メメントモリ・ジャーニー メレ山メレ子

2015.10.15

05自由なハリネズミの巣箱

 大阪に、「けだもの荘」というシェアハウスがある。連載第三回に出てくる「なにわホネホネ団」で知り合った女子3人が住む、古い一軒家だ。彼女たちの家の茶の間には、生きものの画集や専門書、動物の骨、トカゲの入ったケージ、海で拾ってきた大量のウニの殻などが鎮座しており、よく言えば平成のヴンダーカンマー(驚異の部屋)である。
 住人がみんな何らかの創作やイベント運営に関わっているけだもの荘は生きもの関係者が寄ってくる磁場のひとつで、わたしも2回ほど泊めてもらったことがある。先日、生物研究者数人と押しかけて行われた宴会はもうハチャメチャに楽しかった。
 冬に京都で開催される大規模な生きものイベント「いきもにあ」で研究に関するトークをやってみたい、では見本をお目にかけようというわけで、茶の間の押入れから現れたMacモニタに映し出されたのは、「ピンこれ~ピンセットこれくしょん~」と題された、とある昆虫館学芸員さんによるピンセットへの異常なツールフェティシズムの吐露であった。「カメムシを絶滅させたくて農学部に進んだら、研究するうちにカメムシが大好きになってしまった」という彼は、仕事道具のひとつ・ピンセットに並々ならぬ執着を抱いているのだ。数十本並んだスイスや日本製のピンセットも見せてもらう。先端は日本刀をも思わせる鋭さ、刃を合わせると羽根のようにしなやかな弾性が手に返ってくる。
「院生でも研究者でも、ピンセットを選ぶ楽しみを知らない奴があまりにも多い! 選び方も研ぎ方も教えてあげたい……あと、業界が違うとピンセットへの拘るポイントも全然違うから、みんなとピンセットの見せ合いっこをしたい! 『ピンセットサロン』!! そう、略すと……」
「けだもの荘は下ネタ厳禁なのですが、帰ってもらっていいですかね?」
 危険人物たちが酒盛りをはじめ、研究の話に熱中する中で、いつの間にか丸まって寝てしまっていた。雑魚寝なのに、すごく心地よい眠りだった。自分がいてもいなくても、自分の好きな人たちが世界を続けていてくれることに安心する。目を開けて、見張っていなくても大丈夫。

 翌朝、顔に畳のあとをつけて起き上がり、お礼を言ってけだもの荘を出た。向かった先は国立民族学博物館だ。今後の連載のために、見ておきたいものがいくつかあった。
 万博記念公園を歩いていくと、木立の向こうにぬっと太陽の塔の後ろ姿が現れた。軟体動物のような胴体に描かれた黒い太陽、そして向こうを向いた金色の顔。立ち止まって、しばらく見ていた。

 

 

 こんなめちゃくちゃなものを万国博覧会というイベントの真ん中に据えてしまうような、とにかく勢いがあった時代のことを、うまく想像できない。今絶えず付きまとっているような、将来がどんどん暗くなっていくような不安を、みんな抱いていなかったのだろうか。でも、人とちょっと変わった幸せを世間にすり潰された人たちも、今よりずっと多かったかもしれない。
 お金の不安と同じくらい、寂しさを恐れている。年を取るほどに体も気も弱くなり、愚痴が増え、人を惹きつける部分が減っていくとしたら、今でも時折感じる寂しさはどんどん苛烈になっていくだろう。でも、ひとりでも楽しいという気持ちは忘れたくない。ひとりでも十分楽しめる人間が、人付き合いが苦手なままでも、強烈な才能がなくても、ふたりや三人や大勢の人とともにあることを楽しむ方法を、これから探していかないといけない。

 

 

