愛と誠の宗教社会学 岡本亮輔

2015.12.18

01愛と誠の宗教社会学

 20世紀末以降、宗教研究の世界では、伝統宗教や教団の形をとらない宗教的なものへの関心が高まった。理由はわりとはっきりしている。アメリカをのぞく先進国社会の多くでは、伝統宗教や宗教教団の影響が低下したためだ。
 イスラム国のニュースを目にしても、多くの日本人にとっては、どこか遠い国の知らない誰かの話のように感じるはずだ。近代化とは宗教に頼らなくても生きられるようになることだ。その意味では、当然の事態と言える。
 しかし、本当にまったく宗教なしで生きられるのか。大げさに言えば、私たち一人ひとりが生きたり死んだりすることは無意味だと割り切れるのか。無意味な人生をそこそこ器用に生きて、面倒事や不幸と呼ばれる状態を回避できれば上々だと言い切れるのか。
 そういう人もいるだろうが、そうでない人もいる。神仏が世界のあらゆる出来事を支配しているとは信じないが、何か科学では説明しつくせない次元や領域があるという思いを抱いている人もいる。こうした状況から、あらたな宗教研究の領域が開かれた。一言で言えば、宗教っぽいものへの関心の高まりだ。
 たとえば、占い、オカルト文化、ニューエイジなどだ。宗教の領域ときわめて近いが、ぴったりと重なるわけではない現象だ。教団のような明確な組織は持たないし、聖職者がいるわけでもなく、体系的な教えもない。日本の宗教研究では、特に2000年代以降はスピリチュアリティ論として展開した。筆者自身も、同じような問題意識を共有しながらパワースポットや聖地観光の調査研究を行ってきた。
 その過程で気づいたことの一つが、思い入れの重要さだ。とはいえ、「何かをやる時には思い入れが大切です」のような倫理的な気づきではない。そうではなくて、思い入れという強めの情緒が根底にある現象や文化は宗教的なものとして論じやすいということだ。音楽であれ政治であれ教育であれグルメであれ、熱狂的な集団が宗教っぽいと言われる時、そのレッテルは過剰な思い入れに対して貼られているように思われる。
 極端に言ってしまえば、既存の宗教を支えてきたのも、信仰対象である神仏や宗教者への思い入れだ。突きつめれば、論理ではない。なぜ、その宗教を信じるかと言えば、家で代々信じてきたから、親しい人がみんな信じているから、その宗教者に魅了されたから、その国では信じるように法律で決まっているからといったところだろう。信じる人の数が多ければ国教となるかもしれない。逆に信じる人数が少なく、その世界観や倫理観が社会常識と著しく対立する場合には、カルトと名づけられるかもしれない。
 この連載では、思い入れをキーワードにして、これまで宗教と呼ばれてきた領域よりも離れた場所に、宗教的なものを探してみたい。社会が成熟すると、政治信条・趣味嗜好・倫理観は多様化して細分化される。社会には色々な人が存在する。誰が何を考えているのかが分かりづらくなり、他者と十全なコミュニケーションがとれなくなる。
 多様性が高い社会では、他者と何かを共有することは難しくなる。だが副作用というか反作用として、何かを共有している人、同じものを信じている人と一緒にいることの快楽は高まる。何かを共有しているという状況そのものが価値を持つようになるのだ。同じものに強い思い入れを持つ他者は特別な存在になる。そして、思い入れで結びついた人々のつながりは、時として、宗教的と言えるような強度を持つことがある。
 何かに強い思い入れを持つことは、多様化した社会をそつなく生きるための一つの作法だ。ありとあらゆる価値観や信条や考え方を比較検討して、バランスの良いものを作り出すことは不可能だ。だったら、何か一つを思い切って選んで、それに浸りきってしまうのもありなのかもしれない。自分と同じような人たちだけのコミュニティにいれば、多様性に悩まされることもない。その意味で、何かに強烈な思い入れを持つことは有益なことだ。そして、おそらく宗教的なことである。
 とはいえ、過度な思い入れが見られる現象など無数にあり、それらすべてを取り上げられるわけがない。特定の価値観・世界観・歴史観を信じる人々は、それこそ星の数ほどいる。筆者自身も、多様化した社会の中で、偏った世界観と価値観を持って暮らしている一人にすぎない。
 筆者からすれば、過度な思い入れに見えたとしても、当事者から見れば、なんていうことのない現象かもしれない。たとえば、筆者は生まれてこの方、動物を飼ったことがない。動物関係で熱中しているのは「ねこあつめ」くらいだ。だから、一部のペット好きの人たちは過剰に動物に対して思い入れを持っているように見える。犬の散歩があるからと飲み会を切り上げ、旅行や出張の際も手間を惜しまない。しかし、ペット好きからすれば、まったく普通のことなのだろうという気はしている。どちらも適正だとも言えるし、どちらもバランスを欠いてるとも言える。
 そこで、本連載では、愛や誠といった強めの言葉と共に語られる現象に目を向けてみたい。愛も誠も一般的な言葉だが、起伏の少ない人生を送ってきた筆者は、日常会話でこの単語が出てくる場面にあまり遭遇したことがない。どちらも照れくささが先だって使えない言葉だ。
 神仏や故郷や先祖や英雄や英霊のような抽象的なものに対しても、家族や音楽や食べ物のような身近なものに対しても、筆者自身はなかなか使用できない。逆に言えば、愛や誠といった言葉やそれに近い表現が使われる時、それは何か過剰な思い入れに支えられる現象だと考えたくなってしまうのだ。
 愛と誠に注目する戦略がどこまで奏功するかは分からない。だが、一つの指標にはなるのではないかと考えている。歴史上の出来事、特定の場所や人物、自分が生まれ育った地域など、さまざまなものへの愛と誠があふれている。愛と誠をたどってゆくことで、多様性に抵抗し、世界を単純化し、自分たちなりに意味を探し出そうとする宗教的な現象が見つけられるはずである。

 

(第1回・了)

 

 

この連載は不定期更新でお届けします。
次回2015年12月25日(金)掲載