「お洒落」考 江弘毅

2020.5.15

11ワニのマークのポロシャツとブランドについて


 街にはまだまだ出られないのが現実だけど、ポロシャツの季節になってきた。
 去年のように冠婚葬祭とかあらたまった仕事とかがまったくなくて、気がつけばひと夏をラコステのポロシャツで過ごした、みたいな年がある。

  わたしは「ワニのマニア」と異名を取るほどいろんなラコステのポロを持っている。よく似ているポロだがラルフローレンは「やっぱり違う」と思っていて、けれども2枚持っている。






「なぜポロシャツの胸にロゴやマークなんかついているのを買うんでしょうか」

 
「ポロシャツは、素材とデザインが良くて、着やすくて夏に涼しくて汗が乾きやすく。それ以上のものは意味がないですね」

 
Tシャツもそう。極力マークとかロゴとかが入っていないものを選ぼうとするんですが、なかなかないんですよね。だから買ってきたら胸のマークを外すんです」(←それ、ぜったい嘘やろ)。

 昔、『ミーツ・リージョナル』誌が売れてきて、大阪や京都や神戸のどの本屋さんにも並びだした90年代の初め頃、ラコステばかり着ている30代になったばかりのわたしに、そういうふうに言った10歳ぐらい上の女性がいた。

  その人は、どまんなかのファッション業界の人ではなかったが、世界の陶芸とか家具とかにうるさい人だった。標準語だったけど、関西人かどうか、また金持ちだったかどうかは知らん。

 服は使用価値ではない。象徴価値に決まってるやん。
 姫野カオルコさんは、そのあたりのことについて、当の象徴価値を説いたジャン・ボードリヤールなんかよりもよくわかるように書いている。


 シャネルだから好き。これはヘンだ。好きだと思った服のメーカーを後で知ったらシャネルだった。これはヘンではない。
 ゴルチェは前衛的でかっこいい。これもヘンだ。前衛的でかっこいい靴だと思って買ったらゴルチェだった、これはヘンではない。
 さらに、シャネルだと自慢したいわけではないがシャネルを買う。これはヘンだ。シャネルだと自慢したいからシャネルを買う、これはヘンではない。
 つまり、本人が本人の心で判断するのはヘンではないが、他人の貼ったレッテルを鵜呑みにして自分で判断しないのはヘンである。
 だから、たとえばレストラン案内や雑誌などを見て、「ほほう、これが四つ星のレストラン、○○○か、なんだたいした味じゃないではないか」と、思うのも、「ほほう、これが四つ星の○○○か、ううむ、さすがにうまい」と、思うのも、「あらかじめ“構え”ができてしまっている」という点では、ヘンな味わい方法である。
(姫野カオルコ『ほんとに「いい」と思ってる?』角川文庫P143144


 そこで考える。「ラコステだから」好きだ。
 これはちょっとおかしい。ヘンだ(そこにある種のとまどいと困惑がある)。


90年代半ばの所謂「フレンチ・ラコ」。霜降りが流行った時代もあった


「お、これいいな」と思って買ったポロシャツがワニ付きのラコステだった。
 本当はこれ、至極真っ当。が、そういうことは、ことラコステに関してはない。というか、記憶にない。

 もっというと、「ラコステ着てまっせ」と自慢したいわけではないが、ポロシャツに限っては必ずワニがついたラコステを買う。これもなんかおかしいのかなあ。

 わたし流に話を付け足していくと、ロレックス・エクスプローラはGショックより正確だし頑丈だから欲しいのではない。
 HERMESのオータクロアやバーキンは、「あらこれってよくスーパーで買うキャベツが丸ごと入るから便利」とか、LOUIS VUITTONのプラスティックでコーティングされたモノグラムの財布は、「革よりも丈夫だし軽いから」とか、そういうものじゃない。

  中学生でもわかるやろ。
 それはみんなが「すっごーい」と言うてくれるからにきまってるやん。

 いや、さっきのおばさんみたいに、「40代になったらブランド云々とかは言わないの」的なファッション感に人格形成されるかも知れんが、記号が象徴する「社会的な優越性」や「情報感度の良好さ」は、それに対して「本当のお洒落とは違うんです」などととやかく言及するのではなく、「ブランドもんというものは、そんなもんですわ。あっはは」という良質な諦観が、服を着たりすることを楽しくさせるのだと思う。

 というわけで、わたしはラコステ的なブランドが好きだ(エルメス的でも、リーヴァイス的でも可)。
 だから、無印良品という「ブランド」の服は好きになれない。
 一度、L字ソックスというのを買ったことがある。なぜ買ったのかは「まあ、無印でええんちゃうん」という歯切れの悪い決断だった。

