「お洒落」考 江弘毅

2022.2.17

20「おカネでゲットする、おカネで何かをしてもらおう」ではない

 

 10年ぶりぐらいか、久々にアウトレットに行った。
 神戸市の西海岸・垂水にある大型のアウトレットは、「マリンピア神戸」という名前がついている通り、ウォーターフロントの絶好の場所にある。
 ヨットハーバーに隣接していて、巨大な明石海峡大橋も見える。プロムナードを歩けば観光リゾートのような空気感がする。

 オミクロン株の感染拡大の中、おまけに平日の午前中とあって、アウトレットのショップはガラガラで、客がそこそこ居るのはadidasとユナイテッドアローズぐらいだ。

 フランス製鋳物鍋のストウブが目当てだったのだが、欲しいものはなかった。なので、とりあえずラコステやDIESELはじめ、一通りをぼんやり見ていた。

 アウトレットという「年中セールをやっている」巨大ショッピングモールは、徹底的に経済合理性を追求した商業施設だ。
 バナナ・リパブリックでは「ファクトリー・アウトレット」という呼び方をしているように「工場直売」なのであり、流通コストほかを押さえた割安商品が並ぶ。
 と書くと、経済部の記者みたいでまったくファッション的に面白みがない。

 客は店内に入ると、置いてあるカゴや大きなバッグを手にして、気に入ったアイテムを入れてそれをレジに持って行って精算する。
 そういう買い方のシステムだ。

 もう20年以上前のことだが、大阪ミナミにGapが出来て「なんか服屋じゃなくてスーパーマーケットみたいやなあ」と思ったのが、新しいこのシステムだ。
 どばっーと陳列台に山積みされたり、ハンガーにぎっしり吊られた、ロゴ入りのTシャツやトレーナー、ジーンズなどの中から、自分のサイズをつまみ出して大きなバッグに入れる。

 目に入るのは大きなロゴやイラストのデザインと、「sale」「50Off」などといった大きなサイン。そしてアイテムのプライス・タグは真っ先に見る。プロパー価格を訂正してあってセール品だとわかると、得した気分になって思わず買ってしまったりする。

 こういう売り場では試着は邪魔くさいから、ボトムスはあんまり買わない。というか、カジュアルなチノパンやスウェットばかりなので、S・M・Lといった「だいたいのサイズ」でいいのか。ソックスや下着のトランクスも結構、買ったなあ、などと記憶する。

 店員と顔を合わすのはレジのバーコードと読み取るときだけだ。
 値段は即座にディスプレイされ、「じゃんけんぽん」のように貨幣と商品とが無時間モデル的にさっと交換されるシステムだ。

 ファストフード店やホームセンターと同様で、接客する店員は数少ない。
 これらのショップビジネスでは、客とのコミュニケーションのやりとりは余計なコストなのか、と思える節もある。

 このあと続々と出てくるユニクロはじめのファストファッション、無印良品もこんな店舗だった。

 こういう買い物のシステムでは、単一ブランドのブティックはもちろん、ビームスなどの品揃え店でも、服をどう着るのかを学んだり、着こなしということについて知ったりすることは出来ない。

 コムデギャルソンを着ても、エルメスを持っても、ダサい人はダサいのは、「それだけ」つまり「買った商品を身につけているだけ」だからだ。

 ファッションあるいはモードの世界は「商品と貨幣の等価交換の原理」ではない。

 と書いていて、ホリエモンのことを思い出した。
 ライブドアがニッポン放送とフジテレビの買収に名乗りを上げたとき、ホリエモンは「カネで買えないものはない」と言った。その言葉を新聞はじめとするメディアが報道したが、俺はとことん新自由主義スタンスである、という表明よりも、「こいつはふざけて、わざと言ってるのか」と思った。

 けれどもその後、NHKの放送にアドルフ・ヒトラーを描いた黒Tシャツや、刑務所に収監される際の「GO TO JAIL Tシャツ」を発見して、ひょっとしてそのまんまかも知れないと思った。
 かっこよさは「おカネでつくったり買えたりする」ものではない。

 資本制市場経済の根幹である「交換の原理」そのものを推し進めて突っ走り中の「消費社会」は、「欲しいものはいつでもどこでも買える」というコンビニ的、Amazon的なことを実現してきた。

