「お洒落」考 江弘毅

2022.3.23

21衣食住とモード

 

 人の生活の基礎である「衣・食・住」。
 誰もが知る言葉だが、なぜそういう順番になったかは知らない。
 どうして「衣」が一番先なのだろうか。

 これは荒っぽい言い方だけど、「食べる」や「住む」は、猿やライオンはじめ鳥類にも共通することがらだ。ところが「衣」は人間だけのもので、これが言葉や火使うこと同様に動物と人を分節するものだ。
 動物にはヒトのような社会はないので、単純に書けば「服を着ることの社会性」というものだろう。

 日本語には「身ぐるみ剝がされる」という言葉がある。
 古今亭志ん朝の持ちネタで有名な古典落語「文七元結」には、博打で負けた主人公が身ぐるみ剝がされる。裸だと賭場から帰れないので、「みい坊」の半纏を借りて帰る。

 子供の半纏なので尻が丸見えで、恥ずかしくも帰ってくるこの話と、吉原へ売られそうになった娘を救いに行くために、自分の着るものがないので妻の着物を着て駆けつける話が中盤から出てくる。

 この人情噺の大団円は、「わたしの着物がありゃアしない」。裸の妻と、綺麗に着飾った吉原から帰ってきた娘が抱き合って涙を流すシーンだ。
 人の日常生活にとって不可欠なのが衣服なのだ。ファッション以前の話である。

 金子光晴の次の詩はもっとシビアである。
 有名な「猿股のうた」すなわち「詩のかたちで書かれた一つの物語」から。

父と子が二人で
一枚の猿股しか持っていないので
かわり番こにはいて外出する。
この貧乏は、東洋風だ。

父のすねには、捲毛があり
子のすねには、うぶ毛、
父には何十年すぎて この貧乏。
子には何十年をひかえて この貧乏。

貧乏に吸いとられて
ひょろめく人間。
貧乏とは、つまり骨と皮だけで
血と肉の乏しいことだ。

貧乏に泥んだふるい東洋では
人生とは、不自由のことなのだ。
苛斂(かれん)、誅求(ちゅうきゅう)にも甘んじて
いつでも荒地にかえる覚悟だ。

風に吹き散る富貴を蔑み
天から授かった赤貧をたのしみ、
死んでゆくときのこすものといえば
猿股一つしかなにもないことだ。

父が死んだので、子は
前よりゆたかになった。
二人で一つの猿股が
一人の所有になったからだ。

だが、子供が水浴びをしているとき
蟹が猿股をひいていったので
子は誰よりも貧乏な
無一物となりはてた。

そして子は、毎晩夢にみた。
失った猿股のゆくへを。
誰かがそれをはいて
世間のどこかを横行するさまを。

子は知った。
猿股なしでは
泥棒や乞食にもなれないと。
猿股なしでは、人前に
自分の死様もさらせないと。

(後略)

 詩が始まる前書きに「猿股一つしかない父子の話は、世界のうちでも特別貧しい、安南国につたわる伝説」と能書きを書くが、なかなか考えさせられる金子ならではの服についての詩である。

 ここから人間社会の「衣」の意味に引っ張ると、何をどう「食」おうと、どこでどういうふうに「住」もうと、こちらは勝手すなわちプライベートなのだが、「衣」に関しては、それなしでは、人の前へ出ることはできない。

 臨床哲学の鷲田清一さん流に言うと、〈わたし〉の存在の表面が〈わたし〉の服であり、それが猿股であるのだ。猿股を穿かないと、存在の表面がないので「外の社会」には出られない。

 なのでファッションは、始原的な人間の「服の社会性」とは決して切り離されない。そしてもう一段「服を自分で選んで着る」次元をあげたレベルでファッションという世界がブレークダウンする。

 ひとは、いつ、服を着はじめるのだろうか。生まれてすぐではない。生まれてすぐ、ひとは布でくるまれる。でも、それはじぶんで服を着ることとはちがう。じぶんが他人の眼にどんなふうに映っているか?――そういうことを意識しだしたとき、つまり他人の視線にまで想像力がおよびだしたとき、ぼくらははじめて服を選んで着る。ファッションのはじまりだ」
(『ちぐはぐな身体(からだ) ファッションて何?』p52ちくま文庫)

 この本のあとがきには、「十代向けのシリーズの一冊としてこれを書いて……」とある。学術書とか一般書とかそういう構えがないので読みやすい。

 飾ったり、突っぱったり、ひねくれたり、ふてくされたり……。ファッションはいつも愉しいが、ときどき、それが涙に見えることがある。
二〇〇四年十一月
                       鷲田清一

「文庫版あとがき」はそう結んでいる。
 この本がはじめに単行本として上梓された1995年頃、鷲田清一先生が関西大学から大阪大学に移られてしばらくしたぐらいの時に、わたしはすごく懇意にしていただいた。

