ぼくらの『ナスカイ』ができるまで 那須高原海城(ナスカイ)卒業生 布施智史、磯村柊斗

2017.3.29

01梅佳代写真集『ナスカイ』刊行記念レポート

 

 写真家・梅佳代さんが全寮制の中高一貫男子校に通う10代の少年たちの日常を切り取ったシリーズをまとめた写真集『ナスカイ』。“ナスカイ” こと那須高原海城中学校・高等学校は、2011年に発生した東日本大震災で那須にあった校舎が被災し、キャンパス移転を余儀なくされます。その後、福島第一原子力発電所の事故の影響もあり新規の生徒募集を取りやめ、さる3月5日に最後の卒業生8名を送り出して、ナスカイはその歴史に幕をおろしました。
 『ナスカイ』の表紙は文具メーカー・コクヨ株式会社に全面的に協力をいただき、キャンパスノートを模したデザインになっています(本のデザインを担当してくださった中島英樹さんのアイデア!)。

 

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これが写真集『ナスカイ』表紙デザイン。

 

 刊行に際し、コクヨの担当の方が「ナスカイ仕様のキャンパスノートを作りましょう!」と言ってくださり、ナスカイの表紙を印刷した特別仕様のキャンパスノートを作ってくださることになったのです。そのノートが作られる過程を見学にし、最後のナスカイ卒業生となる布施智史くんと磯村柊斗くんと担任の鈴木先生とともに、滋賀の工場へ出かけました。工場見学に出かけたのはちょうど卒業式の一週間前の2月某日。布施くんと磯村くんにそれぞれ、工場見学の日から卒業式まで、ナスカイ生として過ごす最後の一週間について書いてもらいました。

 

 

ナスカイレポート
この六年間がなかったら 布施智史

 

 担任の先生から電話があったのは、二月も半ばに差し掛かった、ある晴れた日のこと。
 「今度、滋賀に行かないかい?」
 一呼吸おいて、私の口は綺麗な「は?」の形をしていた。なぜ滋賀なのか、理由を聞いてみると「そこにKOKUYO工場があるから」とまるでどこかの有名な登山家の様なことを言う先生。後から聞くと、梅佳代さんが撮られた、母校の写真集が出版されることになり、なんでもその写真集を模したキャンパスノートがその工場で作られているので是非見に行かないか、とのこと。その段階ではあまり気が乗らなかったのだが、断る、ということが苦手な私の口からは気づけば「はい」という言葉がでていた。
 しかしそんな滋賀での一日は、事前に思い浮かべていたイメージとはまるで違った良いものであった。例えるならシン・ゴジラと新小岩ぐらいの違いがあるだろう。工場ではただの紙っきれが一冊のノートになる過程を隅から隅まで見せてもらった。特にベルトコンベアを流れていく何枚もの表紙は圧巻の一言である。さらに私たちが普段使っているノートやルーズリーフの製造過程の見学やノートの耐久性を調べる実験など大変貴重な経験を沢山させてもらった。せっかくなので工場で貰ったオリジナルノートは大学生になったら使ってみようと思っている。他にも滋賀での、もはや壁と言ってもいい程の急な階段と、もはや歩く気も失せる程の冷たい床が印象的な彦根城の見学、さらには大層豪華なお肉のオンパレードの昼食などの話も控えてはいるが、字数の関係で泣く泣く割愛。「なんだ、なかなか良い旅だったじゃないか。」と思ったのはその日の夜七時半頃、多分その時間東京で一番の人口密度を誇っていたであろう田園都市線の車中であった。

ナスカイ仕様のキャンパスノートが次々に出来上がっていく!

