして」「菊地さんってとっても頭が良くて怖い方で、会ったらお説教されちゃう。怖い怖いってアタシ思ってたのよ」「でも実際会ったら全然優しい方なんでびっくりしちゃった」というのが原型なんですが、全部このバリエーションなんです。「怖いと思ったけどテレビで見たら爆笑問題と共演してて、太田は嫌なやつだけどあなたはいい人だと思った」とか、ネタは変わっているんですけど、毎回「初対面」で同じ話なんですよね。そういうことが1、2年続いたんですが、その後にマキさんは亡くなっちゃいました。
末井 同じ文章の中で、若い頃に菊地さんが浅川マキさんに呼び出されたというエピソードもありましたね。まだ20代だった菊地さんがピットインでマキさんの前座に出て、演奏し終わった後に店員から声をかけられて。
菊地 ワタシがまだグリーンボーイだった頃ですね。浅川マキさんのライブは会場づくりからはじまるんですよ。ピットインってライブハウスなんで設営なんかいらないはずなのに、なぜか設営隊がいてですね(笑)。まず非常用の誘導灯にテープを貼って部屋を漆黒の闇にするんです。その後に紫色のライトを灯して、なんだかわからない煙みたいなものを焚いてですね、椅子の上にベルベットをかぶせて「浅川マキの部屋」が出来あがるんです。それが会場だけじゃなくて控室まで続いているんですよ(笑)。
そんでピットインの店員に「菊地、マキさんが呼んでる」って言われて。「えっ、なんで、俺なんか失礼あったっけ? 時間もやりすぎてねぇし」「いや、とにかくマキさんが呼んでんだよ!」って(笑)。ワタシはまだ20代後半でしたから、ものすごく緊張してその紫色の控室に行ったらですね、でっかい真っ黒いウィッグとサングラスをかけたマキさんが煙草をくゆらせていまして、ワタシのことを黙ったままじーっと1分間くらい見るんですね。そんでしばらくして、マキさんが言うんですよ。「あんたって、ド変態なんだって?」(笑)
末井 ははははは(笑)。
菊地 やっばいなと思って。これは答えようによっては命はないなと(笑)。ワタシは出も育ちも悪いんで、そういうヤバい機会にはそれまでもあずかっていまして、それで「人が言うほどじゃありません、噂は大きくなりますから」って答えたんです。そしたらマキさんがその返事を聞いて、あっけにとられたような顔をしてまた1分間くらい黙った後に、「どんなことしてんの?」って言ったんです(笑)。
それ聞いてもうすげえ面白くなっちゃって、緊張してた自分が馬鹿だったっていう。この人はのんびりしたいい人だって思って、「いやいや、そんな人が想像するようなことは何もしてないです。普通のことしかしてないんで」って言ったところで、マネージャーさんが「マキさん出番です」って助けてくれたんです。
それから幾星霜たって、あの時のマキさんは謎のマグカップおばあさんになられていて(笑)。でも、「マキさん、ワタシ十数年前にマキさんに呼ばれて、あんたド変態なんだって?って言われたんですよ」っていうのは野暮なんで、その話は一度もしませんでした。しないままに、毎回「あら、菊地さんじゃない。はじめまして」って会話を20回くらいして、そのままマキさんは公演先の名古屋で亡くなっちゃいました。
末井 公演先のホテルで亡くなられたんですよね。文章の中にも書いてありますけど、「怖い人だと思ったけど、会ってみたら全然いい人」っていうのは、マキさんが自分に言って欲しかった言葉なんじゃないかってところがとても良かったですね。
菊地 「フリージャズの人はみんな怖いイメージだけど、会って喋ってみたら菊地さんはこんなに優しいいい人で」ってことをワタシはマキさんの口から何十回も聞きましたけど、マキさんもものすごい怖い人だと思われていましたからね。だって「あんた、ド変態なんだって?」ですから(笑)。当時のワタシも一応夜の世界の住人だと思っていましたけど、ちんこ震えあがりましたよ。そのぐらい怖い人だった。でも、晩年はとても明るいニコニコしたおばあちゃんだったんです。
末井 やっぱりそれは、とっても愛情のある話だと思います。この本は死んだ人たちのことばかり書かれていますけど、最初にも言ったように、読んでいると菊地さんの文章を通して死人が元気をくれるという感じがしますね。死というものは人を元気にするんだって結論付けたらまずいかもしれないけど。
菊地 この本は読んで「泣ける」とかいうウェットパフォーマンスのつもりは全然ないんですよね。ワタシは読んで泣けるってのは下種な本だと思ってるんで(笑)。昔は「泣き脅し」とか「お涙頂戴」なんて言って、泣かせて物を買わせるなんて下の下だとされてきたわけですけど、いつのまにか世の中は下の下になっちゃって、本の帯にはっきりと「泣けます」って書いているのが平気で売ってる世の中になっちゃいましたからね。『レクイエムの名手』ってタイトルは一見重いんですが、読むと元気になるとおっしゃっていただけて良かったです。
末井 みんなこの本を読んで元気になってください(笑)。今日はどうもありがとうございました。
菊地 こちらこそありがとうございました。
(2015年11月14日 青山ブックセンター本店にて)
『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』(亜紀書房)
「1989年。伝説のテナー奏者である武田和命が食道ガンで亡くなり、山下洋輔が追悼演奏をする。そこで呼ばれたのが25歳だった僕だ。僕はこうして、追悼演奏をするためにジャズ界に呼ばれ、デビューした」
菊地成孔が今世紀のはじまりの十数年間に綴った追悼文/追悼放送の数々を一冊にコンパイル。稀代の「レクイエムの名手」が故人に捧げる珠玉の名文たち。 憂鬱と官能、生と死が入り混じり、告別する、活字による追悼演奏。