「お洒落」考 江弘毅

2022.5.3

22モードとは世間であり、ファッションは利他である。

 

 

 ファッションはしばしば「うわべだけのもの」という言われかたをする。逆にファッションは「自由と個性の表現」であり、「ライフスタイル」であると言われることも多い。

 わたしは「ファッションは生き方だ」などと言われると、確かにそうかも知れないと思う反面、「反体制のオレはこれしか着ない」と金色のモヒカンヘアと鋲を打ちまくったパンク・ファッションをまっすぐに想像したりして、その「生き方」とは、「ある社会集団内の環境」ではないかという気がする。

 しかし「生き方がファッションだ」という言明は、大変に芝居かかっているように思える。
 今度は一歩譲った言い方で「生き方がファッションであっても良い」としてみると、ちょいワルおやじの「モテるためのデニム」や「女子ウケのブランド」みたいな感じがして情けない。
 ちょいワルおやじが、「ええ服とうまい酒と飯に命がけ」になる全ワルおやじより常にショボくてダサいのは、当然「生き方が足りない」からだ。

 服とひとの生き方に関して言えば、今なおその記憶をとどめるイギリスやフランスの階級社会をつくるそれぞれの「社会集団」には、階級間の区別が守られている。
 それはどこに住んでいてどんな職業であるかなどの区別でもあり、どこでなにをしているかの違いでもある。
 何を着るかについても、上流階級には「地位・権力・育ち」を象徴する装いがある通り、ファッションについては、たとえば制服のようになかなか自由や個性だけではそのややこしいところを超えられないものがある。
 象徴はこれすなわちブランドである。山田登世子さんの『ファッションの技法』にはこうある。

 ――ねえ、みなさん、うちの大学ってすごいですよね。キャンパスではほとんど全ブランドにお目にかかれますものね。プラダにグッチにルイ・ヴィトン、必ずもってるひとがいるでしょう? わたしなんか、そんなみなさんの「勇気」に敬服してしまうの。だって、こう言っては嫌味ですけど、わたし、専門的にお勉強してしまったものですから、教養がじゃましてしまって、とてもルイ・ヴィトンなんてもつ気になれないんです。そうなんですよ、ねえ、みなさん、ルイ・ヴィトンって、それをもってバスや地下鉄に乗ったりするようなバッグじゃないの! というより、そもそも自分でもつようなバッグじゃないんです。そうなの、ルイ・ヴィトンって、召し使いにもたせるバッグなんですよ!
 その日、たまたま教室にルイ・ヴィトンをもって来た学生はフクザツな顔をしてわたしをにらんでいる。わたしは、しらっとした顔で、講義を続ける。
    (『ファッションの技法』p132-133/講談社現代新書)

 
 山田登世子さんは、大変イケずで面白いことをおっしゃる。本来、自分のバッグを他人に運ばせる階層のひとでないと、ルイ・ヴィトンは似合わない。そういう約束事になっているとのことだ。けれどもしかし、ここは日本である。

 わたしらの70年代に最初のモードの入り口であった「トラッド」は「アイビー・ファッション」であり、アメリカのアイビーリーグ=エリート大学を出た人間に特徴的なスタイルだ。具体的にはボタンダウン・シャツでありナチュラルショルダーに3つボタンのジャケットである。

 先のルイ・ヴィトン的に言うと、HARVARDと書いたトレーナーやプリンストン大学のワッペンがついた紺ブレを着ること、それはいわば「象徴の泥棒」であり、「経歴詐称」ではないか。その人気アイテムがVANジャケット製であるとかないとかいう服自体の話は関係ない。

 階級あるいは階層社会においての位階に応じたブランドがあるということと同様に、そのひとから垣間見える「趣味」や「テイスト」についての「良い/悪い」が「文化資本」として機能するという社会性は厄介だ。
 これは英仏に限られず日本でもある。「お里が知れる」というのがそれに近い。
 生まれ育ちなど社会環境によって受け継がれてきた文化資本によって階級があらかじめ決定されるという「世の中」や「世間」は、多くの人たちにとって大変窮屈で生きづらい。

 ピエール・ブルデューも言っているが、「趣味とは嫌悪」であり、その人が貴族階級であろうが農民であろうが関係なく、他人の趣味に対して「なんだかなあ」とか「あれはだめだ」「話にならん」とかがまずあって、これはたとえばルイ・ヴィトンやユニクロといった記号のレベルではなく、自分のパーソナルヒストリーによる生き方が関わってくるから余計シビアにならざるを得ない。

 もちろん他人の趣味に関しての嫌悪のいきつくところは、わたしの趣味に関しての正当性であり優位性を成り立たせる「押しつけ」である。これは言うまでもなく階級権力闘争的である。

 出自や育ちゆえ「エルメスのバッグを持つのはダメ」というのはどういうことか。何で俺の高校生の娘がアルバイトで働いて貯めたカネでルイ・ヴィトンのバッグを買うて持ったら、そもそもが似合わんからあかんのか。