 それから数日経ち、気づけばあと二日で高校の卒業式である。長かったのか、短かったのか、何とも濃い六年間だった。学び舎が那須、新宿、多摩と次々と移り変わってゆくという学生生活は大変珍しいものであり、その様子はまさに激動の六年間、という言葉がピッタリ当てはまるだろう。とはいっても卒業式までの二日間はこれといって書くこともなく、強いて言えば、果たして我々は誰に送られているのだろうと感じずにはいられない後輩のいない六年生を送る会と、久々に会った先輩や同級生と旧交を温めながらまったりと行った野球部のOB戦くらいである。最後の日の夜は二時間ほどではあるが、日付が変わるまで五人くらいでクラスの中での十八番とも言える海外研修の話など、六年間の思い出話をいつも通りの雰囲気で語り合った。これはなかなか良いものだったなと思っている。
 そして卒業式の当日。今までお世話になった先生方や先輩方、さらにはすでに懐かしささえ感じる同級生に、はたまた本当にこの学校のOBなのかすらもわからないほど色気づいたお兄さん達で賑わう体育館で、最後の卒業式は行われた。この時の入場行進は、一か月以上緊張感の欠片もない生活を送っていた私にとっては割と刺激的な時間として、私の元を春風の如く絶妙な速さで流れていった。練習通り、お辞儀や歩き方はばっちり、このまま清々しい気持ちで退場できると思ったが甘かった。なんと肝心の卒業証書を地べたに置いたまま帰ろうとしていたのだ。生徒が退場してパイプ椅子の下に寂しく残された卒業証書を思うとシュールったらありゃしない。危なかった。しかしタラレバ言ってもしょうがないのでこれも良い思い出として胸に残しておくことにしよう。 また卒業式後の宴で、仲の良かった同級生や親しくさせてもらっていた先輩方と昔のように楽しく話せた時間はなんとも心地の良いものだった。こんなことが出来るのも私達の学校の魅力である。
 さて、話は変わり次は梅佳代さんの話である。長きに渡り私達の日常を撮って頂いたのだが、真っ先に思うのはありがとうの感謝の気持ちだろう。お陰で形を無くす私達の母校が、写真集という形で後世に残ってゆくのだ。渋谷の丸善に置いてあったのを見て軽く感動したのは記憶に新しい。思えば私が中学二年生の頃、突如として現れたのが梅佳代さんだった。正直、慣れない環境に適応するのに精一杯だった私は写真どころではなかったため、やんわりと撮られることを断っていた記憶がある。そんな訳で中学生の頃の私は一回たりとも写真集に登場していない。惜しいことをしたものである。だがそれでも諦めず私を撮影してくれた梅さんには改めて感謝しかない。

梅さんが撮影してくれた一枚(『ナスカイ』より)。

 さて、私は今原稿の締め切りに間に合わせるべく必死にキーボードを叩いているのだが、序盤辺りで滋賀での出来事を割愛してしまったせいで、目安の字数にギリギリ届かないという状況に直面してしまっている。完全なる誤算である。何を書こうか考えていたまま長い時間手が止まっていたのだろう、どうやらパソコンがスリープ状態に突入したらしい。その黒い画面には間抜けな私の顔がぼんやりと映っている。その時なぜか改めて高校を卒業したことを実感した。思えば中高の六年間は色々な意味で私の大半を占めていた。それが無かったらどうだろう。例えるならきゅうりのないかっぱ巻きみたいなものだ。すごい話である。
 こんなくだらない例えを思いつき、妙な満足感を覚えた私はふと横の窓に目を移した。そこには今日もあの日のように雲一つない青空が広がっていた。

 

 

ナスカイレポート
卒業式までの一週間 磯村柊斗

 

 高一、高二の時あれほど早く終わってくれと願った授業も今ではすごく尊い。高校生活の幕が閉じられてからというもの、僕の価値感はとても変わりました。
 特に変わったことは、ナスカイで作った関係や貰ったものや考え方をすごく大切にしてることです。
 ナスカイを辞めていった元クラスメートのTくんからはかつてナスカイの大切さを説かれましたが、あまりに身近で当たり前のもとしてそこにあったナスカイでの生活なんて今さら大切にする気も起きず、そのことに気づかなかったのです。
 卒業する前は男子校&寮生活という道を歩んでいたにも関わらず、青春という共学でしか起こりえない(と思っていた)ことに憧れを抱き、かわいい子とはどこで知り合えるのかなーなんて今の僕にとってはとてもくだらないことにばかりに時間やお金を費やし、色んな塾に行ったりしていました。なんで男子校&寮生活を選んだのとよく聞かれるのですが、僕は中学からナスカイに入っており、親にここ以外は行かせないと無理矢理行かされることになっという主体性のないものです。でも今は後悔してません。
 身の周りの整理や料理など一人暮らしできるスキルも磨けたし、もちろん男子校&寮生活なので人間関係や部活やいたずらで何度かこじらせ、辞めたいと思ったことはありますが……
 そんな僕がどうしてナスカイでの生活に大きな価値を見い出せたのか、その経緯について卒業一週間くらい前から振り返って説明したいと思います。
 卒業一週間くらい前になると、受験生のため寮から実家に帰され(僕は推薦ですでに大学に合格していたのです)、課題に追われました。課題をやっていたときは良かったのですが、なぜか家にいると違和感があるのです。もちろんいつも居ないからという理由もありましたが、それとは別になんだろなこの感じーって考えていたら思い当たることがありました。それは孤独感を多々感じることでした。
 こんな実験を聞いたことはありますか?
 第三代プロイセン王のフリードリヒ二世は五十人の赤ちゃんを別々の部屋に隔離し、食事や排泄の処理、風呂に入れることなど生きていくために必要とされていることを許し与え、ただ一つスキンシップ、つまり人との関わりを持つことを許しませんでした。そんな人との関わりを許されなかった赤ちゃんは、一歳の誕生日を迎えることなく死んでしまったといいます。この実験が物語っているように人間は独りでは生きられません。
 そして今後生きていく中で、誰かに頼り頼られる関係になることもあるだろう。そんな時に何が大切なものだと言えるのだろうと、自分に問いました。
 そ本当に信頼できて気軽に話せる人って、ナスカイ生だけではないか?
 これから大学に入ったら上辺だけの生活をするのではないか?
 本当の自分をさらけ出すことを気にしないでいられる場所はもうないのではないのではないか?
 などと、ナスカイの大切さに段々気付き始めました。
 そんなことを考えているうちに一日が過ぎ、時々学校に来ては楽しそうに写真を撮ってくれ、おまけに写真集『ナスカイ』まで作ってくれたお人好しの梅佳代さんおよびその関係者一同様が、記念品も作ってくれるということになりました。暇を持て余していた推薦組の僕と布施くんの二人が、その生産場所である滋賀のKOKUYOの工場へ見学に行くことになりました。