 家探しは難航している。古くても長く愛されるような、そんな風情のあるマンションを好きに改装して住みたいのだが、まだリノベーションという言葉が一般的でなかった20年前ならいざ知らず、今や改装して高く売り出したい不動産業者との奪い合いだ。
 暇さえあれば不動産サイトを検索し、休日には内見に行く生活が1年ほど続き、目が肥えたとはいかなくても自分の好みだけは把握できた。古い学校や病院のような開放的なたたずまい、採光がよく、できれば風が通り抜ける部屋。
 ある日内見したマンションはまったく特筆すべきものがなかったが、その裏側に建っていたマンションが、好みのど真ん中だった。何の変哲もない作りだが、何の変哲もないと思わせるさりげなさこそが得難い。周辺にも緑が多く、日当たりも申し分なさそう。不動産屋の営業マンも落ち着いた感じで頼りになるので、ここに空き部屋が出たらぜひ教えてほしいとお願いした。
 すぐにちょうどいい広さの空室が出て、しかも2200万と予想よりだいぶ安い。元の予算からいって、これなら改装も欲張れそうだ。週末に元付(売主側の不動産屋)が見学会をやるというので、朝一番に行ってすぐに購入の申しこみを済ませた。重要事項報告書などは、本契約までにチェックすれば済むことだ。
 天井板を抜いて高さを出し、壁の安っぽいクロスを剥いでペンキを塗る。寝室にだけ、ウィリアム・モリスの深い森の色の壁紙を貼ったらよく眠れそうだ。南向きのワイドリビング、窓辺の床だけタイルを貼って、クワズイモや極楽鳥花の鉢を置いて熱帯雨林のような空間にしたい。持て余すくらい大きなダイニングテーブルも、この部屋でなら打ち合わせやもてなしに大活躍するだろう。
 ところが元付は「あなたは一番手の買い手ではない」という。結局、一番手と称する誰かが契約を済ませた。数カ月後、不動産を買い取って改装済みで売り出す専門業者が、その部屋にペカペカした通り一遍のリフォームを施して1200万円も上乗せして売りに出しているのを発見した。そんなバカな。その半分もあれば、あの部屋が王宮になるわ。
 苦い経験だったが、一方でわたしは「本当に欲しい家に出会ったときは、迷わず買い付けを出せる」という実感を得た。欲しくない物件を断るときも「ワガママ言ってたらいつまでも決まりませんよ」という視線にもめげず「これはいりません! もっといい物件もあったんだから、ワガママじゃありません!」と言えるようになったのだから、無駄ではない――と思いつつ、砂浜で貝殻の交換に失敗し、もともと背負っていた貝殻まで奪われて裸で右往左往するヤドカリの動画を見ては涙するのだった。

 人が家に恋する瞬間を目の当たりにした。ちょうど住まいに関する連載をしていた友人でライターの雨宮まみさんが、いきなりfacebookメッセージで「このマンション……どう思う?」と、物件情報のリンクを送ってきたのだ。
 洒落たバルコニー、築浅で、しかもブルーのモザイクタイルが貼られた入浴が楽しくなりそうなお風呂。価格も、東京では考えられないくらいお手頃だ。しかし疑問なのは、このマンションがまみさんやわたしの暮らす東京ではなく、神戸にあることだ。旅行に出た先で「この街が好きかも」と思って、ふらっと検索してしまったのだという。
「まみさん……今度『東京を生きる』って本を出すんだよね? 東京で暮らす女性の、超ソリッドなお話だったよね?」
「このタイミングで神戸でマンション買ってたら、顰蹙だよね……」
「炎上しまくって消し炭になるよ! でも面白いから買おう!」
「そんな簡単に言わないでよ!」
 無責任に煽っているとまみさんは思っただろうけど、その部屋は彼女の佇まいにとても似合っていた。何より、家を買うことなどあまり考えたことがなかったという彼女が、神戸で自分を待っているような部屋を見つけて、「別の街で暮らす」という未来を身近に感じて、可能性がスパークしているのが見えた。
 神戸マンション事件のいきさつについては、雨宮さん自身の近刊『自信のない部屋へようこそ』(ワニブックス)に書かれている。新しい人生や生活を、彼女がほの光る脇道として見つけた瞬間、横で見ていただけのわたしの額まで光が差した気がしたことをよく覚えている。

 

 

 わたしに文筆の仕事や友達、それに繋がる自由をくれたインターネットは、ある意味で住居よりも大事な「居場所」かもしれない。ウェブは蜘蛛の巣にも例えられるけれど、わたしにはミツバチの巣のようだなとも思う。スマホからTwitterのアプリを開くと、無数に並んだ六角形の穴にせわしなく出入りする人々の生活が見える。親しい人や、会ったことはないけれど尊敬している人のいるあたりは、ぼうっと光っている。
 もしこのままマンションが見つからなくても、それはそれでいいかもしれないと最近は思っている。東京にけだもの荘みたいなシェアハウスを作ってしまってもいいし、改装できるおんぼろアパートを借りて友達をだんだん入居させていくのもいいかもしれない。知り合いの年上の女性も、演劇に関わったことがきっかけで、ついに郊外に1階を丸々稽古場として使える一軒家を建ててしまったばかりだ。どれも実際には簡単なことではない。しかし、家にからめた居場所の作り方を考えるだけで、心は自由になる。
 この先、別の街、別の国にある日いきなり惚れこんで、新しい暮らしを始める可能性だってないではない。落ち葉のつまった居心地のいいハリネズミの巣箱がある日突然うなりを上げ、UFOとなって別の星系に旅立つぐらいの急展開が、自分にも待っていると信じたい。

 

 

(第5回・了)

 

この連載は隔週でお届けします。
次回2015年10月29日(木)掲載