「お洒落」考 江弘毅

2020.7.3

14「裸足で靴」と「俺は俺」、そのココロ。

 

 コロナ禍でいわゆるステイホームとかリモートワークをしていると、人に会わないから確かに着るものは無頓着になる。
 これではあかんではないか、とこういうことでやってみたが続くわけがない。


 大学の講義でZOOMを使っていわゆる遠隔授業をしている教員が言うには、クラスの女子大生の全員がカメラをオンにしないままだという。「出席はするけど、顔を出したくない」ということらしい。

 「態度悪いやないか。先生の手間がかかる遠隔授業やねんから、出席のためにスッピンでも顔ぐらい見せんかい」
 そう思ったのだが、学生たちはスッピン顔を見せたくないのだ。また自分だけ顔を出してほかの学生が顔を出さないとなると、これは気まずい。だから余計に自分の姿をさらさないとのことだ。
 なんか横並びの自粛みたいでイヤな感じがする。普段通りバッチリメイクできっちり服を着て、がつんといったらんかい(本来そんな神戸の女子大学のはず)。

  まだこの新型コロナウイルス禍になる数年前に、キャップを被ってサングラスをかけてマスクまでしてゼミに出てくる学生がいた。わたしはその子に「そんな舐めた格好して授業に来たらあかん」と注意したことがある。

  というのは噓で、「ああこの子はスッピンの素顔を見せるのイヤなんや」とわかってやるよりも先に、バレンシアガの黒のキャップに、サングラスは黒太ぶちのちょっとだけ色が入ったレンズのでかいヤツで、ほら空港の出国ゲートのシーンでよくある若い芸能人。帽子とサングラス、マスクをして余計目立ってる。そんなわざとらしさが安っぽく感じて、大変に腹が立った。そのゼミ生はひとこと注意すると口答えしそうな子だった。エエ年こいた先生が、20歳そこそこの学生にブチ切れるのはよくない。だから何も言わなかった。

  家に帰って(この連載の元になった【玄関先ですんません】の)相方にそれを伝えると、「それはスッピン隠しやねえ。絶対見せたくないんや」とのことだ。そのココロは、化粧に縁のない男にはわからんかもしれない。
 そうかハゲ隠しの帽子とはちょっと違うのだ。勉強になるなあ。

  服は他人のために着る、のではない。
「俺は俺だから、自分の良いと思うものしか着ないし、いつでもどこでも、誰の前でも俺は俺で同じだから、そこんとこヨロシク」
 というロケンローラー(←ちょっと古いか)は、そういう仕事だからそうであって、それは確かに「人のためにこんなカッコしてんじゃないよ」ということでありそうだが、彼が誰だか知らない人から見たらあまり格好いいものではない。万一それがスター気取りからだったりしたら、ただのいなかもんだ。

  リモートワークをしていてそのようなことを思ったとFacebookでちらっとつぶやいたら、ファッションページ担当時代のアパレル・セレクトショップ関係の友人から、「リモートワークの時は、家着・部屋着は着ないで誰と会ってもPC越しでも、らしくしてます……うわべだけ(笑)決してボトムはいてない訳やないですがw」あるいは「服好きは基本、家でも自然に『らしい服』を手に取るし頭では考えてない……はず」といったコメントをいただいた。

 そこで、はたと考えてみる。
 アフターコロナ、ウイズコロナのステイホームのなかの「衣」についてだ。

 「食」はどうか。これは会社に出ている日のランチはもちろん、仕事帰りの夜も外食が多かった人は、やはり無頓着になるのはしょうがない。けれども毎日、コンビニの弁当やカップラーメンや白メシだけ炊いてカレーのレトルト、というわけではないだろう。
 それはいわば「物理的な身体性」つまり「命の問題」にかかわるからなのだが、「衣」つまり服の場合は、「楽だ」とか「気持ちいい」といった部分だけが突出している。だれもが家着は、「捨てるのもったいないからそれを着てる」というのがある(ダサい根源のひとつはそこだ)にせよ、「良い素材のもの」「着心地良いデザインの服」を着たいのだ。

