久しぶりに紙媒体の対談の仕事があった。
「ジャケットを着て来て下さい」との注文だったので、半袖ボタンダウンのシャツ上に3つボタンの紺地のジャケットを着ていく。
まあ暑い季節だということもあってスーツをまったく着なくなった。
というのは半分噓だ。
暑くても「出るとこに出なアカン時」は長袖の上着のひとつも着るわなぁ。家にいるとだれも見てくれないからスーツは着ないのだ。
7月31日の朝日新聞のインタビューで、ファーストリテイリングの柳井社長が、「コロナで生活様式が変わった。生活様式が変われば、服の選び方も変わるんですよ。ドレスやスーツはほとんどの人の生活に関係しなくなったんじゃないですか」と話していた。「一気にカジュアル化の流れになった。ある意味、我々は運がよかった」とも。
この「カジュアル化」というのは、単にスーツやジャケットが、Tシャツと短パンに変わったことではないと思う。他人がたくさんいる都市空間や人の家を訪問することがなくなって、ファッションつまり服の意味が変わってきたのだ。
けれどもカジュアルということでいえば、今春夏のGUCCIのラム・プリントTシャツはカジュアルど真ん中であり、すでに売り切れているみたいだけど(白を買おうかと思った)、5万円弱という値段(を見て、イスタンブールや釜山で探せばもうコピーは売ってるだろうと思った)もあるが、ステイホームでは着ないしそれを着て近くのローソンにおにぎりは買いに行かないと思う。

ここ数年お気に入りのロゴT、真ん中のSupremeはヴィトンとのコラボ。2年前イスタンブールで「おお、かなりレア」と発見の当然偽物
ユニクロの柳井さんが朝日新聞で発言している内容は、徹底的に数字ベース、経済軸の財界人的なスタンスである。
だからわたしら服に関してのクロウト好みからすると「ちょっと違うなあ」というところがあるのだが、逆にだからこそ1000円以下という前提があるユニクロのTシャツはすごく一般的に売れるんだろう。
Gapが日本に来た以降のあの手の服は、「夕食1回分でシャツ1枚」みたいな「適正価格」というのがあるようで、ユニクロはそこにヒートテックとかの機能性と、無印良品的なストライクゾーンが広くて長いトレンドを加味した。
値段がまずありきの上に、「使用価値が服の本質じゃないのか」といった問いを気にし出すと、スーパーの売り場でラーメンをつくる鍋やティッシュペーパの値段を見比べて買う、みたいな工業製品的世界であまり面白ないと思うのである。
いずれにしても、今夜食べた鮨が15000円でとか、ちょっと高いブルゴーニュの白ワインを2杯飲んで2400円で、それを服に置き換えると……みたいな「価値観的なこと」を考えてしまうと、どんな服をどう着るかの発想はどんどん貧弱になる。
ファッションが専門でもある哲学者・鷲田清一先生に教えてもらった大きな原理は、ファッションには「身体の演出」といった側面と、「流行という社会現象」の側面があることだ。
いっぺんに言うと、今日はどこに行って誰と会うのだから、「この服を着て行こう」「靴はこれで」とあれこれ選ぶこと。そして選んだ「あれこれの服」が流行やモードの中ではどうだ、ということの関係性の網の目みたいなものだろう。
その上で、「あっ、このひとかっこいいなあ」と人の視線を奪い取ってしまえる。そんな魔術的な権力を作り出すのもファッションの力にほかならない。
神戸の居留地でサクランボのBeverly Hills!と書いてあるGUCCIのTシャツの20歳ぐらいの女の子を見て、「うわぁ」と思った。