 わたしが岸和田のだんじり祭礼関係者だということで、その話が大層面白がられたうえに、もともと洋装店の出身で服が好きで、月刊誌ではファッション担当していたものだから、よくモードやファッションの話をわいわいとさせていただいていた。鷲田さんは結婚式の披露宴にもヨージヤマモトの服を粋に着ていた。

 すぐのち、編集長をしていた月刊『ミーツ・リージョナル』誌で、鷲田さんと永江朗さん(このちくま文庫の解説を書いている。彼も服好きです)との対談連載「哲学上方場所」がはじまり、数年後に単行本化されたのだが(『哲学個人授業』バジリコ・木星叢書、のちちくま文庫)、その最中に鷲田教授は大阪大学の副学長そして総長になられた。

 鷲田さんは、その頃からわたしらに、自身の専門の身体とかファッションを哲学〜現代思想の用語を使わずに話していた。
 メルロ・ポンティの「知覚の現象学」については、わたしにペンを持たせて、「これでコップをなぞって、なんで丸いと分かるんやろ。ポンティはそういうことを考えた」とか、永江さんが解説で書くように、鷲田さんは冗談が好きでいつもニコニコと京都弁で話されるし、文章は標準語で書かれているように見えるが京都〜関西弁のイントネーションである。

「オム・プリュスの新しいプラスチック・コーティングのジャケット」については「ちょっと犯罪的やねえ」、「ジーパンの縦落ち」や「抜群に着古したケンゾーのジャケット」は「茶の湯みたいやなあ」とかである。
 さすが「臨床哲学」の先生、「地に足がついているカッコよさがあるなあ」と思った。
 さきほどの「文庫版あとがき」は2004年に書かれたものだ。

 鷲田さんが「ぼくの友人の話」、という前置きで語ってくれたのだが(しばしば著書に書かれている)、普段スーツを着ない父親が子どもの授業参観にきちっとスーツにネクタイを締めて小学校へ行ったところ、担任の先生がジャージ姿で授業をやっていた。
 それを見た父親は頭にきて、「その服装はないだろう」と詰問した。

『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)では、「先生のジャージ姿に、傷つくどころか、侮辱されたと言ってました」と書いている(「衣服のホスピタリティ」p153)。

 授業参観で先生が着るべきなのが「背広」である。
 ダブルの6つボタンピークドラペル、既製の吊るしじゃないオーダー製だとか、ダンヒルとかユニクロとか、そういう話ではない。

 学校教諭の服、これはわたしの記憶にもあるが、旧い城下町の岸和田では、昭和の昔の先生はきちっとスーツを着ていた。三つ揃いの背広の先生も居たなあ。
 チョークで汚れるのがいやな先生は、スーツの上に白衣を着ていた。事務用の黒い腕カバーをしている先生も記憶にある。
 女性の先生はカットソーやニットではなく、ツーピースのスーツを着ていた。そういえば昭和23年生まれの兄の卒業式の写真には女性の先生が袴姿で写っている。

 この場合のスーツは、警官や客室乗務員の制服あるいはユニホームではない。
「背広姿」などと表象される男性のスーツは便利なアイテムで、服に関してあんまりあれこれやってきてなかった人にも、それなりにちゃんと(普通に)着れば、まわりの人の気持ちを害したりしない。

「なにかを食べに店に行くとき」もそうで(鮨屋にアロハシャツを着ていくのはどうか)、鰻屋とか「そういうとこ」にはワイシャツと背広で行くのがエエんじゃないか(これは04「で、どこに何着ていくん?」で書いた)。

  旧い料理屋や鮨屋の大将は、割烹着のVゾーンからシャツとネクタイを覗かせていたし、こと和食に関しては、客の前に立って料理姿が見える人は、Tシャツにキャップ、という出で立ちではなかった。

 もう亡くなられたが、神戸の旧外国人居留地にある創業100年になる老舗の洋食店のシェフは、BMWのサイドカー付き大排気量のバイクに乗るような人だったが、いつも立て襟ダブルのコックコートのボタンを一番上までかけて、びしっと粋に着こなしていた。
 ちらっと厨房からその姿が見えるだけなのに、その店の料理や雰囲気をコックコート一枚で表現するダンディな昭和一ケタ生まれの男性だった。

 服について極端な逸話としての「文七元結」も「猿股のうた」も、「教諭のジャージ姿」でもそうだが、服やファッションのことを語る際には、やはり徹底的に実生活的な場所において実際に外見がさらされるみたいに浮かんでくる場面での人の姿こそが、服やファッションを語る際のリアリティだ。
 雑誌および一般書籍の編集者として言うと、それが書けないと読めたシロモノではない。