  ついでに「住」も関連づけて言うと、暑くなってきたから「エアコンを入れて」「快適に過ごせるウエア」を、ということになるのだが、オレの場合はエアコンのスイッチをまだ入れない午前中は無頓着どころか、でかパン一丁で上半身は裸である。
 相方は呆れているが、なあにそれは慣れというものだ。

 かように、ステイホームでの服は「俺は俺だから」以上に「俺」であってもオッケーなことを露呈している。かといって、わたしがZOOMなどで顔を出さないといけない、という場合は会議であってもオンライン飲み会であっても、それにふさわしい格好をする。
「上だけジャケットで、下半身は映らないからパンツ一丁や」みたいなヒネくれたことはしない。

 自分が着ている服に関して、親や先輩やまわりから「ちょっと自分の格好を気にしろよ」と言われて、まず「自分の格好を気にする人」がいる。そのまま自分の着ているもの「だけ」を気にして、即座に鏡に映してみる。「どこか破れてるのかなあ」「どこがヘンなのか」という、ストレートに「自分の格好を気にする人」だ。
 それと対照的に、「ちょっと自分の格好を気にしろよ」と言われると、まず「他人の格好を気にする人」がいる。自分の格好が他人のなかでどう見えるのかが気になって周りを見渡す。「自分の格好を気にする」が、「まわりを気にする」に繫がる人だ。
「自分の格好を気にする」で「自分の格好だけ」しか気にしなかったら、「自分は自分を囲む社会の中にいる」ということを気にしないということであるから、これは大人としてちょっと問題ありだと思う。
 この「自分を気にする」と「まわりを気にする」の2パターンのあわいの部分、それがセンスであり個性であるというものだろうが、なかなか難しい。

  コロナ禍のステイホームで、こんなファッションのことをでかパン一丁で書いていると、「服を着ることと人とのかかわり方」みたいな「でかいテーマ」を考えたりすることが出来る。ステイホームの「でかパン効果」なるものだろう。

  話が同様にぶっ飛ぶが、わたしが子どもの頃からお年寄りまで同じ半纏を着て、だんじり曳行に参加する岸和田祭を長くやってきてわかったことは、「ドレスコードは素直に従うべきだ」という諒解の上でのかっこよさだ。
 昔からの約束事は約束事であって、「俺は俺」のロケンローラはその格好で祭に参加することはNGだ。鋲打ちの革ジャンのダメージだらけのジーンズで参加できたとしても、むっちゃくちゃ浮いてしまって、本人は「俺は俺」なのでそれに気づかないから、周りからすると祭りをやったことにならない。

  生き方の一つとして服を着ることの「俺は俺」の利己的な人間特性は、浅草や岸和田や博多といった旧い都会つまり下町では顕著に見られる。だからこそ普段はてんでばらばらな利己的なおっさんばかりが成員の町は、みんなが寄ってたかってたずさわれるように参加できる祭礼をでっちあげるのだろう。

 

 祭の最中で見かける格好いい「だんじり野郎」は、20代からじじいまで大勢が同じ法被を着ている祭の中にあって、抜群の個性を発揮しているかっこよさがある。それは「見る人が見ればわかる」。そういうものだ。
「見る人が見ればわかる」ようなかっこよさは「自分のために」と「周りのために」が「溶け合っている」状態、つまり自分の目と他者の目が「他我」的に相互嵌入している状態だ。

 そういう人ばかりの街場は、例えば年に一度の祭にしても、夜ごと夜ごとの遊びにしても、自分のためにしているお洒落が、他人のためのモラルになっているところに個性があるから、街全体がよそのどこの街にない個性があってかっこいいのだと思う。

  余談が長くなってしまったが、今回は靴を裸足で履くことについてだ。
 わたしは夏の暑い間、裸足で靴を履く。その靴はスニーカーとローファーだけだが、クライアントがらみの仕事やあらたまった取材以外は、ポロシャツを着ていくのと同様に裸足で靴を履いて出かける。