これ以上にないカジュアル感のイラスト&レタリング
それは単に「派手」で「目立つ服」ではないはずだ。そう語句のまま入力してしまうと、「ヒョウ柄を着た大阪ミナミのおばちゃん」を思い浮かべたりしてしまう。
けれどもその服が単に値段が高いとか安いとかから遠く離れた、社会や街で今何がかっこいいかの美意識の領域にいってしまうところにファッションの面白さがある。
「まず外見ありき」なのである。人は最初に立ち上がるそのレイアーのなかで、自分はどんな人間なのかのアイデンティティと、そもそも「今/ここ」で何をしに来たのかとかを表現しようとする。
ジャケットを着るのだが、ネクタイを締めようか迷ったり、そのネクタイの柄はどうするのか悩んだりする。
そしてファッションは装う人の社会的な属性や仕事や遊びについての態度までを暴露してしまう。
長いステイホームで気がつくのは、そういった服飾と人と社会の絡みあいが変容してしまっていることだ。ほとんどなくなってしまったと言ってもよい。
この連載は『「お洒落」考』であるが、ステイホームを強いられている関係で、ここ数回は「自分はおしゃれである」ということについて他者の承認を得たり、「あの人はおしゃれな人だ」という評判をゲットするのがすごく楽しい。醍醐味である。そのために服を着ている。ということは「どういうことなのか」について考えたりしている。
その一つの切り口が、「オレはラコステのポロシャツをなんで好きこのんで着るのか」や、「Gショックの方がより正確で丈夫なのにどうしてロレックスが欲しくなるのか」とかについてのブランド的な「象徴価値」だった。
が、ここに来て思うのは、「かっこいい人だなあ」「わあ、いい靴履いてるなあ」と感じること、それらすべては「街場だからこその話」なのかもしれないということだ。
コロナ禍でレナウンやブルックスブラザーズが倒産し、飲食業界の次に危ないのがアパレルであると指摘されたり(だからユニクロの柳井さんのインタビューなのだろう)しているが、服を着る側からすると、圧倒的に外に出なくなったことで「生活様式が変わった」。
家では5〜6年前に買っ(てしまっ)たユニクロやGapのTシャツを着るが、アルマーニやGUCCIのTシャツは着ない。感覚的には「後回しにする」という感じだ。
柳井さんが言った「生活様式が変われば、服の選び方も変わるんですよ」は、「人がいない、人と会わない社会」になって、「着る服の選び方」が決定的に「せこく」なったということなのか。

ロゴTの数々。1枚だけその昔プーケットで買ったコピーものも混じっている。分かるかなあ
ファッションは、東京の表参道や大阪アメリカ村など「その街のファッション」みたいな地域性があり(WebではPinterestのフィードもまさにそう)、蛸ツボ的な「テイストの共同体」をつくりあげていく。
固有のコミュニティである「場」があるからこそ、そこで「どんな服をどう着るか」といったモードの意味があり、その具体的な場所で「自分は誰だ」が問われる。
ある街場で「どんな服をどう着るか」は、「どこで何を食べるか」というのに似ている。わたしもコロナで街場に出なくなったうちの一人だが、家でワインやウイスキーを飲んだり、鯛やマグロの刺身買って帰ったり、肉を焼いたりするより「食」よりも、断然「衣」について無頓着になった。
それでふと思うのだが、巣ごもり中の「ユニクロな無印良品」ではなく、ある人の具体的な服や着こなしを見て、おもわず「うわぁ」と声が上がるような体感。
GUCCI、MonclerのTシャツはどうなんだ。ハイヒールよりもスニーカなのか。一見してそれとわかるデザインとブランド的象徴価値。ファッションの残酷までにエキサイティングで面白いところは「そこ」なんだろうけれど。