行きの新幹線の中で出来上がったばかりの『ナスカイ』を見る

 KOKUYOの工場はノートやルーズリーフなどを作っており、他社と比べ丈夫でかつ紙への気配りをされています。1ページに20キロの負担をかけても破れず、記念品のノートを作るにはもってこいの工場で、白いバームクーヘンみたいな紙ロールの状態から、300冊くらいノートが作られる過程を見学し、最後は工場内のリサイクルシステムの説明を丁寧にしてもらいました。

機械が動きはじめるとあっという間にナスカイノートが出来上がる

 懐かしい写真が刷られたノートが作られていくのを見ていると、とても言葉にはしづらい感謝のような感情と、りんごの皮が綺麗に剥けた時のような爽快感が芽生えました。
 けれど重度の人見知りの僕は、時間が来たのでそのままお礼も言わず東京に帰ってしまいました。とても後悔しています、今さらですが記念品を作ってくれた一同様ありがとうございます。言いにくかったのでこの機会を使わしてもらい、お礼の言葉を言わせて頂きました。
 話はズレましたが、そうしてナスカイの大切さに気付き始め考えていると、あっという間に時間は過ぎて帰寮日になりました。この日はほとんど部屋掃除に時間を取られてしまい、何もできませんでした。
 卒業式一日前になると、六送会や卒業式の予行演習、OB戦が行われ卒業するのかーなんてみんなが口ずさむようになり、実感が湧いてきたのもつかの間、一つ一つやるべきことをチェックしていくとすぐに夜になってしまい、まるで宿題の終わっていない中学の夏休み最後の日を思い出すようでした。
 夜になると明日がナスカイ生活最後になるので、レストランで記念の色紙を書いた後にみんなで集まっていろんな話をしました。僕は今後も付き合いが途切れる事がないことを信じてます。そしていつの間にか朝になり、卒業式当日。たくさんのOBの方々が集まってくれて、とても盛大に卒業式が行われました。

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最後のホームルームで、クラスのみんなにもナスカイノートが配られた

 ナスカイで過ごした六年間は大切なものなのか? という問いは卒業式が終わりに近づくにつれ、心に訴えかけて来て、それはたしかに大切なものだという確信に変わりました。

 

 

【梅佳代さん出演イベントのお知らせ】

 今回たいへんお世話になったコクヨさんの展示イベント『コクヨハク』が、今週末3月31日(金)から東京・丸の内のKITTE 地下1階 東京シティアイで開催されます。4月1日(土)の14時からは、梅佳代さんの『ナスカイ』トーク&スライドショーもございます。終了後にはサイン会もありますので、ぜひ足をお運び下さい。詳細は以下のリンクからどうぞ!

▷コクヨの博覧会「コクヨハク」add SPICE to the day|コクヨ ステーショナリー

 なお、今回の工場見学の模様は情報サイト「inspi」でもご覧いただけます。
▷キャンパスノートとコラボした写真集『ナスカイ』物語<前編>  男子高校生・滋賀工場へ行く
▷キャンパスノートとコラボした写真集『ナスカイ』物語<後編> 写真家・梅佳代さんインタビュー

(了)