ちょっとカジュアルすぎるかなあ、と思うが夏はこういう格好で仕事に出る


 相方は「また石田純一して出ていくん」などと言う。わたしは「アホか、全然違うわい」と思っているが、それを言うと邪魔くさくなるので言わない。

 今回、これを書いていて調べたのだが、石田純一さんは「素足に靴、のきっかけは1985年だったかな、イタリア・ミラノで見かけたサラリーマンです。地下鉄だったと思うのですが、出てきて階段を上がってきたサラリーマンの格好がね、デニムにジャケット、それに素足にローファーだった。わっ、かっこいいって思って。それからそのスタイルを続けています」と語っている。

  そうだったんですか。というより、なんやそれ、である。わたしなんかはもっと前から裸足でローファーを履いているよ。
 しっかり覚えているのだが、裸足で革靴を見て「かっこいい」と思ったのは、『TAKE IVY』。そう70年代初頭の東海岸のIVYリーガーたちのスタイル写真で、ホワイトジーンズに靴はバスかなにかのローファーだった。バミューダー(その頃ショートパンツなんて言わなかった)にローファーというのもあったなあ。

マドラスチェックの懐かしいバーミューダーはgap。ほかはフランスとイタリアのブランドだけどIVY的だと思う


 サーファーだった大学生までは、レインボーサンダルやアディダスのカントリーとかを履いていて、ローファー含めほとんど革靴なんか冠婚葬祭以外は履かなった。
 けれども就職してからはいくら編集者とはいえコンバースのズックではあまりに周りに失礼だから、サーファー以前の靴に還るみたいにローファーやデザートブーツを買った。

  前回のアロハシャツでもふれたが、服はその人のパーソナルヒストリーそのものである。
「ローファーを素足で」の旧いIVYの記憶は、夏に「ソックスは暑いから」ペニーローファーやビットモカシンのスリッポンを素足で履くことに繫がったが、その頃はちょうどDCブランドから肩パッドてんこ盛りのサタデーナイトフィーバーの時代で、夏に限っても「素足にローファー」は、ちょっと「俺は俺」的に奇異に見られた。
 そうだ。同じ革靴でもデッキシューズ系のものは素足で履く人が割といたな。これは「海的」だからオッケーだったのだろう。

今風のホワイトジーンズに20年ぐらい履いてるローファー。大阪にシルバノ・ラッタンジが来たときの取材で履いていて「ジョン・ロブだね。さすが編集長」と言われたが、これはBOWEN、イギリス製。気の毒だからそれについては言わなかった


 ところが、石田さんが「裸足で登場」して、皆を「あっ」(「なんやそれ?」もあった)と言わせたあたりから、「ちょいワルおやじ」系雑誌の「ミラノ現地スナップ紹介」みたいなページで、てんこもりで「裸足で革靴」のシロウトが登場してきた。

  わたしは岸和田だんじり祭や大阪ミナミや神戸三宮で、「全ワルおやじ」に囲まれて過ごしているから、「ちょいワル」みたいなもんは「モテるスーツ」とか「女子受けアイテムの時計」とかの、いわば「服に対してのシロウト好みのヘタレ主題が目的化している」から、そいつらの格好はバカにしてきている。

 まあ、わたしがここでブチ切れても「バレンシアガのキャップ」の際と同じなのでやめておくが、いくら「細身丈短ジーンズ」がトレンドだとはいっても、日焼けしてない白い足にローファーや、スーツで紐つき革靴をわざわざ素足で履くのは格好いいと思わない。

ローファーばかりだがこれだけ例外。パラブーツ。紐が何回も切れた末に、登山靴用のものを切って使ってる

グローブレザーのローファーは夏、浜、のイメージ満点だと思う


 ミラネーゼかなんか知らんけど、感覚的にはナポリやソレントやポジターノ、シシリーのタオルミーナとかパレルモ、カターニャの浜や港のにおいがする「裸足で革靴」のほうに一票だ。

 これも要らんことかも知れないけど、かかとを引っかけて履く足首より短いソックスは、靴から下着のパンツがはみ出ているようで恥ずかしい。。

 今回は長くなったが、「俺は俺」でミラノのヤツでも石田純一さんではない、祭になれば町内揃えの法被を羽織るおっさんだ。
「そこんとこヨロシクね」ではなく「どうだ参ったか」といったところである。


(第14回・了)

次回、2020年7月17日(金)掲載