昨年イスタンブールのカドキョイのブティックにて購入。ソッコー旅行中に着用

超名門イスタンブール大学の真ん前のブティックで。カットソーのトルコ製は品質が良い。フィラとエンポリオ・アルマーニとナイキがモードらしい。同じ値段で売られていた
フランスではHERMESやパテック フィリップは、上位階層の人しか身につけない。労働者階級の人がロレックスの時計を手首に巻くのは身分詐称とされる。
ニコラ・サルコジが大統領になって、自家用ジェットとクルーザーを見せびらかしたりしたり、成金趣味丸出しのファッションで露出することついて世の非難を受けていたところに、友人の広告王のジャック・セグエラは、「50歳でロレックスの一つも持ってなければ人生の敗者」と発言して炎上した。
サルコジはハンガリー移民の子でありグランゼコールを出ていない。
共働きの借家生活にもかかわらず、J.M.ウエストンのローファーを履いて市バスに乗り、時計はどんなときでも1個だけ所有のロレックスのエクスプローラーの日本人からすると、「そんなもん、放っといたれ」と思うのが当然だが、「品の良さはカネで買えない」といった感覚(それって文化資本か)と、ブランド記号が効いたり効かなかったりする、理不尽さこそがファッションだと思う。
日本ではとくにHERMESのケリーバッグのようなブランド物についての象徴価値は、本国のフランスのように機能しない。
HERMESはお金さえ払えば誰でも持てる。上位階層を象徴する記号じゃないということだ。というかバッグに関しては、北新地のクラブやラウンジのママに割合が多い。東京じゃ銀座もそうと違うの?
日本人はとにかくブランドにうるさい。
また、80年代の狂おしいカタログ誌面のファッション誌(田中康夫の『なんとなくクリスタル』はミリオンセラーだった)から、インスタグラムやPinterestへと変わったが、ファッション情報の大量、過剰化はとどまるところを知らない。
そのうえであらかじめ「ある人にはある」と言っておくが、80年代以降の日本人のファッション好きには「うんちく」とか「こだわり」とかでは表現することが出来ない、ものすごい細微な記号についての情報リテラシーがある。
「モード記号の情報感度が高い」みたいなものは、「わたしはおしゃれです」や「この人イケてるやん」にもろに関わってくるのだが、ブランド(名)にしろアイテム(名)にしろ、記号が記号として機能するには、自分が身にまとっているそれらの服や所有しているアクセサリーの「それと分かるわかり方」が絶対条件だ。
ファッションやモードの世界で「それと分かる」というのは、「おぬし出来る」「おぬし分かる」みたいな感じで、「万人に分かる」メルセデスベンツのスリーポインテッドスターやナイキのスウッシュ・マークとはちょっと違う。
たとえば「25年穿いて穿き古してタテ落ちまくりでサックス色になったドゥニームのジーパンを今これ!」と思って出してきて穿く。というのと、「先端ハイ・ファッションの日本製ダメージ加工のドルチェ&ガッバーナのジーンズ」をブティックで買う。ということについて、どうテイストが違いどっちがモード的かなどなどをとやかく言ったりすることだ。
それが「記号的」であればあるほどブランド的象徴価値は的確に機能する。
シャネラーとかユニクラーといった「ブランド嗜癖症」もそうだし、「夏のJ.M.ウエストンのローファーは、ルモックのシボ革」「今年はバレンシアガの黒キャップだ」といった「物言い」は、ものすごい細かい記号についてであり、それを解読する情報リテラシーが要求される。
情報ベースの「モードの記号性感度」というのはなかなか複雑で、ある服を選んで着たりアクセサリーを選ぶことが「今イケてるモードである」と、「それと分かる」ためには、たとえば「デザイナーがマリア・グラツィア・キウリに変わったDiorの赤水玉バッグ」が「記号的に解読されている」という前提でないと機能しない。
「それ、なんですか?」では済ましてくれないのだ。つまり記号的に「うわ、早い」「おしゃれ」と分かってくれる人がいないと、「それがどうした」状態で「次のモード」も「先端的なデザイン」もへったくれもない。
ん? けれどもそれってちょっとおかしい。
「ブランド的記号」が意味するものが、双方「それと分かってる」とするならば、もうキミが被っている「バレンシアガの黒いキャップ」にも、わたしが買ってきた「ドルチェ&ガッバーナのダメージ加工のジーンズ」にも本質的な先端性はない。
「ブランド記号的消費」がすべてを占めるモードが、「おもろいなあ」というのはそこのところで、新しい服やブランドは記号的に「それと知った時点」でもう「終わりはじめている」というところだ。
ん? これって脱構築というやつか。
だから何がトレンドなのかに敏感であったり、たくさんのブランドの新作を知っていたり、次に何が来そうだということを予想したりすることが、「ほんまはかっこ悪いことではないだろうか」という「もう一つ先の視点」が要る。
「そもそも流行とかトレンドにのっかるのがダサい」。
こういうのもあかんのだろう。こういった「反モード」もすでにモードの1つのシーンに還元されていている。そういう考えこそ、ぺらぺらで浅いのだ。
そしてこの反モード的なものが、ステイホームの「衣」と親和性がある。そこが致命的におもろくないのだ。
コロナでステイホーム中にカジュアルに着るユニクロや無印良品のTシャツにはなくて、釜山やバンコクやイスタンブールのブティックで「本物よりも本物らしい」最新のTシャツを買ったりする感覚。
本もんもパチもんもどっちもいったれ。そういう感覚こそが「カジュアル」というもののひとつなんだろう。
(第15回・了)
次回、2020年9月18日(金)掲載