 その裏面は「必要なものは貨幣で買うしかしょうがない」という、おカネを持たない弱者にとっては厳しい現実を突きつけているのだが、服を着る際に「カッコいいは必要なのか」ということについては、コストパフォーマンスみたいな感じで「消費者的」に投げ出していることが、「好きなブランドはユニクロ」につながっているのだと思う。

「子供の頃から消費者」であることに照準されてきた90年代のバブル崩壊以降生まれの若者(弱者の一人である)のファッションについての諦観を見ていると、つくづく「日本は貧乏になった」と思う。

『絶望の国の幸福な若者たち』(@古市憲寿)にある、「たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を三時間、家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる」は、すでに10年以上前の日本であるが、かれらはいつも「賢い消費者」であろうとしてきた。

 かれらは「人より損をさせられているのかもしれない」といつもビクビクしているから、自分がおカネで買ったものに対してなかなか満足しにくい。

 とくに「食べる、飲む」について顕著なのだが、星や食べログ的評価など事前に情報を身につけていないと店に入れない。
 だからどこでも同じメニュー、同じ値段で、加えて「スマイル0円」とメニューに書いてあるマクドナルドを「リーズナブルだ」と思う。

 支払うおカネの額と価値満足感が釣り合うことのコストパフォーマンスばかり気にしているから、「いま、ここ」で「1万円」出したのに、「それ相応のものが食えない」と、ぶちくさ文句を言う。

 そういったメンタリティを持つ「全身これ消費者」は、「カッコいい」や「おしゃれ」を目指そうとするファッションの世界においては無効である。少なくとも「無い物ねだり」になってしまう。
 つまり、「カッコいい」は商品社会の「交換の原理」で得られるものではなくプラスアルファのもの。ある種「贈与的」なものだという見方と覚悟が必要なのだ。

 カッコいいはあくまでも「おまけ」みたいなものである。
 商品としておカネで買おうとしている服に、その「贈与分を見つける」こと。それがすなわち「おしゃれに服を着る」ということなのかもしれない。

 ファッション的な「交換と贈与」については、中沢新一さんの『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュⅢ』(講談社選書メチエ)がうまく書いているので引用する。

    • 交換の原理

      (1)商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や感情などは、含まれていないのが原則である。
      (2)ほぼ同じ価値をつとなされるモノ同士が、交換される。商品の売り手は、自分が相手に手渡したモノの価値を承知していて、それを買った人から相当な価値がこちらに戻ってくることを、当然のこととしている。
      (3)モノの価値は確定的であろうとつとめている。その価値は計算可能なものに設定されているのでなければならない。(p35-36

    • 贈与の三つの特徴

      (1)贈り物はモノでない。モノを媒介にして、人と人の間を人格的ななにかが移動しているようである。
      (2)相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
      (3)モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較できないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。(p38-39

 中沢氏は「交換」について「この贈与という基礎の上に立って(略)その発生は、贈与のあとから、贈与を土台としておこなわれます」と付け足すが、デリケートで複雑な「贈与の原理」から、簡単で合理的な「等価交換の原理」にもとづく社会へと変容——全て「コストパフォーマンス」と「損得」で割り切る経済合理性、世界共通の経済活動を目指すグローバルスタンダード——へと変容したものだと理解する。

 「カッコいい」「おしゃれ」といった「不確実性を抱え込んで進行していた世界」に、貨幣によって「計算したり比較したりすることがスムーズに、しかも確定的におこなわれるようになる」交換のシステムによるファストファッションが割り込んできたのだ。
 それを前回、ファストファッションがもたらしたことは、「ファッション・アイテムの適正価格の発見」と書いた。

「贈与的」であるというのは「たまたまもらったもの」であり、「モノを媒介にして、人と人の間を人格的な何かが移動しているようである」「モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値」の「モノ」を服に当てはめて読み替えると、山本耀司さんが言った「おしゃれの原理は、人の目を楽しませること。自分のためではない。他者を気遣うこと」とは、そのプレゼント性のところで共通している。

 ここでの「不確定で決定不能な価値」つまり「おしゃれ」は原理的に、「等価交換」の見方をしている限り、「おしゃれ」からは遠い。

 衣服の「商品的交換」についてはこういうことがある。
 70年代頃のLevi’s50166モデルと同じように、「オールド・イングランド」とか「アール・ニューボールド」といった、かつてのブランドやメーカーのアイテムが「お気に入り」になっている、ということがよくある。