 鷲田さんとの服の話は、そういう「語り口」だったと思う。
 実にリアルで愉快な服についての話であり、「服を着る」ということは実人生であり、モードやファッション以前に、いま現に生きていることの調子や社会にどう関わっているかを表しているようだ。

 この亜紀書房の連載はもう2年以上も前、Facebookで相方の青山ゆみことやりはじめた【玄関先ですんません】シリーズが、「面白い」ということで始まったWeb連載だ。

 外出するわたしを玄関先に立たせて、青山が写真を撮る。その日に着た服のコーディネートやアイテムやそのブランドのことについて、わたしが「いまから着ていく服」のことをあれこれと喋る。
 それを青山が解説しながらコメント的に書く。コメントのスタンスは基本的に「大まじめな揶揄」である。

 そういうことだったが、やり始めると「ちょっとその格好はないんちゃう」「わからんわ、そのブランドの話」「命がけやなあ」といったコメントにわたしは苛立ち、それに対していちいち「わかってないなあ」「ちょっと違うなあ」「これを書いといて」とか言うものだから、青山は「めんどくさいから自分で書いて」と解説を投げ出した。

「毎日どこか行くために服を選んで着る」という行為は、猿股も上着もずらりとあって何遍も「断捨離」を頭に浮かべるわたしにとっては遊びみたいだが、それを「書き出そう」となるとなかなか力が入る。

 連載が始まると同時の2019年末に、新型コロナウィルス感染が深刻になった。
 いわゆるステイホーム、家に居ることが多くなる。家では暑かったら短パン、それ以外はジャージで済ましてしまう。
 すると外に出るときに「着替える」こと、すなわちそのとき必ず「違う服」を着ることになるので、そのあたりについて考えるようになった。

 連載が始まる際に、担当編集者と打ち合わせしてあらかじめリストアップしたのは、ジーンズやコートなどのアイテム、あるいは「コムデギャルソン」とかのブランドについて。ストリートファッションやあの頃のイタリアものどう着るかの「着方」について。
 それらのテーマに添って、その企画案を反芻するように脳裏に浮かべて進めるのだが、そもそもの連載のネタである、外に出るときに「この服を着よう」となるモード的な意識はなにか。ほとんど家で居る身で、外に出るときに「違う服を着る」というのは、「複数のわたし」をつくっていくことではないのか。
 緊急事態宣言が出たり解除されたりの長引くコロナ禍は、この連載を書くにあたってそういうことに気づかせてくれた。

 2020年4月の新学期になって、「緊急事態宣言」とシンクロするように冠動脈の狭窄で2回入院した。よけいに「外に違う服」を着ていくことが少なくなってしまう。
 ついに秋には足首を骨折して手術入院。退院したのは年末で、2021年になって23ヶ月間は松葉杖だった。

 怪我をした片足を固定具で留めて松葉杖(1本だけ)をついて外に出る。電車に乗ったり店に行ったり、会議に出たり取材に行ったりトークショーにも出たりしたのだが、その際にその足の靴が履けない。
 片足だけサンダルで片足が靴のコーディネートは難しい。ジーンズやチノパンのボトムだけじゃなくてスーツも試したが、「わたしは怪我をしています」というメッセージをどれくらい「包もうとするか」が、「違う服を着ること」の根本にあると諒解した。

 靴を(片足)履けないということについて、家で居るときのように楽なジャージを穿いて外へつまり社会に出られないかと、それまでのアディダスやナイキ、ラコステといったスポーツウェアのブランド以外にも手出しした。

 バナナリパブリックの公式サイトを見ると「フリースジョガーパンツ」「フレンチテリージョガーパンツ」「スーピマニットジョガーパンツ」とかがあって、そういう新しいモード的な言い方を発見した。
 けれどもそのココロは、「固定具を外すまでの数ヶ月間だけ」を想定してパンツを選んでいる。これは「雨降りのときの傘みたい」な使用価値の消費軸と、ファッションの流行軸がもろ交差している。

 部屋で寝転びながらケータイでメルカリに入って、「ポール・スミスはどんなジャージ出してるのか」と検索して、「ジャージ/パンツ」ではなく「スウェットパンツ」でよく引っかかるのに気づいたし、1000円そこそこで出されていたR.ニューボールドの紺のスウェットパンツを発見して、実際に買ったりもした。

 実際はあきれるほどユニクロだらけで、「スウェットパンツ」を通じてユニクロというブランドと自分の考えるモードとの網の目みたいなものがよくわかったのは、いくら安くても自分が欲しいとは思わなかったことだ。

 言い訳がましくなったが、連載が長く中断したり遅れたのは、自分の入院もあったが、ファッションやモードを書く際に、「何から話を始めるかの端緒」にぶち当たったのだ。

(第21回・了)

次回、2022年4月14日(木)掲載