 階層上位者がそこで文化資本を発揮する「趣味の問題」は、「良い/悪い」「下品/上品」というバイナリーコードなのだろうが、筋張った日焼けの手首や指、首にジャラジャラと合計1キロぐらいあるんじゃないだろうかという金をつけまくったパリのおばはんや、わざわざ破ったジーパンからひざを見せてジャケットを着て夜もサングラスをかけて裸足で靴を履いてミラノの世界のブランドのブティックが並ぶ通りをうろうろしているにいちゃんは、「シックやエレガントとは違うと、俺は思うわ」と思っている。

 話はそれるが、この「シック」については、『ロラン・バルト モード論集』(山田登世子訳、ちくま学芸文庫)でバルトは、いつも同じ型をつくって、毎年それに「変化をつける」だけのCHANELをクローズアップして、「シック」という着古した崇高な時間こそがシャネル・スタイルの決定的な価値だ、と書いている。
 そういうふうな言い方で「シック」を書いてもらえると、なるほどファストファッションとは違うんであるとよく分かる。

 これも余談だが、写真に残る煙草を吸っているロラン・バルトやメルロ=ポンティはかっこいい。「ファッションがあかんやつ、ダサい人の思想や哲学は信用でけへん」というわたしの決め付けは、知の巨人たちの「良い趣味/悪い趣味」を分けてきた経験による。

 どこでどんなふうに服を着てきたか。
 それは始まりとしては家庭であり学校であり先輩であり、どんな街の風俗や文化下の時代でどんな服飾がモードなっているかの時に、自分がどんな服を選んできたか。
 この着るものについてのパーソナルヒストリーは、それこそ自分の「世間」である。

 自分が18歳だった頃の長髪のサーファーだった写真を見て、わたしは「若気の至り」で恥ずかしいと思うが、世の中には写真を見せて自分が若い頃から「正統性のある装い」をしていることを自慢する人も多い。

 けれどもロレックスのデイトナを付けていたり、フェラーリに乗ったりすることは、「すごい」と言われはするが、日本では単に並外れたカネ持ちであるということを象徴するだけで、社会階層を表す「ブランドもの」としては機能しない。むしろ「悪い育ち」に見える。成金的「見せびらかし」はダサい。そういった「趣味」に対しての嫌悪は階層を示すそれではなく、「世間」であるはずだ。

 そういう人たちの集まるパーティーに行ったことがあるが、それは先ほどの「ある社会集団内の環境」の内部にいる限りはモード的で、ちゃんと「場」や「界」としてのドレスコード的なシステムが作動しているふうに見えた。
 つまりわたしこそがそこでは「場違い」だったのである。
 この「場」というのが、とある「世間」そのものである。

 わたしは寺が多かった城下町の町中に育ったので、よくお坊さんの姿を目にしたが、夏の紗や絽の法衣は涼しい。
 いや、実際には暑い夏にそれらを着て涼しいからではなく、他人からの見た目である。世間を涼しくしてあげる「利他」なのだ。
 それが「いつもあの和尚さんはお洒落やなあ」であり、祇園や先斗町の打ち水の風景と感覚的には同様なのだと思う。

 ものすごく熱くて湿気のある日本の夏のプールサイドやリゾートっぽいバーに、麻のジャケットに短パンにハイソックス、といった出で立ちの人を目にするが、単に「見せびらかし」なのか、「おしゃれな人」と思われるのかどうかなのかは、その「場」に入り、参加する際に、装うことが利他的なのかどうかなのだろう。

 なので「ファッションに興味がない」から着るものに無頓着だというのは迷惑でしかない。むやみに目立つことはすなわち場違いだ。
 また文化資本的に「得するファッション」なんていうのは、高級ブランドの「定番を押さえる」ということぐらいで、時代のモードの楽しみからは遠い。

 一人一人が互いに「あの人、おしゃれだなあ」と思うような「場」にいること。仕事場でもパーティーでも、そこに居て時間を共にする成員のみんなが良い気分になる。そもそも社交(界)というのはそういったある種の感性が刺激されるのだろう。

 階級階層や上品/下品、良い趣味/悪い趣味の二項対立を突破するファッションは、利他主義のセンスなのであって、決してハイファッションやモードの先端を追い求めることではない。もちろん奇をてらったり反対に無難を求めることではない。
 こういう場所で、こういうメンバーだからと思い浮かべて、あのシャツとあのパンツを合わせたらこうなった(=うまいこといった)、という事実の繰り返しだ。
「おしゃれ」は偶然であり、何かのはずみですっごいうまいこといったスタイルの定着、ということなのだろうが、そのベースには利他、「人がより楽しくご機嫌に過ごせること」へのアンテナだと思う。決して損得ではなしに。

(第22回・了)

 

『「お洒落」考』の連載は今回をもって終了となります。
ご愛読いただきまして、ありがとうございました。
単行本化して弊社より発売する予定です。どうぞ楽しみに。