 50足はあるだろうか、ソックスばかりが突っ込んであるワゴンのなかで、その無印のソックスは知らん間に紛れ込んでどこかに行ったか、いや捨てたはずと思っていたが、靴磨きのブラシやクリーナーを入れてる箱の中にあった。
 L字が靴磨きのときに手首と指の角度と相まって靴墨を塗るのに都合が良いことを思いついてそうしたのだが、それすら忘れていた。
 今度も靴磨き用に買おうか。
 こういう悪いことを書くぐらいに無印良品はブランド的に嫌いだ。

 「よく売れてる」「ベストセラー」とかの「ビジネス的偏差値の高い」ブランドと、「かっこいい」はなんの相関関係もない。

 無印良品のうっとうしさは、「ブランドものを着るのは賢い消費者ではない」というところだ。これってどっかに「マークやロゴが付いてるの絶対イヤ」みたいな「なりふりの構わないなりふりの構い方」みたいなところがある。

 無印良品のパラドクスは「このシャツどこのブランドか知らんけど、ええデザインやし素材も着やすいし丈夫でええわ」という発見がないところだ。
「この服は正しい」(=かっこいいとは限らない)みたいなボンクラさを服やモードに何の関係もかかわりもないコピーライターが、マーケティングと資本を元に「非ブランド」という「ブランド商品」をひねり出した、つま先からてっぺんまで(家具もキッチンもやってるな)広告的手法の上に成り立っている商品で、「かっこいい」とは何の縁もない。

 かつてのユニクロは「安いです。でもそこそこかっこいいでしょう」みたいな可愛さ、言い訳加減があったが、まったくそれがない。
 加えて「どや、リッチやろ」「これかっこええやろ。アルマーニや(別にナイキだってオッケー)」のおおらかさがない。
 あるのは徹頭徹尾のビジネス感覚。それがファッションの世界をどんどんつまらなくしてしまう。

 さて。ラコステである。




 

去年、イスタンブールに行ったとき。上のFacebookと同じやんか




 わたしは年上の兄がいて、兄が大学生の時に中学生だった。
 70年代初頭のことで、兄は多分にもれずIVYだった。VANKENT、ブルックス・ブラザーズやマクレガーといったアメリカン・トラッドの数々のなか、ポロシャツだけがメイド・イン・フランスのラコステだった。

 というか、ポロシャツはラコステしかなかったし、発売されたばかりで中学生の憧れだったダックスホンダに乗っているイケてる高校生の兄ちゃんなどはクロコダイルを着ていたりしたが、「ポロシャツと言えばラコステ」。ほかの「ワンポイントマーク」は、ポロシャツの亜流という位置づけだった。

 中坊のわたしは「フランスという国は、怪態なマークをつけんねんなあ」と思いつつ、「これがポロシャツというもんやねんなあ」と鹿の子の生地とセットで強烈に刷り込まれたのである。

 前回にも書いたが、10代後半から20代にかけては、IVYから長髪、ネルシャツ、ベルボトムにレインボーサンダルのサーファーへ偉大な転向をした70年代後半だったが、ボタンダウンとラコステのポロだけはそのまま着続けていた。そんなところにアメリカ製のラコステであるIZODが登場し、「より西海岸っぽい」という位置づけだったのを、これを書いている今、思いだしている。

後ろの丈が前より数センチ長きデザインされていたIZODには青ワニのバージョンがあったり、サイズ表記「PATRON」がLで、「1/2 PATRON」がMだったり、ボタンが4つ穴だったり、なかなか愛すべき旧き良きバージョンだったと思う。これは80年のロサンゼルスのおみやげ(もの持ちが良いなあ)


 その後、しばらくして米国製のラルフローレンが出てきて(女子高生が上手に着ていたなあ)買ってみたり、アルマーニやオールド・イングランド、ジョン・スメドレーとかの素材や襟の形が違った、むっちゃ高いということだけが共通するブランドのポロシャツに手を出したりしてみたりしたが、ずっとラコステばかりを着ていた。

 理由は中学生の頃から30代後半まで20年以上着ていて、あのシンプルなデザインのポロシャツの着こなしがわかるというか、「ほかのポロでは何となくおかしい」。多分そういうものかもしれない。
 けれども、いややっぱり「ワニのマークやろ」とつくづく思うのだ。それがライオンや虎、鷲や鳩だったらあかんと思う。猫でも犬でもあかんな。

(次回も続く)

(第11回・了)

次回、2020年5月29日(金)掲載