 だからメルカリで「おっ、見つけた」と買うことがある。
 数年前のこと、「23回着用のみ。20年以上クロゼットにしまってました」というオールド・イングランドの襟が大きいボタンダウンのシャツを買った。
 メイドイン・イタリーの真正オールドバージョンである。

 届いたシャツを見ると、首のうしろのブランドタグにマジックで「2丁メ、○×」と苗字が小さく書いてあった。
 これは自分にも同様の経験があるぞ。行きつけの親しいクリーニング屋さんが書いたのだろう。

「佐藤」とか「幸司」とかの名前の刺繍が入れられた古着の上着みたいに、これはちょっと着る気がしない。せこい考えのわたしはベンジンで消そうとしたが、消えなくてあえなく捨てた。

 ここで先の中沢さんの「交換の原理(1)」を見てほしい。他人が着た服は、端的に気持ちが悪いから、だからこそ交換される商品となるために、縁や人格断ち切る神仏の力(=市場)が必要なのだ。

「交換価値のみの商品」であるおカネと商品としてのファッション・アイテムは、等価交換されるの(はず)であるが、「カッコいい」は決して載っからない。

 ミュージシャンにとっての「楽器」や大工が使う「道具」みたいに、手にする物を「使いこなすこと」。技術や技巧、技芸のような何か、これが「着こなし」なのだろうが、それがないと単なる「所有物」である。

 鷲田清一さんの近著『つかふ 使用論ノート』(小学館)にはこう書かれている。

道具を使うことは道具の構造と交わり、それになじんでゆくということであり、そのなかで〈わたし〉のふるまいや活動の構造も否応もなく変換されてゆく。使用とは、使用者がみずからの構造を物に押しつける、つまりそれを統制下に置くということではなく、異なる構造を受け容れることで逆に自己を拡げてゆくということなのである。道具を吞み込んでゆく過程は、道具に吞み込まれてゆく過程でもあるということなのだ。(P30

 これは、自らがつくるジーパンを「道具」だと言ってはばからず、「ジーパンを穿くということは、自分の体への馴染み方や、色落ちの過程であり、そこにおしゃれがある」と言う、リゾルトのクリエーター林芳亨さんの言説に驚くほど近い。

 鷲田清一さんは続けて「衣裳」にも、次のようにふれている。
 衣裳(costume)は習慣(custom)と意味が通じていること。衣裳を身につけるというもっとも劇的な効果は、人の表面が皮膚から衣裳の表面へと移行することにある。衣裳を身につけているときに、もし他人がその衣裳の下へ手を差し込んだなら、それは〈わたし〉への蹂躙となる。
 衣裳の内側は〈わたし〉の皮膚の外側であるにもかかわらず、〈わたし〉の内部とみなされ、感じられる。その内部が、何かの使用とともにどんどん更新されてゆく。使用されるものの異質な構造を吞み込んでゆく。吞み込みつつ、それに制覇されていく。

 もう少し拡げて言うと、衣裳つまり服と身体の関係は、服を着る人から(道具として)着られる服の一方向ではない。服を着るということは、自分の身体とは別の「衣服の構造」を受け容れることで、その延長線上にファッションの世界があるということだ。

 衣服は身体を自然状況から物理的に守ったり、機能的に拡張したりするが、身体自体の感覚的な変容をもたらすから、それを着て「世界と関わるとき」は「おしゃれ」を目指す。
 これが「交換」の原理からはみ出た「贈与」にあてはまる部分ではないか。

 相応のおカネで買ったエルメスのカシミアのコートや200番手双糸の生地を使ったアルモのシャツにしても、「良いものはやっぱり良い」というような見方で、衣服から素材自体の「使用価値」だけを引き剝がしてしまい、「使用するもの」と思いこんでいる限り、おしゃれは遠い。

「カッコいい」の構造は、「おカネでなんでも買える」とか「おカネを払ってなんとかしてもらおう」ということとは違う位相にある。

 そういうことは、街の服屋で「おしゃれの先輩」に教えてもらったりしたが、そういう店はもうないから、そういう人がもう居ない。

 

(第20回・了)

次回、2022年3月14日(月)掲載